第一部 第四章 第10話
――視界が、ゆっくりと、しかし確実に戻ってくる。
まるで深い海底から水面へと浮かび上がるように、意識の霧が静かに晴れていった。
白銀の光がまばらに揺らぎながら薄れていき、次第に現実の輪郭が、その輝きの隙間から浮かび上がる。
冷たい夜の空気が肌を撫でた。
その感触は、あまりにも鮮明だった。
湿った土の匂いが鼻腔を満たし、かすかに焼け焦げた草の匂いと混じり合っている。
遠くから、獣の咆哮が断続的に響いた。
風が木々の間を渡り、破れた布の端をひゅう、と鳴らす。
凍てつく寒気が身体の隅々にまで染み渡り、それが逆に、生きているという感覚を確かに伝えてくる。
覚醒したアリス――かつて、レティシアと呼ばれた少女は、長くて繊細な睫毛をそっと伏せた。
瞼の裏にまだ光が残っており、そこから淡く白銀の残光が零れ落ちていく。
彼女は静かに地面に手をつき、湿った土の感触を掌で確かめながら、ゆっくりと上体を起こした。
肩に絡んでいた白銀の髪が滑り落ち、その流れが夜の微光を反射して淡く光を散らす。
「……っ……ふぅ……」
深く息を吐き、肩を一度ぐるりと回す。
骨の軋む音すらしない。
折れていたはずの肋骨も、裂けていた内臓も、痛みの影すら感じなかった。
呼吸は滑らかで、筋肉の緊張はすべて解けている。
「問題なし。……いい治りっぷりね」
吐き出す息は、わずかに白い。
その声は、これまで聞いたことのないほど低く澄み、言葉のひとつひとつが空気を震わせるような重みを持っていた。
ふと、彼女は自分の声に気づく。
その響き――あの頃のもの。
威厳と静けさを併せ持つ、王祖の声。
(……声色は、あの頃の私に戻るのね……)
胸の奥で、小さな決意の灯火がぽっと灯る。
(余計な言葉は要らない。ただ、前へ進むだけ――それだけ)
視線を下げると、足元に折れた魔導剣が転がっていた。
かつて手に馴染み、幾度も命を預けた相棒。
その刃は、亀裂だらけで、もはや反射する光すら鈍い。
レティシアはゆっくりと手を伸ばし、その冷たい金属を指先で撫でた。
「……完全にアウトね」
ひび割れた剣身をひとつ息で見送り、柄を軽く振る。
カラン、と乾いた音を立てて地面に落ちた金属片が、夜の静けさの中で不思議なほど響いた。
腰にも背にも、いまは何もない。
彼女の身体を包むのは、ただ風と光と冷気のみ。
「はぁ……武器も《ヴァルキリー》もなし……素手で殴れってか。ちょっと理不尽じゃない?」
肩をすくめ、ほんの少しだけ笑う。
その笑みには、かつて戦場をいくつも渡り抜けた者の余裕があった。
だがその瞳の奥――蒼銀の輝きの奥には、燃えるような覚悟が、静かに宿っている。
ふと、空を見上げる。
星のない闇。
しかし、白銀の光だけがわずかに雲間を照らしている。
「……あ、そうだ。エーテルソード……アリスの体で、できるかな?」
そう呟くと、彼女は手のひらを空へと掲げた。
魔力の核へ意識を沈め、集中を一点に絞る。
静寂の中、空気がきいんと張り詰めた。
次の瞬間――。
手のひらの中央に、白い光が走る。
その光は一本の線を描き、音もなく空気を裂いて、純粋な魔力だけで純白の刃を形づくった。
エーテルソード。
光の剣。
その刃は現実の金属とは違い、どこか“生きている”かのように微かに脈動していた。
青白い光が刃の中心に走り、レティシアの掌の魔力と共鳴する。
「……できた。やっぱり応えてくれるのね……」
その声は懐かしさと温かさを含み、まるで遠い友に再会したような穏やかさがあった。
彼女は刃を軽くひと振りして軌跡を確かめ、次に指先をかすかに動かした。
「じゃあ……フレイム・ボールは……?」
空気がざわめく。
呼び声に応じるように、彼女の肩の周囲に小さな光の球が次々と生まれた。
それらは炎ではなかった。
