ep.400記念SS 雪原の令嬢は、知らずに受け継いでいる
今回は、本編400話記念SSとして、レティシアの幼少期を描いたお話をお届けします。
本編では語られる機会がない、六歳のレティシア。
彼女が騎士たちの訓練や鍛冶場での仕事を見つめ、小さな気付きから新しい発想へ繋げていく様子、そして少しずつ繋がり始める夢の記憶を描きました。
本編をご覧いただいている方はもちろん、このSSからでも楽しんでいただける内容になっています。
それでは、400話記念SSをお楽しみください。
城壁の上に積もった雪が風に流され、細かな白い粒が朝日にきらめいていた。
夜の間に降った雪はまだ解けず、領都の屋根や石畳にも薄く積もっている。
城の下に広がる訓練場では、朝早くから騎士たちの鍛錬が始まっていた。
木剣のぶつかる乾いた音が響き、教官たちの声が冷たい空気の中へ広がっていく。
「はっ!」
「もっと踏み込め!」
若い従士たちが汗を流しながら剣を振り、先輩騎士たちは腕を組みながらその様子を見守っていた。
訓練場の入口から、小さな足音が近づいてきた。
「おはようございます!」
元気な声に何人かの騎士が振り向く。
厚手の外套を着た黒髪の少女が雪を踏みながら駆けてきた。
ファーレンナイト辺境公爵家長女、レティシア・ファーレンナイト。
六歳になったばかりの少女だった。
「おはようございます、レティシア様」
「今日も来られましたな」
「うん!」
レティシアは笑顔で返事をすると、いつものように訓練場の柵の近くまで歩いていった。
そこは訓練する従士たちの動きがよく見える場所であり、彼女のお気に入りの場所でもある。
「昨日は鍛冶場でしたな」
「工房にも行かれていたそうですよ」
「今日は訓練場ですか」
そんな声が後ろから聞こえる。
レティシアは柵へ手を掛け、剣を振る従士たちの足元をじっと見つめていた。
木剣がぶつかっても、レティシアは従士たちの足元から目を離さなかった。
「うわっ!」
前列で打ち合っていた若い従士の木剣が弾かれた。
青年は体勢を崩して雪の上へ転がり、周囲の従士たちから笑い声が上がる。
教官は額に手を当てながらため息を吐いた。
「また転んだのか!」
「す、すみません!」
青年は慌てて立ち上がる。
レティシアは柵から離れると、とことこと青年のところまで歩いていった。
「だいじょうぶ?」
「ええ、大丈夫ですよ」
青年がしゃがむと、レティシアはその靴をじっと見つめる。
「……こっち」
「え?」
小さな指が右足の靴を指した。
「こっちだけ、へってる」
青年は驚いたように靴を裏返した。
右の靴底だけが大きく擦り減っており、雪の上に残った足跡も右だけが深く沈み、踏み込んだ場所の雪が崩れて形を保っていない。
近くへ来ていた教官も腰を下ろし、靴の裏を見つめた。
「本当ですな」
「すべるよ?」
レティシアは雪の上へ視線を移した。
右だけ、いっぱいついている。
「こっち、いっぱい」
「足跡ですか?」
「うん」
レティシアは小さくうなずいた。
「それでころぶの?」
青年は雪の上の跡を見つめ、困ったように頭を掻く。
教官は足跡をたどるように視線を動かした。
「もう一度やってみろ」
「はい!」
青年は木剣を構える。
今度は足元を意識しながら前へ出ると、先ほどよりも身体のぶれが少なくなっていた。
「あ……」
「なるほど」
教官は静かにうなずいた。
「右へ体重が寄りすぎていたか」
周囲の騎士たちも足跡と靴を見比べている。
「前も鍛冶場で工具のことを言っておられましたな」
「よく見ておられる」
「レティシア様らしいですな」
そんな声が聞こえる。
レティシアは青年の靴をもう一度見た。
「なおしたほうがいいよ」
「そうします」
青年は苦笑しながら頭を下げた。
レティシアは小さくうなずく。
もう一度靴を見ると、雪の上の足跡も右だけ深く残っていた。
レティシアは少し首を傾げ、やっぱり右だけ違うと思った。
