第一部 第四章 第8話
――弾倉、空。
金属が乾いた音を立て、フィルの魔導ライフルが沈黙した。
撃鉄を引いても、銃身は何も応えない。
魔力弾も実弾も底を突き、焦げた匂いと硝煙の残り香だけが戦場に漂っていた。
リナ小隊の面々は、息を荒げながら顔を見合わせた。
もはや遠距離火力は尽き、頼れるのは自らの魔力と剣だけ。
その事実が、冷たい現実として全員の胸を締めつけた。
そのとき、脳裏をよぎるのは――あの瞬間だった。
アリスが、あの巨躯の剣撃を受け止め、そして壁へと叩きつけられた光景。
衝撃音がまだ耳の奥に残っている。
彼女が立っていた場所には、いまも粉塵が舞っていた。
誰もが叫びを飲み込み、ただその名を心で呼んだ。
そして今――リナ小隊の面々は、絶望の淵に立たされていた。
それでも、前線にはまだ立ち塞がる影がある。
エルドは歯を食いしばり、手にした長剣を力いっぱい振り抜いた。
黒い巨獣の脚部に叩き込まれる一撃。
だが刃は硬質な外殻に弾かれ、鈍い火花が散るだけだった。
「効かねぇな……!」
息を荒げ、額から血が伝う。
それでもエルドは一歩も退かず、踏みとどまる。
「……下がる気はねぇぞッ!」
その隣で、フィルが地面を蹴り上げた。
魔導ライフルを放り捨て、両掌に魔力を集中させる。
黒土がうねり、圧縮され、やがて巨大な槌の形を成した。
「砕けろ……っ! せめて足止めくらいには……!」
渾身の一撃が巨獣の膝に叩きつけられる。
しかし堅牢な外殻はわずかにひびを刻むのみで、苦痛の気配すら浮かばない。
次の瞬間、巨獣の脚が反撃のように振り抜かれた。
大地が唸りを上げ、砂煙と衝撃が二人を襲う。
吹き飛ばされそうになりながらも、二人は地を蹴り、再び立ち上がる。
焦燥と決意が入り混じり、空気が張り詰めた。
そのとき、背後から冷静な声が響いた。
「エルドさん、フィルさん。――そのまま抑えて。
後衛が陣を完成させるまで、前を離れないで」
リナの声だった。
決して大声ではない。
だが、その声音には確かな信頼と覚悟が宿っていた。
その一言で、混乱していた空気が一瞬にして引き締まる。
リナは短杖を構え、素早く足元に魔法陣を描いた。
呪文の詠唱は短く、淀みがない。
「《ストーン・バインド》」
淡い光が地表を走り、土の紐が幾重にも絡み合う。
巨獣の足首を締め上げ、わずかに動きを封じた。
彼女の額に汗が滲む。
拘束の効果が短時間であることを誰よりも理解していながら、瞳には迷いがなかった。
「絶対に……ここは通させない」
その声は静かで、凛としていた。
命令ではなく、誓いのように響く。
夜空を裂く轟音が響き渡る。
怒りに満ちた咆哮が戦場を揺らし、巨獣が前足を振りかぶる。
「くそっ……誰か、誰か来てくれ……!」
エルドが声を張り上げた。
だが、この野営地に援軍は望めない。
逃げ場もなく、退路もない。
ただ、彼らだけが死地に立ち、――そしてなお、決して膝を折ろうとはしなかった。
その時――鋭く張り裂けるような詠唱が、戦場の轟音を切り裂いた。
「――《氷牙連鎖・フロストバインド》!」
冷気を帯びた魔力の奔流が一瞬にして辺りを覆う。
地面が振動し、青白い光が地を這った。
次の瞬間――足元から無数の氷の鎖が噴き出し、蛇のようにうねりながら巨獣の体を絡め取る。
ギギギ……ッ! と耳を裂く音が響き、凍結の波が脚から胴体へ、さらに肩口へと駆け上がった。
氷の結晶が音を立てて成長し、亀裂の走った外殻に食い込んでいく。
地面が爆ぜ、土塊が跳ね、振動が胸の奥まで響いた。
「遅れてごめん!」
振り返ると、月光を背にした一人の少女が立っていた。
青のマントを翻し、淡い光の中にその姿を浮かび上がらせている。
栗色の髪が夜風に揺れ、蒼い瞳が凛然と輝く。
レティア――アリスの親友であり、幼少の頃から互いを支え合ってきた少女。
学院でも屈指の高位魔導師。
その立ち姿だけで、戦場の空気が一瞬で変わった。
「マーヤさん、左の脚に魔力を集中させて!」
澄んだ声が戦場に響く。
的確な指示、迷いのない口調。
その声に呼応するように、マーヤが杖を握り直した。
「わ、わかってるってば――!」
マーヤは必死に詠唱を続け、魔力を大地に叩き込む。
杖先から走る光が地を裂き、術式陣が幾重にも展開されていく。
――ドガァァン!
