第十一部 第二章 第9話
しばらくして、途切れなく続いていた襲撃の波が、ようやく沈静化した。
耳を刺す咆哮も、甲殻の擦過音も、雷撃の余韻も消え、廃墟には風の擦れる音だけが残る。
荒れ果てた街並みの中を慎重に進んだ一行は、石畳の崩れた広場跡のような場所を見つけ、そこで一度足を止めることにする。
広場は四方を半壊した建物に囲まれていたが、中央は瓦礫が比較的少なく、上空もわずかに開けている。
灰色の霧が天井の裂け目からゆるやかに流れ込み、淡い光を帯びて漂っていた。
戦闘の痕跡はあるものの、今は不気味なほど静かだ。
周囲の魔力反応も安定しており、少なくとも即座の襲撃はなさそうだった。
アリスは肩から下げていた水筒を傾け、乾いた喉を潤す。
冷たい水が喉を通り、胸の奥に溜まっていた緊張がわずかにほどける。
そのまま地図と端末を重ね、術式表示を照合する。
淡い青の光が指先に映り、瓦礫の壁面に反射して揺れた。
「この広場、旧都市の交差点跡ね。構造的には四方向に通路がある。ただ、北側は崩落で封鎖。東が最短距離だけど、魔力の流れがやや不自然……」
独り言のように呟きながらも、全員に聞こえる声量だ。
そのすぐ横で、ミレーネが結界を張り直す。
掌を掲げるたびに淡い紋章が石畳の上に走り、透明な膜がふわりと広がっていく。
幾何学模様が重なり合い、半球状の防壁が広場を包み込んだ。
「……これでよし。外縁二層、内部一層。衝撃吸収も最低限は入れてある。しばらくは、少なくとも奇襲は防げるわ。完全じゃないけど、呼吸を整える時間くらいは作れる」
そう呟いた彼女の声には、わずかな疲労と、それでも仲間を守ろうとする意志の強さが滲んでいた。
レティアは瓦礫の上に片膝をつき、銃身に付着した粉塵を丁寧に払い落としていく。
布で拭い、接合部を確認し、弾倉の残数を静かに確かめる。
その動作は無駄がなく、まるで儀式のように落ち着いている。
青い瞳にはまだ戦場の残光が宿っていたが、同時に冷静な光も戻りつつあった。
一方、ラースは背にした双剣を外して地面に置き、軽く腕を回して肩の張りを解す。
骨が鳴る。
汗が頬を伝う。
だが周囲へ向ける視線は一瞬たりとも揺るがない。
「……やっと一息だな。さすがにあの密度はきつい。だが悪くない。動きはまだ鈍ってない」
軽口を叩きながらも、足の位置は常に出口側へ向いている。
灰色の霧に包まれた都市の中で、瓦礫に囲まれたこの一角だけが、まるで戦場に浮かぶ小さな避難所のように見えた。
そんな中――。
「……あの、レティア」
ぽつりと声を上げたのはリゼットだった。
小さく息を整え、手にした魔導ライフルを膝に置いてから、彼女は静かに顔を上げる。
その視線には、戦闘中とは違う迷いがあった。
「さっき、戦闘中に……“リナさんみたい”って、仰ってましたよね。……その方、どなたなんですか? 私、あの時は聞き流したふりをしましたけど……気になって」
レティアは問いを受けて、一瞬だけ目を伏せ、彼女はそっと目を細め、柔らかく微笑んだ。
「……ミラージュ王国で行われた合同の魔物討伐演習で、一緒になった人よ。ファーレンナイト王国魔術師団の新人さんで……リナ・フローレンスさんっていうの。とても頼れる方で、射撃の腕もすごくてね。一緒に、古代遺跡の魔獣と戦ったの。崩落寸前の空間で、あの人の一発がなければ、きっと全員が飲み込まれていた」
穏やかに語るその声には、深い敬意と親しみが込められていた。
リゼットは驚いたように瞬きをし、胸の奥がわずかに温かくなるのを感じた。
「……そう、だったんですね」
彼女は小さく呟き、ライフルを握る手に自然と力を込めた。
ミレーネやラースも無言のまま耳を傾けていたが、どこか懐かしい話に触れるような穏やかな空気が、戦場の休憩所を包み込んでいた。
「リナ・フローレンス……」
リゼットの目がわずかに見開かれる。
「その名前……もしかして」
「そういえば、“フローレンス”って……」
アリスも思わず言葉を漏らす。
蒼の瞳が静かにリゼットを見つめる。
リゼットはゆっくりと頷き、少し戸惑いながらも、はっきりと言った。