「レティシア様ー!」
城の方から使用人の声が聞こえた。
「朝食のお時間ですよー!」
「あっ、はーい!」
レティシアはぱっと振り向く。
「またくるね!」
「はい、お待ちしております」
雪の上へ小さな足跡を残しながら、レティシアは城へ向かって駆けていった。
教官はその後ろ姿を見送ると、足元の跡へもう一度目を向けた。
「六歳であれを見るとはな」
「公爵様も驚かれるでしょう」
「……さて、続けるぞ」
「はい!」
再び木剣の音が響いた。
その夜、レティシアは暖炉の火が消えた静かな部屋で眠っていた。
窓の外では風が雪を運んでおり、城壁を叩く音だけが暗い部屋の中へ小さく響いている。
最近、夜になると同じような夢を見ることがあった。
朝になる頃にはほとんど忘れてしまうのに、目を覚ますと少しだけ気になってしまう。
白い光に包まれた広い部屋がどこまでも続いていた。
壁も床も白く、机の上には細かな線がたくさん描かれた紙が並んでいた。
その紙には見たことのない文字や記号が書かれていた。
知らない文字なのに、こわいとは思わなかった。
銀色の小さな部品が机の上に整然と並び、誰かの手がそれらを静かに組み合わせていた。
細い指先は迷うことなく動き続け、少しずつ何かの形が出来上がっていった。
やがて周囲の景色が変わり、高い建物がいくつも並ぶ場所が見えてきた。
夜なのに辺りは明るく、光る文字のようなものが遠くに浮かんでいた。
建物はどこまでも続いており、どこで終わるのかも分からない。
その下では大きな何かが静かに動いていたが、それが何なのかは分からなかった。
その場所もいつの間にか消えていき、今度は木の床が広がる静かな場所へ変わっていた。
足を開き、息を整えると、身体は自然に前へ踏み込んでいった。
手の中には何かを握っている感覚があり、腕を振るたびに床板の感触が足の裏へ伝わってきた。
息を吸うことも足の動かし方も身体は迷わず、足は自然に前へ出ていた。
同じ動きが繰り返され、身体だけはそのやり方を知っているようだった。
そして夢はそこで終わった。
レティシアはゆっくりと目を開ける。
窓の外はまだ暗く、部屋の中も静まり返っていた。
夢のことはもうほとんど思い出せない。
白かったことと、高いものがあったことだけは少し覚えていた。
「また……しらないゆめ……」
レティシアは布団を胸元まで引き寄せた。
でも、さっきの動きだけはまだ身体が覚えていた。
布団の中で小さく手を握る。
レティシアは布団へ顔を埋め、そのまま目を閉じた。
朝の鍛錬が終わりに近づくと、若い従士たちは木剣を抱えながら雪の上を歩き始めた。
踏み固められた訓練場には無数の足跡が残り、吐き出された白い息が冷たい空気の中へゆっくりと消えていく。
柵のそばに立っていたレティシアは、その様子をじっと見つめていた。
騎士たちが木剣を振る姿を見るのが好きで、気づけば毎朝のように訓練場へ足を運んでいる。
「レティシア様もやってみますか?」
若い騎士がそう言うと、父ラルフが小さく笑った。
「以前用意した木剣があったな」
騎士は訓練場の端へ向かい、しばらくすると一本の木剣を持って戻ってきた。
それは将来レティシアが剣を学ぶ日のために作られたもので、六歳の彼女でも両手で扱えるよう少し短く作られている。
「いいの?」
「まだ少し早いかもしれないが、持ってみるか?」
ラルフが穏やかな声で言った。
「うん」
レティシアは両手で木剣を受け取った。
少し重かったが持てないほどではなく、木の感触が手のひらへ伝わってきた。
何度か握り直しているうちに力の入れ方も分かり、最初よりしっかり持てるような気がした。
「好きなように振ってみなさい」
レティシアはうなずき、木剣を持ったまま前を向く。
そのまま振ろうとしたところで、ふと足が止まった。
「あれ?」
自分の足元を見下ろしながら、少しだけ足を動かしてみるが、何となく立ちにくい。