高密度に凝縮された白銀のエーテルが放つ、星の欠片のような純粋な輝き。
ひとつ、またひとつ――。
数は十二に達した。
彼女の背後でそれらが静かに回転し、白銀の尾を描きながら軌跡を残す。
「え……十二……? 本当に……?」
驚きの息が漏れる。
目の前の光景は、かつての自分の常識を超えていた。
「昔は五つが限界だったのに……いったいどれだけ詰め込んでるの、アリス……」
呆れと感嘆が入り混じる声。
笑い出しそうになるのをこらえ、指先で白銀の髪をひとつ掻きあげた。
「……まあ、助かるけどね」
軽口をこぼしながらも、その表情は鋭く引き締まる。
意識を研ぎ澄ませ、周囲の魔力の流れを感じ取る。
蒼い瞳に淡い光が宿り、空気がぴんと軋むような音を立てた。
「《サーチ》――」
囁くような声が、夜の闇に溶けていく。
魔力の波紋が四方八方へ広がり、空気の流れ、生命の鼓動、術式の残滓までもが視覚化されていく。
――反応あり。
リナ小隊の面々。
リナ、エルド、フィル、マーヤ、そしてレティア。
全員の魔力反応がはっきりと捕捉された。
誰一人として、欠けていない。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
冷たい夜風の中でも、確かにそこだけはぬくもりがあった。
「……みんな、生きている……。よくやってくれてるわね」
小さく呟き、口元が柔らかく緩む。
それは、王祖ではなく“仲間を想う少女”の微笑だった。
けれど、次の瞬間にはその瞳が再び鋭く光る。
「……さて、遅れを取り戻すわよ――!」
その声は、夜の静寂を切り裂くように響いた。
空気が震え、地面に散らばる破片がかすかに浮かび上がる。
白銀の髪が風を受けて流れ、エーテルソードの刃が淡く光を放った。
レティシアは、確固たる意志を胸に、夜の闇を断ち切るように一歩を踏み出す。
その足取りは静かでありながら、確実に戦場へと向かう――“英雄”の歩みだった。
――と、彼女はふと立ち止まる。
右手に握った光の刃を見下ろし、背後で周回する十二の星々に視線だけを巡らせた。
刃の内側で流れていた青白い線が、すっと細くなる。
「派手さは要らないわね。夜は、静かに終わらせる」
囁きに応じて、エーテルソードの輪郭がほどけ始めた。
硬質の光は繊細な糸へと分解され、霜の結晶が陽光に解けるように、さらさらと空気へ溶けていく。
細糸は指先から離れ、白い吐息に乗る微粒子となって漂い、やがて彼女の胸の内へ淡い潮のように還った。
刃は音もなく消え、掌には僅かな温もりだけが残る。
背後の十二の光球も、彼女の意志に呼応して輝度を落とす。
星々は軌道を解き、ひとつずつ火照りの色を手放した。
白銀は乳白へ、乳白は薄氷のような透明へ――。
そして最後には、夏夜の蛍火に似た小さな灯が、そっと空へ昇っていく。
風が通り、灯は粉雪のようにほどけ、夜の肌理へやさしく紛れた。
(見せびらかす趣味はなかったはずよ、私)
《うん、それでいい。無駄撃ちはしない――ね、レティシア》
「ええ。必要なぶんだけで充分よ」
彼女は両の掌を軽く握り直し、指の関節をひとつ鳴らす。
外殻のような静かな《プロテス》だけを残し、余剰の光はすべて沈めた。
夜は再び闇の濃度を取り戻し、白銀だけが“輪郭”として彼女を描き出す。
「――行くわ。急いで片を付ける。みんなを、待たせたくないから」
言葉は低く短く、しかし確信に満ちていた。
踏み出すたびに、靴裏が湿土をやさしく押し、微かな波紋が広がって消える。
光も音も残さない“静かな進軍”。
夜の温度が一段低くなり、風が彼女の進路を清めるように流れた。
「レティア、リナ……もう少しだけ耐えて。今度は、私が間に合う」
白銀の影は、闇へ。
音もなく、しかし確実に。