「……たぶん姉です。その人、たぶん……私の、実の姉だと思います。リナ・フローレンスは、私の姉の名前です」
一瞬、誰もが言葉を失った。
突然告げられた事実に、その場の空気が戸惑うように静まり返る。
「えっ……本当に? そんな偶然、あるの?」
ミレーネが驚いたように顔を上げる。
ラースも思わず息を呑む。
レティアはそっと視線を落とし、柔らかな微笑みを浮かべた。
その笑みには、どこか納得するような色も混じっている。
リゼットは静かに頷き、指先でライフルの銃身を撫でるようにしながら言葉を続けた。
「昔、私と姉はとても仲が良かったんです。リナ姉は、私の憧れでした。射撃も魔術も、そして勉強も、全部がまっすぐで……負けず嫌いで、それでも優しくて、私が転んだら真っ先に駆け寄ってくれる人でした。私が銃を持つようになったのも、姉の背中を追いかけたからで……」
少し言葉を探すように沈黙が落ちる。
霧の中で、遠く石片が転がる音がした。
やがて彼女は細い息を吐いてから続けた。
「でも……ある日、急に“ミラージュ王国に留学する”って言われて。それきり、ぱったり連絡が取れなくなって……手紙も、魔導通信も、全部途絶えて。ずっと、何があったのかも分からなくて。私が何かしたのかって、何度も考えました。……もしかしたら、私が知らないだけかもしれませんが」
その瞳には、今もなお残る戸惑いと、長い年月押し込めてきた思いが滲んでいた。
「……だから、さっき“リナさん”って聞いて、まさかって思って。でも、レティアさんの言葉で、確信しました。姉です。間違いありません。射撃の話を聞いた瞬間、……そうだって、思えました」
アリスはその言葉に、そっと微笑んだ。
柔らかく、しかし確かな光を宿した笑み。
「……リゼット。それなら、きっとまた会えるわ。大切な人なんでしょう? あの人も、きっと同じよ。あなたがここで戦っていることを知ったら、きっと誇りに思う」
リゼットは小さく息を呑み、そしてわずかに笑みを浮かべた。
その笑みは不安と希望が入り混じったものだったが、確かに未来を見つめていた。
「……レティア」
結界に守られた広場の中央。
灰色の霧がゆるやかに流れ、崩れた石畳の隙間を淡く満たしている。
瓦礫に囲まれたその空間は、ほんのわずかな静けさを取り戻していた。
銃の整備を終えかけていたレティアに、リゼットがそっと声をかける。
レティアはやや驚いたように振り返り、青い瞳で彼女を見つめた。
「リナ姉のこと……もう少し、教えてもらえませんか? その、ミラージュで一緒に行動されたときのこととか……どんな人だったか、少しでも知りたいんです。私、ちゃんと覚えているつもりなんですけど……時間が経つほど、少しずつ遠くなっていく気がして」
その声音は静かだったが、確かな熱が込められていた。
レティアは一瞬だけ視線を落とし、やがてゆっくりと息を吐く。
「……そうね。あれは、古代遺跡の前で野営していたときのことだったわ。まだ内部には入っていなくて、外縁部の調査を終えて、その夜は簡易結界を張って休んでいたの」
霧の揺らぎが、過去の夜の冷気と重なる。
「焚き火の火が落ち着いて、見張りの交代も終わった頃だった。突然、地面が揺れたの。低い唸り声と一緒に、外縁の森側から《バロール・ビースト亜種》が現れて……結界を正面から押し破った」
広場の空気がわずかに引き締まる。
「夜襲だったから、最初は混乱したわ。視界も悪いし、布陣も整っていない。前衛は迎撃に出たけれど、押し込まれかけた。魔導ライフルの弾丸は外殻に弾かれて、瘤が脈打つたびに再生していく。あのまま押し切られていたら……本当に危なかった」
レティアの瞳に、炎に照らされた戦場の記憶が揺らぐ。
「そのとき――リナさんの声が上がったの。焦りと怒り、それに……仲間を失う恐怖が混じっていた。でも、すぐに決意に変わったわ」
一拍置き、レティアは続ける。
「リナさんは大きく息を吸って、野営地の全員に叫んだの。“魔導ライフルをやめて、属性付与魔法で攻撃して!”って」
一瞬だけ、全員が息を呑んだ。
「でもすぐに立て直した。魔術師たちは杖を握り直して、一斉に詠唱に入ったの」