もう片方の足も少し動かしてみると、身体の揺れが小さくなり、今度はさっきより楽に立てる気がした。
「あ、こっち」
雪の上に残った自分の足跡を見比べながら、レティシアはもう一度同じ位置へ足を置き直す。
その様子を近くの騎士たちは静かに見守っていた。
木剣をゆっくり持ち上げると、自然に片足が半歩だけ前へ出た。
その方が身体は動かしやすく、木剣もさっきより振りやすかった。
「えいっ」
小さな掛け声とともに木剣を振り下ろす。
腕の力はまだ弱かったものの、木剣は大きくぶれることなく前へ下りていった。
振り終わると前へ出ていた足が自然に元の位置へ戻り、身体も最初に立っていた場所へ収まる。
「もどった」
レティシアは少し不思議そうに自分の足元を見つめた。
転びそうにもならず、身体もぐらつかず、その方がらくだった。
「……おや」
剣術師範が小さく目を細める。
しばらくレティシアの足元を見つめていたが、やがて静かな声で口を開いた。
「もう一度振っていただけますかな」
レティシアはうなずき、先ほどと同じように足を置いた。
もう一度木剣を持ち上げると、再び足が半歩だけ前へ出る。
「えいっ」
木剣は真っ直ぐ下り、振り終わると足は静かに元の場所へ戻った。
レティシアは木剣と自分の足元を見比べる。
「ふりやすい」
その立ち方の方が身体は楽で、木剣もさっきより振りやすかった。
「その動きは誰かに教わりましたかな」
師範の問いに、レティシアは首を横に振る。
「だれも」
「では、なぜそのように?」
レティシアは雪の上に残った足跡を見つめ、小さく首を傾げた。
「こっちのほうが、らく」
師範は静かにうなずく。
少し離れた場所で見守っていたラルフも、娘の足元へ視線を向けたまま何も言わなかった。
レティシアはもう一度木剣を握る。
まだ少し重かったが、最初よりずっと振りやすかった。
もう一回振ってみたいと思いながら柄を握り直すと、訓練場には木剣の音が響き、雪の積もる朝の空気の中で騎士たちの鍛錬は続いていった。
数日後、レティシアは父ラルフに連れられ、城の鍛冶場を訪れていた。
炉には赤々と火が燃え、鉄を打つ澄んだ音が工房いっぱいへ響いている。
鍛冶師たちは慣れた手つきで槌を振るい、その片隅では、見習いの少年が大きなふいごを両手で押したり引いたりしながら、休むことなく炉へ風を送り続けていた。
何度も同じ動きを繰り返す少年の姿を見つめ、レティシアは小さく尋ねた。
「たいへん?」
少年は少し照れくさそうに笑った。
「はい。でも止めるわけにはいきませんから」
近くにいた鍛冶師も苦笑する。
「火加減を保つには、誰かがずっとふいごを動かさねばならんのです。わしらがやれば、今度は鉄を打てません」
レティシアは見習いの手元を見つめると、自分の足元へ視線を落とした。
「あしじゃだめ?」
思いもよらない一言に、鍛冶場へ響いていた槌音がぴたりと止まる。
「足……ですか?」
「うん。て、つかえる」
そう言って小さな足で踏む仕草を見せると、鍛冶師たちは思わず互いの顔を見合わせた。
鍛冶師の一人が、わずかに眉をひそめた。
「……どなたに教わったのです?」
レティシアは小さく首を傾げた。
「わかんない」
若い鍛冶師が小さく息を吐いた。
「……いや、それは……」
言いかけて、周囲を見て口を閉じた。
ラルフは何も言わず、鍛冶師へ一度だけ視線を向けた。
年配の鍛冶師は腕を組んだまま黙り込み、ふいごへ視線を落とす。
しばらく眺めたあと、小さく頷いた。
「試すくらいならできますな」
鍛冶師はそう言うと、板と革紐を持ち寄り、その場で簡単な踏み板を組んでみた。
見習いが恐る恐る足を乗せると、ふいごは問題なく動き、空いた両手で別の作業までできる。
「これは便利だ。少し工夫すれば、もっと使いやすくなりそうですな」
鍛冶師たちは踏み板の位置や長さを変えながら、さっそく改良を始めた。