地面が唸りを上げ、衝撃が亜種の脚元を直撃した。
土と氷の連鎖が交錯し、巨獣の足を引きずり込むように締め上げる。
轟音と土煙が舞い上がり、黒い外殻の隙間から霜が吹き出した。
その圧力に耐えきれず、獣の脚がわずかにぐらつく。
「今よ、押し切って!」
レティアの声が高く響いた。
その瞬間、小隊の士気が一気に燃え上がる。
誰もが息を整え、残った魔力を絞り出すように詠唱を再開した。
氷の鎖がさらに絡みつき、大地の隆起が獣の体を押し上げ、動きを鈍らせる。
黒い殻がきしみ、魔力液が溢れ、熱気と冷気が交錯した。
「……まだ……倒れないの……?」
マーヤが苦しげに呟き、唇を噛む。
だが、その目には決意が宿っていた。
「リナ小隊! いける――押し切れ!」
レティアの叫びが戦場を貫いた。
その声に、リナが短く頷く。
「全員、連携を維持して。
詠唱は途切れさせないで――一撃で仕留めるわ」
リナの冷静な号令が、嵐の中でひときわ強く響く。
戦士たちの動きが再び揃い、氷と土の連鎖は黒い外殻に食らいつくように締め上げた。
砕け散る破片、迸る魔力。
倒れはしないが、明らかにその動きは鈍っている。
全員がそれを感じ取った。
「ここで止める! 絶対に通させない!」
リナの声が再び戦場に轟いた。
その一言が全員の心を貫き、詠唱に新たな力を与える。
マーヤは舌をちょっと出して苦笑しながらも、杖を高く掲げ、再び詠唱を叩き込んだ。
「――《アイス・ランス・ブレイク》ッ!」
氷の光槍が無数に生まれ、空を裂いて巨獣の脚に突き刺さる。
連鎖的に爆ぜる魔力光が夜を照らし、白い閃光がまるで希望の炎のように戦場を染め上げた。
「……必ず、守ってみせるから……!」
吹き荒ぶ冷気の中、マーヤの声は震えながらもまっすぐだった。
戦場の隅々にまでその響きが伝わり、仲間たちの胸の奥で小さな灯が灯る。
最初の攻撃を終え、レティアは荒い息を整えながら戦場を見渡した。
砕けた石の破片が地を転がり、土煙が薄靄のように視界を曇らせている。
焦げた匂いと血の臭気が混ざり合い、冷たい夜気の中で重く淀んでいた。
視線の先――傷だらけのエルドがいた。
頬に血を伝わせながら、彼はなおも剣を離さず、
その両手には震えと共に確かな意思の力が宿っている。
フィルは片膝をつきながら息を荒げ、それでも詠唱を続けていた。
足を引きずり、肩は焼けたように痛んでいるはずなのに、指先からは弱々しくも確かな魔力の光が零れ落ちていた。
それは消えかけた蝋燭の灯にも似ていたが、まだ、消えてはいなかった。
リナは前線から一歩も退かず、疲弊した身体を押して、震える声で的確に指示を飛ばし続けている。
その声には焦りよりも、仲間を繋ぎとめる“責任”が滲んでいた。
――皆、生きている。
まだ、誰一人として諦めてはいない。
その事実が、レティアの胸にわずかながら温かな灯をともした。
ほんのひと呼吸の間だけ、冷たい戦場に安堵が差し込む。
だが、すぐに胸の奥でぽっかりと空いた穴のような違和感が疼いた。
その欠落が、静かに意識の底から這い上がってくる。
思い出す。
――ここにはいない、最も頼もしい存在の不在を。
(アリスがいない……私がいない間に……)
胸がきゅうと締めつけられる。
いつも隣にいて、背中を押してくれた人。
同い年でありながら、自分よりもずっと強くて、優しくて、どんな闇の中でも迷わず前に進む、その人が――いない。
不在の重さが、痛みとなって心に沈んでいく。