静謐こそが最短の刃であるかのように、その身を夜へ溶かしていった。
白銀の髪が夜風にふわりと揺れ、闇の中で静かに輝いている。
その細やかな動きは、まるで生きている光のように、静寂を切り裂くかのように際立っていた。
――視界に広がるのは、まさに地獄の続きの光景だった。
森の奥、崩壊した地面の中央には、巨大な影。
漆黒の巨躯――《バロール・ビースト亜種》。
その全身を覆う装甲のような外殻は、鉄よりも黒く、魔力の奔流をまとって脈動している。
裂けた大地から吹き上がる蒸気が、腐敗した匂いと共に夜気を汚し、地面は血と魔力液でぬめり、まるで地獄の底が現実に滲み出したようだった。
バロール・ビースト亜種が、息を潜めたのち、咆哮を上げた。
その声は空気を裂き、大気を震わせ、森の木々を揺らす。
耳をつんざく衝撃波が波紋のように広がり、空気が振動し、地面までもが震えた。
その巨体の足元では、リナ小隊の五人――リナ、エルド、フィル、マーヤ、そしてレティアが懸命に踏みとどまっていた。
風圧に押されながらも、彼らはまだ武器を握り、瞳に炎を宿している。
全身が傷だらけであっても、誰一人として戦況に屈服した様子はなかった。
その姿は、まるで人の意志そのものが形を取って立っているかのようだった。
だが、緊迫した一瞬――。
レティアの膝がぐらりと崩れ落ちる。
彼女の背後から、黒く光る包丁型の片手剣が、音もなく迫っていた。
それは夜の闇よりも冷たく、まるで毒蛇の牙のように、正確に急所を狙っていた。
時間が、止まった。
世界がスローモーションのように静止し、音が消える。
ただ、空気のうねりだけが、レティアの髪をかすかに揺らす。
――その刹那。
(――さて。三百年ぶりの仕事始めといこうか)
白銀の髪の少女――レティシアの瞳が鋭く細まり、蒼銀の光が閃いた。
瞬間、空気が裂け、全身を包む魔力が爆発する。
魔力の奔流が音を持ち、稲妻のように肌を駆け抜けた。
靴底の下の地面がひび割れ、空気の密度が変わる。
夜風が一瞬で押し返され、森が震える。
――俊敏速度向上魔法。
魔力が血管の中を奔り、神経伝達を加速させる。
空気の抵抗が失われ、彼女の身体はまるで風そのものと化した。
――肉体強化魔法。
筋繊維が膨張し、骨格が光に包まれて鳴る。
呼吸と鼓動が一拍ごとに研ぎ澄まされ、力が臨界まで上がる。
――物理防御魔法。
透明な防護膜が全身を包み、光の外殻が瞬間的に形成された。
それは音をも遮断するほどの密度を持つ“静の鎧”。
三つの魔術が同時に重なり合い、レティシアの身体はもはや人の域を超えた。
生身の少女が、戦闘兵器にも等しい精密な殺気を放つ。
足元の土が、音もなく細かく砕け散った。
重力を裏切るように、彼女の姿が消える。
「――ッ!?」
次の瞬間には、刃が止まっていた。
止めたのは、白銀の髪の少女の“素手”。
彼女の細く、しかし確かな力を持つ指先が、分厚い鋼鉄の刃を、まるで玩具のように掴み取っていた。
衝撃で空気が弾け、金属が軋む音が響く。
(悪いけど……今は手加減する余裕はない)
指先に力が漲る。
その一瞬で、刃に蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
次の瞬間――鋼鉄は粉砕され、鋭い破片が光を反射して四方へ散る。
飛び散った破片が木の幹に突き刺さり、乾いた音を残す。
その光景を見たレティアの瞳が大きく見開かれ、震える息が唇の間から漏れた。
レティシアは一歩前に踏み込み、巨獣――バロール・ビースト亜種の黒い巨躯へと向き直る。
地面の砂塵が巻き上がり、白銀の光がその中心で舞う。
(フレイム・ボール)
思考が脳裏を駆け巡ると同時に、周囲の魔力が瞬時に凝縮された。
十二個の高密度エーテル球が、彼女の周囲に浮かび上がる。