やがて試作が一段落すると、レティシアはふいごへ近付き、小さな手で革袋をそっと押してみる。
革袋は柔らかく沈み込み、手を離すとゆっくり元の形へ戻った。
「あ……」
レティシアはもう一度革袋を押した。
革袋は同じように沈み、ゆっくり元へ戻る。
「もどる……」
革袋を何度も押しているうちに、数日前に乗った馬車を思い出した。
荒れた道を進むたび身体は何度も座席から浮き、お尻を木の板へ打ち付けた。
毛皮や薄い詰め物では衝撃を和らげきれず、帰る頃には座っているだけでも痛かった。
「いたかった……」
呟いたレティシアは木箱へぽんと手を置き、自分が腰を下ろす仕草をしてみせる。
「これ……した」
さらに、ふいごを押してから木箱を指差した。
「これ、したにいれたら……いたくない?」
ラルフは娘の仕草を見つめ、木箱とふいごへ視線を移した。
「座る……? ああ、馬車の座席のことか?」
レティシアは嬉しそうに頷いた。
「うん」
鍛冶師たちは木箱とふいごを見比べ、革袋が沈んでは元へ戻る様子を何度も確かめた。
鍛冶師たちにとって、その動きは毎日のように見慣れたものだった。
それを座席へ使おうと言い出す者は、一人もいなかった。
「どうしてそう思ったのです?」
レティシアは少し考え込み、小さく唸る。
「……わからない。でも、そのほうがうまくいくきがする」
鍛冶師たちは黙って顔を見合わせ、一人が材料置き場へ向かると、他の者たちも無言で後に続いた。
集められた木板を使い、職人たちはさっそく試作へ取り掛かった。
まずは木板だけで支えを作り、押しては戻る動きを確かめてみる。
木板はほどよくしなるものの、何度も押し込んでいるうちに乾いた音を立てて割れてしまった。
「木ではもたんな」
鍛冶師は木板を脇へ置き、今度は薄い鉄板を持ち上げた。
一枚ではほとんどしならず、二枚でもまだ硬い。
三枚、四枚と重ねながら厚さや長さを変え、押しては確かめ、気に入らなければまた作り直す。
「……これだ」
ようやく、ほどよくしなり、力を抜けば静かに元へ戻る形が見つかる。
ラルフはその様子を見届けると、レティシアを抱き上げた。
「ここからは職人たちの仕事だ。完成したら見せてやろう」
「うん」
レティシアは少し名残惜しそうに鍛冶場を振り返り、小さく手を振ると、ラルフとともにその場をあとにした。
数日後、試作馬車が完成した。
再び鍛冶場を訪れたレティシアは、出来上がった馬車を見つけると、思わず駆け寄った。
「乗ってみるか」
「うん」
レティシアが腰を下ろした瞬間、前とは違うと分かった。
馬車が荒れた道へ入る。
石や凍った轍を踏むたび身体は浮き上がるものの、座席へ戻る衝撃は以前よりずっと穏やかで、木の板へ直接打ち付けられるような痛みも大きく和らいでいた。
レティシアは何度か座り直し、座席をぽんと押して感触を確かめる。
そのあと嬉しそうにラルフを見上げた。
「まえより、いい」
ラルフも腰を浮かせたり座り直したりしながら、小さく頷く。
「確かに違うな」
しかし、一時間ほど走ると、レティシアは少し身体を動かし、お尻へそっと手を当てた。
「……まだいたい」
今度は座席へ手を伸ばし、押して沈み方を確かめ、小さく考え込む。
その様子を見ていた鍛冶師も座席へ手を置き、静かに頷いた。
「衝撃は減りましたが、板だけでは足りませんな」
その日の夕方、自室へ戻ったレティシアは椅子へ腰を下ろした。
「かたい」
続いて寝台へ座ると、身体はふんわりと沈み込み、痛みはまったく感じない。
レティシアは椅子へ座り直してから、もう一度寝台へ移る。
もう一度椅子へ戻ると、今度は枕を抱えてぎゅっと押してみた。
柔らかく沈んだ枕は、手を離すとゆっくり元の形へ戻っていく。
レティシアは枕と椅子を見比べ、小さく呟いた。
「おいすも、やわらかくしたら?」
翌朝、レティシアは枕を抱えて鍛冶場を訪れた。
ラルフと鍛冶師たちの前で椅子へ枕を載せ、小さな手でぽんぽんと押してみせる。