地面がせり上がったように見えた。
氷の矢が外殻を穿った光景が、断片的に残っている。
「《ストーンバインド》――!《アイスアロー》ッ!って。……あの時は、押し切れると思ったのよ」
リゼットの指が無意識に銃身を撫でる。
「でも、それだけじゃ足りなかった。再生が速すぎたの」
レティアの瞳がわずかに鋭くなる。
「リナさんはすぐに次を出した。“上位詠唱組、《アイシクルランス》を!”って。六人が魔法陣を展開して、氷槍が降り注いだわ」
低い轟音だけが、強く記憶に残っている。
「その瞬間は押し返した。でも……魔力が限界に近かった」
レティアは静かに息を吐く。
「熱線が来て、爆風で何人も吹き飛ばされた。それでもリナさんは、倒れた人を支えながら叫んだの。“怯まないで! 攻撃を止めたら全滅するわよ!”って」
その声だけは、今でもはっきりと残っている。
「最後に、“騎士団は実弾狙撃、魔術師団は属性付与で援護”って指示を出したの」
リゼットの瞳が大きく見開かれる。
「混乱していた野営地が、あの声で一気に立て直された」
レティアは静かに言い切る。
「一発で変えたんじゃない。戦況を立て直す指示を、迷いなく出し続けたの。……あの人は、“撃つ人”じゃなくて、“全体を立て直す人”だった」
静寂が戻る。
「だから、私たちは持ちこたえられた。誰も逃げなかった。怖かったけど……声があったから、立て直せたの」
リゼットはゆっくりと視線を落とす。
「……姉らしいです。焦っても、最後には必ず状況を整理して、やるべきことを示す人でした。怒鳴らないけど、本当に危ないときは……ちゃんと、ああやって声を張る」
霧が淡く揺れる。
「でも……急に留学すると言って、それきり連絡が途絶えて。何があったのか、分からなくて」
アリスが静かに頷く。
「リゼット。それでも、あなたはここにいる。あの人と同じように、場を立て直せる位置に」
ミレーネが柔らかく微笑む。
「さっきのあなたの指示、ちゃんと場を見てたわよ。血は繋がってるわ」
ラースが腕を組んで言う。
「撃つだけじゃなく、立て直せるなら上出来だ」
リゼットは小さく笑った。
「……ありがとうございます」
その笑みは、幼さと強さが混じった光を帯びている。
「……会えるといいわね、ちゃんと。今のあなたで」
レティアの言葉に、リゼットははっきりと頷いた。
「……はい。今度は、背中を追いかけるんじゃなくて、並んで立てるように」
その瞳には、もう迷いはなかった。
そんな空気に包まれるなか、ラースがぼんやりと灰色の空を見上げた。
結界の膜越しに滲む光は淡く、霧に散って輪郭を曖昧にしている。
崩れた塔の骨組みが斜めに突き出し、その向こうに広がる空は、昼とも夕ともつかぬ鈍い色をしていた。
瓦礫の隙間から吹き込む風が砂塵を巻き上げ、マントの裾を揺らす。
「おいおい……女子会やってる場合か? 男共は、話に入るスキがないんだが。というか、俺たち完全に蚊帳の外なんだけど?」
わざとらしく肩をすくめ、苦笑混じりに続ける。
「いや、真面目な話をしてるのは分かってるさ。でもな、こっちはこっちで気まずいっていうか、どう入ればいいか分からないっていうか……」
ミレーネが視線だけを向け、淡々と返す。
「おしゃべりする暇があるなら、警戒と準備お願いね? 周囲の魔力反応、さっきから微妙に揺らいでるから」
その声は柔らかいが、指摘は正確だ。
ラースは一瞬だけ真顔になり、再び空気を探る。
「……ああ、分かってる。東側の崩落区画、微弱反応が二つ。移動はしてないが、静止とも言い切れない。今のところ敵意は薄いが、油断はしない」
「さすがね。そういう報告をさらっと出せるところは評価してあげる」
「お、褒められた。珍しいな」
「調子に乗らないの」
ラースが肩を竦める。
ザックが端末を掲げると、青白い表示板には戦闘ログが流れ、魔力波形が幾層にも重なっている。
「戦闘記録の整理は終わった。 熱線の照射角度と再生速度、それに魔力消耗率もまとめてある。……ただ、その名前は気になるな。偶然にしては出来すぎてる気がする」
ザックは表示板へ視線を落としながら静かに呟いた。
その横で、ラースが苦笑を浮かべる。