まるで呼吸の一部が欠けたような、息苦しいほどの空虚。
しかし、目の前の現実が、それを許さなかった。
夜空を焦がす咆哮が遠くで轟き、吹き荒れる氷の鎖と土塊の中、レティアは顔を上げた。
蒼い瞳が、まっすぐに前を見据える。
その光は、涙ではなく、決意によって強く燃えていた。
隣で必死に詠唱を重ねるマーヤへ、彼女は声を投げかけた。
「……マーヤさん、アリスは?」
その声音は震えていたが、かすかに祈りのような響きを含んでいた。
マーヤは土煙の向こうで眉をひそめ、焦燥に満ちた表情で周囲を見回す。
焼け焦げた風が吹き抜け、髪を乱し、目に砂が入り込む。
「えっ……リナさん、アリス……どこ……?」
氷の鎖が軋み、巨獣の低い唸りが空気を震わせる。
仲間たちの詠唱が交錯し、魔力のざわめきが耳を刺す。
その喧騒の中――誰一人、「ここにいる」と答えられる者はいなかった。
マーヤの動きが一瞬止まる。
握っていた杖がわずかに傾き、振りかざしていた土塊が力を失い、崩れ落ちながら空気に溶けていく。
レティアは唇をきゅっと噛みしめ、淡く蒼い瞳を大きく見開いた。
――アリスが、いない。
その確かな現実が、胸の奥で鈍い音を立てて落ちていく。
誰もが息を詰め、声を失った。
重苦しい沈黙が戦場全体を覆う。
氷の結晶が砕ける音だけが、静寂の中に響いた。
冷たい夜気よりも、ずっと重く痛烈に胸を突き刺す沈黙。
「……アリス……どこ……?」
マーヤのかすれた声が、風に流されながら消えていった。
氷と土が混ざり合う戦場の喧騒に、その声はあっけなく飲み込まれる。
あれほど、常に皆の前に立ち、どんな時も迷わず導いてくれた彼女が――今、この決定的な瞬間にいない。
その現実が、レティアの胸を深く締めつけた。
恐怖ではない。
痛みでもない。
ただ、どうしようもなく悔しかった。
(……私が、しっかりしなきゃ……!)
レティアは息を吸い込み、乱れた呼吸を無理やり整える。
冷気が肺を刺すように痛い。
だが、その痛みさえ、覚悟を確かめる証のようだった。
目の前のバロール・ビースト亜種を鋭く睨み据える。
その巨体の影が月光を遮り、黒く蠢く悪夢のように見えた。
レティアは震える手を伸ばし、マーヤの肩にしっかりと置く。
「マーヤさん、大丈夫。
今はアリスの分まで――私たちがやるしかない」
その声は静かで、揺るぎなかった。
マーヤは一瞬だけ怯えたように目を瞬かせたが、すぐに唇を噛み、強くうなずいた。
その瞳には、もう迷いも怯えもない。
じわりと土の魔力が再び彼女の体に宿り始め、足元の大地がかすかに震えた。
レティアは両手を前に掲げ、集中した魔力を空気中の水分に同調させる。
周囲の温度が一気に下がり、白い霧が彼女の周りを包み込んだ。
凍てつく音と共に、氷の剣がその手に形を成す。
月光を反射し、刀身が青白く輝いた。
マーヤは背後で杖を大きく振りかぶり、大地に新たな紋章を刻み込む。
足元の大地が低く唸り、裂け目から赤い光が漏れた。
――いないのなら、信じるしかない。
必ず戻ってくる。
あの人は、私たちを――決して見捨てない。
轟音と共に、氷の剣と土の紋章が同時に爆ぜた。
光と影の奔流が交錯し、凍結と振動の衝撃波が巨獣の黒い外殻を貫いた。
爆ぜた魔力の閃光が夜空を裂き、まるで月明かりが戦場に降り注ぐかのように、白い光が全てを包み込む。
氷が砕け、風が鳴き、地が叫ぶ。
その中心で――レティアの瞳は、どこまでも凛と澄んでいた。