「これ」
今度は椅子を指差し、それから枕を抱き締める。
ラルフと鍛冶師たちは互いに顔を見合わせた。
「板の上へ詰め物を載せるということですか」
レティシアは嬉しそうに頷く。
「うん」
家具職人と仕立て職人も呼ばれ、羊毛や羽毛、馬毛を使って厚みや詰める量を変えたクッションをいくつも作り、一つずつ板ばねの上へ載せて座り心地を確かめていった。
レティシアも一つ目へ腰を下ろした。
「んー……」
少し首を傾げると、すぐに立ち上がって隣の座席へ移る。
二つ、三つと座り比べ、最後の一つへ腰を下ろしたレティシアは、ぱっとラルフを見上げた。
「これ!」
レティシアはもう一度立ち上がる。
座り直しても、お尻は痛くない。
「いたくない!」
レティシアは嬉しそうに笑った。
鍛冶師も家具職人も顔を見合わせ、満足そうに頷いた。
「板ばねだけでは硬い。詰め物だけでも駄目ですな」
「二つを組み合わせて初めて、この乗り心地になるのでしょう」
ラルフは娘の頭を優しく撫でた。
「よく気付いたな」
レティシアは少し照れくさそうに首を振る。
「わかんない」
鍛冶師たちは顔を見合わせ、苦笑しながら頷いた。
「理屈は分からずとも、良いものは良いということですな」
誰も、その言葉へ異を唱える者はいなかった。
その日の夕食後。
暖炉の火が静かに揺れる部屋で、レティシアは母エレノアの隣へ座っていた。
窓の外では雪が静かに降り続き、ときおり風が窓を小さく鳴らしている。
エレノアは娘の顔を見つめ、穏やかな声で口を開いた。
「あなたは時々、大人でも思いつかないようなことを言うのね」
レティシアは少し困ったように首を傾げる。
「わかんない」
そう答えると、自分の手をじっと見つめた。
少し考えてから、小さく続ける。
「でもね……みてると、そうかなって、おもうの」
エレノアは優しく微笑み、レティシアの頭をそっと撫でた。
「そうやって、いつも見ているのね」
レティシアは小さく頷く。
「うん」
エレノアは小さく頷いた。
「なら、その目を大切になさい」
レティシアは不思議そうに母を見上げる。
「め?」
「ええ。人が気付かないことに気付く目よ」
レティシアは母の言葉を黙って聞いていた。
エレノアは娘を優しく見つめた。
「ファーレンナイトは、剣だけで民を守る家ではありません」
レティシアは首を傾げた。
「つるぎだけじゃ、ない?」
「ええ」
「人の暮らしを少しでも良くすることも、民を守るということなの」
レティシアは母を見つめた。
エレノアは娘の小さな手を包み込むように握った。
「だから、あなたのその目は、とても大切なのよ」
レティシアは少し考え込んだあと、小さく頷いた。
「うん」
エレノアは微笑むと、もう一度だけ娘の頭を優しく撫でた。
その夜。
レティシアは、またあの夢を見ていた。
静かな光に包まれた部屋で、一人の黒髪の女性が机へ向かっている。
机いっぱいへ広げられた図面には何本もの線が重ねられ、女性は全体を見渡しては一本線を書き加え、少し考えては引き直していた。
その横では銀色の腕が黙々と部品を組み立てている。
試作品が一つ完成するたび女性は手に取り、細かな部分まで確かめると小さく頷き、すぐ次の作業へ取り掛かっていった。
「もう少し……きっと、もっと良くできる」
その声を聞いていると、呼吸が整い、肩の力が抜ける。
もっと使いやすくし、もっと役に立つものを作りたいという考えが、自分の中にあるものとしてはっきりと意識に上る。
一度形になったから終わりではなく、使って確かめては直し、また試す。
やがて景色が揺らぎ、白い部屋は少しずつ姿を変えていく。
気付けば足元には木の床が広がり、細身の剣が手の中へ収まっていた。
柄へ触れた瞬間、身体は迷うことなく半歩だけ前へ踏み込む。
剣を振り抜くと足は自然と元の位置へ戻った。
「そう。そのほうが身体はぶれない」
優しい声が耳へ届き、胸がわずかに高鳴る。