「いや、俺も正直驚いたけどさ。姉妹で再会って、なんか物語みたいな話だよな。崩壊した廃都で行方不明の姉と再会とか、吟遊詩人なら飛びつきそうだ」
レティアが軽く睨む。
「茶化さないで。真面目な話をしてたんだから。あの夜のことは、軽く扱える話じゃないわ」
「分かってるって。 別に馬鹿にしてるわけじゃない。ただ、こんな場所でそんな話ができるって、すごいことだと思ったんだ。普通なら、生き残ることだけで精一杯だろ?」
ラースは苦笑しながら頭を掻いた。
リゼットは小さく首を振り、柔らかく微笑む。
「……いいんです。むしろ少し笑ってもらえた方が楽になりますから。ずっと張り詰めていると、心の方が先に壊れてしまいそうですし」
その言葉に、その場の空気がわずかに和らぐ。
アリスも静かに頷き、仲間たちへ視線を向けた。
蒼い瞳が、ひとりひとりの表情を確かめるようにゆっくりと巡っていく。
「そうね。緊張ばかりじゃ持たないわ。さっきの戦いだって、全員が限界近かった。こうして話せる時間も、大事にしたい。笑えるなら、笑っておきましょう。次は、もっと厳しいかもしれないから」
その声は穏やかだが、芯は揺れない。
会話がひと段落すると、リゼットは再び魔導ライフルの手入れに戻った。
分解された部品を丁寧に拭き、魔力導線の歪みを確認し、コンデンサの残量を測る。
細かな金属音が、静かな広場に規則正しく響いた。
ラースは外縁へ歩き、瓦礫の上に立って視界を確保する。
ザックは端末の感知範囲を広げ、魔力波形のノイズを除去する演算を走らせる。
ミレーネは小さな治癒陣を足元に展開し、微細な疲労を少しずつ抜いていく。
休息の時間は限られている。
だが、この静かなひとときは、彼らにとって確かな回復のひと時だった。
「……じゃあ、そろそろ移動を再開しようか」
アリスが立ち上がり、地図を広げる。
羊皮紙の端が風に揺れ、古びた廃都の輪郭が浮かび上がる。
崩壊した街区、沈んだ広場、割れた塔。
その中に、淡い光で記された転移装置の位置。
「現在地はここ。廃墟群の西端。第四層への入口、つまりこの層の出口に設置された転移装置は、南東側の区画にあるはずだよ」
ザックが端末の投影図を重ねる。
「地形スキャンと一致してる。途中に崩落地帯が二か所。魔力濃度は徐々に上昇傾向。転移装置周辺は《安全地帯》扱いのはずだけど、絶対とは言い切れない」
レティアが頷く。
「記録上は、魔獣の侵入が制限される結界があるわね。古代式だけど、まだ機能している可能性は高い。そこに入れれば一度態勢を整えられるはずよ」
ラースが剣を肩に担ぎ、低く言う。
「ただし、入口前は待ち伏せの定番だ。安全地帯の手前こそ一番危ない。気を抜くな」
「分かってる。だからこそ、慎重に行く」
アリスは全員を見渡し、小さく息を吸った。
「目的地は、第四層への入口。転移装置が設置された安全地帯まで――慎重に進みましょう。索敵は二重。前衛は散開気味に、でも孤立しない距離で。異変があれば即時報告」
「了解」
「了解、隊長」
仲間たちの返答が重なり、隊列が整う。
前方にラースとレティア。
中央にアリスとリゼット。
後衛にザックとミレーネ。
崩れた石畳の道を踏みしめるたび、砂塵が舞い上がる。
割れた窓枠が風に軋み、遠くで瓦礫が崩れる小さな音がする。
霧は低く漂い、足首をかすめるように流れていた。
廃墟の間を縫うように、彼らは進行を再開する。
遠く、霞んだ瓦礫の彼方に、うっすらと魔力の明滅が見えた。
淡く脈打つ光は、規則的に揺らいでいる。
それは確かに出口への目印だった。
だが――同時に、第四層へ続く“試練の門”を示す光でもあった。
足音だけが、薄闇と霧の中に重なる。
鎧の擦れる音、布が揺れる音、呼吸の気配。
第四層への入口は、すでに目前だ。
だが、その先に待つものが決して容易でないことを、全員が胸の奥で理解していた。
【お知らせ】
ep.399より、第十一部第三章が開始となります。
次話、ep.400からは夜18時の更新を取りやめ、以後は毎朝7:30の1回投稿へ変更となります。
※ep.400より更新時間が変更となります。