それらは燃える炎ではなく、まるで小さな星々のように、純粋な白銀の光を放っていた。
空気が振動し、魔力の波が彼女の髪を舞い上げる。
右手のひらをゆっくり広げると、虚空から青白い光が集まり、一瞬で《エーテルソード》が形成された。
透明な刃がきぃんと音を立て、光の粒を散らす。
その輝きは冷たく、まるで月光を固めたかのようだった。
(動きは完全に読めている……コアの位置も昔のまま。ならば――)
地面を蹴る。
その瞬間、衝撃波が走り、足跡の周囲の砂が浮き上がる。
彼女の身体は矢のように宙を翔け、巨獣の背を踏みつけたとき、空気が鳴いた。
狙いは右腕。
エーテルソードが振り抜かれ、音すら追いつかない。
分厚い外殻ごと右腕が根元から断ち切られた。
黒い液体が噴き上がり、地を染める。
切断面からは魔力の火花が弾け、巨獣の咆哮が遅れて響いた。
レティシアは腕を返し、フレイム・ボールを一斉に放つ。
小さな光球が弾丸のように空を走り、巨獣の体内へ突き刺さる。
――閃光。
夜が昼のように照らされ、轟音が空を裂く。
衝撃波が森を抜け、木々をなぎ倒した。
光の嵐の中、白銀の髪だけが揺るがずに立っていた。
「……ッ!!」
背後から息を呑む音。
リナたちの誰かが、震える声を漏らす。
(声を出すな。今は私がやる)
心の声が静かに響く。
爆煙の向こう、白銀の残光が再び跳躍した。
エーテルソードの刃先が、巨獣の頭部を一直線に切り裂く。
黒い装甲が裂け、赤黒い光が一瞬だけ漏れた。
巨躯は崩れ落ちる前に、さらに三発のフレイム・ボールが突き刺さる。
内部から焼き尽くす光が、影を残さずすべてを溶かした。
(……やれやれ。アリス……お前の器は随分と育ったな)
《ふふっ……さすがね。あとは任せたわよ、英雄様》
(了解)
無言で頷くと、最後のフレイム・ボールを指先で弾いた。
その軌跡は流星のように一直線に伸び、巨獣の心臓部――魔核を正確に貫いた。
蒼白い光が一瞬で爆ぜ、巨影が霧散する。
断末魔すら許されず、ただ光の粒となって夜空に溶けていった。
土煙の向こう、月光が差し込む。
その中央に、白銀の髪の少女が立っていた。
微動だにせず、ただ静かに剣を下ろす。
彼女の周囲だけが、まるで別世界のように静寂に包まれていた。
崩れ落ちた巨躯の残骸を前に、リナ小隊の誰もが息を呑む。
心臓の鼓動すら遅れて聞こえるほどの沈黙。
「……助かった……っ」
レティアが胸を押さえ、かすれた声で呟いた。
その声は震えていたが、確かに生の実感を帯びていた。
「い、今の……誰……?」
マーヤの声が小さく漏れる。
彼女の手はまだ銃を握りしめたまま、震えている。
エルドは口を開けたまま動けず、フィルは信じられないという顔で呟いた。
「一瞬で……あのバロールを……嘘だろ……!」
レティアは血の滲む唇をぬぐい、前を睨みつける。
白銀の影が静かに立っている。
風が吹き抜け、彼女の髪が光を弾くたび、皆の心にただひとつの確信が芽生えた。
――あの存在は、もはや人ではない。
その異様な気配を察知したのは、人間だけではなかった。
まだ生き残っている他の《バロール・ビースト亜種》たちが、戦場のあちこちで動きを止める。
黒い眼孔が一斉に月光の下の白銀の髪を見据えた。
次の瞬間、
「オオオオオオオオ――――!!!」
恐怖と怒り、仲間の死を告げる咆哮が夜空を震わせた。
山々が共鳴し、鳥が飛び立ち、地が鳴る。
中央の白銀の影は振り返らず、無言のまま咆哮の渦へ踏み込んだ。
風を切り裂く音がひときわ鋭く響き、次の瞬間、彼女の姿は黒い群れの中に消えた。
咆哮の渦に溶けていく白銀の光。
闇夜に残るのは、ただ“戦う意志”の輝きだけだった。
リナ小隊は、ただその光景を、言葉なく見つめていた。