その一言に引かれるように、もう一度剣を振ろうと腕へ力を込めた。
その瞬間、世界を震わせるような警報が鳴り響く。
穏やかだった景色は赤い警告灯と煙へ塗り替えられ、静かな部屋は一瞬で崩れ始めていった。
崩れ落ちる天井の下で、黒髪の女性は後ろにいる誰かを庇うように前へ立つ。
唇を結びながらも、わずかに笑みを残して前を見ていた。
「お願い……未来を、消さないで」
その言葉を最後に、景色は白い光へ包まれる。
光の中から、一人の少女が静かに姿を現した。
白銀の長い髪と二対の翼を見た瞬間、名を呼びかける感覚が喉元まで込み上げる。
「……セリューナ」
少女は静かに跪き、黒髪の女性へ向かって優しく微笑む。
その仕草には迷いがなく、深い敬意が感じられた。
『マザー』
その一言が耳へ届いた途端、息が詰まり、喉が固まる。
理由は分からないが、その呼び方だけは離してはいけないものだと分かっていた。
『私は、あなたを継承します』
その言葉が響いた瞬間、夢は終わらなかった。
景色は途切れることなく変わり、木の床は雪の積もる訓練場へ移っていく。
木剣を握る幼い自分が半歩踏み込み、力まず剣を振る姿が目の前に現れた。
その動きを見た瞬間、あの日なぜ自然に身体が動いたのかを思い出す。
考えて選んだのではなく、身体に覚え込まれていた動きだった。
さらに景色は鍛冶場へ移り、革袋を押せば沈み、手を離せばゆっくり元へ戻る。
その動きを見つめる幼い自分の視界に、荒れた道で揺れる馬車の座席が入り込む。
石や凍った轍を乗り越えるたび身体が浮き、何度も揺さぶられた感覚が蘇る。
見て、触れて、違いを確かめてきた積み重ねの中に、あの構造は最初から含まれていた。
革袋の沈み方も、揺れを逃がす仕組みも、知っていたものを引き出しただけだった。
そのはずなのに――
どうしてそれを、自分が知っているのかが分からなかった。
景色はさらに変わり、椅子へ腰を下ろし、寝台へ移り、もう一度椅子へ戻って座り直す。
座った時の沈み方や支え方を確かめながら違いを比べ、小さく位置を変えては感触を確かめていた。
枕を押して柔らかさを確かめる動きも同じで、指先へ伝わる感覚を見逃さないように繰り返している。
出来上がったもので終わらせず、気になるところを見つけては直し、もう一度確かめる。
同じことを繰り返しているはずなのに、座り心地はわずかに変わり、手応えが少しずつ違っていった。
黒髪の女性がゆっくりと振り返る。
その顔を見た瞬間、曖昧だった記憶が定まり、言葉が喉の奥から押し出される。
「……そうだったんだ」
レティシアは小さく呟く。
「わたし……長瀬はるなだったんだ」
レティシアは静かに目を覚まし、身体を起こして窓の外へ視線を向けた。
降り続く雪を見つめたまま、しばらく動かなかった。
400話記念SS、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回は、本編では描かれることの少ないレティシアの幼少期を書いてみました。
騎士たちの足運びに気付き、鍛冶場での仕事から新しい仕組みを思いつき、さらに馬車の乗り心地を改良していく――。
どれも「天才だから思いついた」のではなく、「よく見て、考え、試してみる」というレティシアらしさを表現したかった場面です。
また、夢の中ではこれまで断片的だった記憶が少しずつ繋がり、「長瀬はるな」という存在も明らかになりました。
このSSが、本編や300話記念SSとレティシア・ストーリーを繋ぐ一つの物語として楽しんでいただけたなら嬉しいです。
改めまして、『白銀の継承者』400話までお付き合いいただき、本当にありがとうございます。
ブックマーク・評価・感想など、一つひとつが執筆の大きな励みになっています。
これからも『白銀の継承者 - Gate of Sealed Eternity -』をよろしくお願いいたします!!




