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第一部 第四章 第7話

 香り高いお茶をもう一口含み、アリスは微かに震える手でティーカップをそっと持ち上げた。

 指先に伝わる陶磁の感触は、まるで冷たい光を宿しているかのように滑らかで、微細な震えがそのまま手の内で響いた。


 湯気がゆらゆらと立ち上り、その向こうに映る二人の少女の穏やかな笑顔が淡く揺らめくたび、彼女の胸の奥では言葉にならない感情の波が静かに渦を巻いていた。


 安堵、期待、恐れ、そして名もないざわめき。

 それらが混ざり合い、まるで心の奥に新しい風が吹き抜けるような感覚が広がっていく。


 それは痛みを伴いながらも、不思議と心地よい。


「……あの……どうして……私の名前を知ってるんですか」


 声を紡いだ瞬間、自分の声が小さく震えていることに気づき、アリスは思わず視線を落とした。

 唇は乾き、言葉の余韻が白い空気に溶けて消えていく。

 心臓の鼓動が自分でもうるさいほどに響き、その鼓動の音が、この静寂の世界ではまるで鐘の音のように感じられた。


 問いを口にすること自体が、胸の奥を掴まれるように苦しかった。

 言葉が喉を通るたびに、かすかな痛みと共に過去の記憶が揺らぐ。

 この白い世界では、呼吸の音すらも自分に跳ね返る。

 息をするたび、吐息が光の粒となって散り、まるでこの場所そのものが自分の心の奥に繋がっているかのようだった。


 しかし、それでも――答えを聞かずにはいられなかった。

 胸の奥に芽生えた不安が、静かに形を成し、言葉を押し出す。

 それは恐怖ではなく、“確かめたい”という願いだった。


 二人の少女は、穏やかな空気の中で視線を交わす。


 彼女たちの動きはあまりにも滑らかで、光の粒が舞い散る中、その表情ひとつさえも絵画のように美しかった。

 その目配せはまるで、長い年月を共にした姉妹が、言葉を交わさずに理解し合う瞬間のようだった。


 一瞬、世界が完全に静止したように思えた。

 風も音もない。

 光の粒子が空中で留まり、白の海が息を潜める。

 時間そのものが、この一瞬に吸い込まれたかのように止まっていた。

 アリスは喉の奥で息を飲む。


 そのとき――ロングヘアの少女が、静かに唇を開いた。


「だって、アリスはアリスだからよ」


 その声はまるで水面を撫でる風のように柔らかく、同時に心の奥底に届く響きを持っていた。


 ひとつの言葉が発せられるたび、世界がわずかに震える。

 空気の粒子が揺らぎ、白い光の波紋がアリスの周囲を包み込む。

 その言葉には、説明を超えた確信があった。


 まるで運命そのものが、当然のように語っているような声。

 理屈も証拠もいらない――“存在の肯定”そのもの。


 アリスの胸が、静かに疼いた。

 胸の奥で何かが軋み、押し寄せる感情が痛みに似た温かさを持って広がっていく。


 ショートヘアの少女が小さく頷き、穏やかな笑みで言葉を継ぐ。


「まずは、今のあなた自身のことを整理してあげたいの」

「あなたの名前は――アリス・グレイスラー」

「人族で、十七歳。ファーレンナイト王立魔導学院に通い、探索者育成部に所属している学生」


 その声は、どこか遠い夢の中から響くようだった。

 懐かしさと現実が入り混じる、温かく確かな響き。


 アリスの胸に、その名が刻まれるたび、自分という存在が形を取り戻していくような感覚に包まれる。


「学院では成績優秀。剣と魔術の両方を修め、

 誰よりも努力を惜しまない。

 それに……仲間を信じ、誰かが傷つけば迷わず駆けつける。

 そういう子なのよ、あなたは」


 ショートヘアの少女の声は、まるで幼い日々を語る母のように優しい。

 アリスの喉が詰まり、何かを言おうとしても言葉にならない。

 その響きが、アリスの中に眠る“現実の記憶”を呼び覚ます。


 仲間と笑い合った日々。

 レティアの笑顔。

 リナの真剣な瞳。


 そして、戦場で感じた恐怖と誓い。

 それらが次々に胸の中で浮かび上がる。


 まるで忘れていた自分自身を、ひとつずつ確かめられているような――そんな感覚。


 胸の奥に灯がともる。

 アリスは胸の奥でざわつく何かを押しとどめられず、震える指先でそっと胸を押さえた。


 自分の名前が、ここで呼ばれている。

 この白い世界の中でも、確かに“アリス”という存在はここにいる。

 それだけのことなのに、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


「煌めく金髪のロングヘアに、澄んだ蒼い瞳。

 滅びた王家の血筋を遠くに継ぎ、気品を纏いながらも……

 普段は少しおっとりしていて、誰にでも優しい――そんなあなたなの」


 ロングヘアの少女の声は、春の日差しのように穏やかだった。

 言葉のひとつひとつが柔らかく、アリスの心に染み込んでいく。


 その一言ごとに、アリスの記憶の奥底に“自分”が形を取り戻していく。

 彼女は目を伏せ、こらえきれずに静かに涙をぬぐった。

 涙は頬を滑り、白い大地に落ちた瞬間、光の粒へと変わり消えた。


「そして……あなたは、グエン・グレイスラーの孫娘でもある」


 その名が告げられた瞬間、アリスの瞳が大きく見開かれる。

 胸の鼓動が一瞬で跳ね上がり、全身に血が巡る音が聞こえる気がした。


「おじい様を……ご存じなのですか」


 ロングヘアの少女は頷き、静かに語り始める。

 その仕草はどこまでも優雅で、声には深い敬意と温かさが込められていた。

 それはまるで、長い時の彼方から物語をすくい上げるような口調だった。


「グエン・グレイスラー――二十五年前の“ミラージュ鉱山視察襲撃事件”

 ミラージュ王国の国王が新鉱山を視察していた際、ザンスガード帝国軍が襲撃を仕掛けたの」


 語られた瞬間、白の世界の空気が微かに震えた。

 光の粒がゆらめき、周囲の空間がゆっくりと別の色を帯びていく。

 淡い白が灰に変わり、そこに幻のような映像が浮かび上がった。


 炎が吹き荒れる。

 鉱山を囲む岩肌の上に黒煙が渦巻き、火の粉が舞っていた。

 遠くで爆音が響き、風が血と硝煙の匂いを運ぶ。


 その中で、一人の男が立っていた。

 金の剣を掲げ、濛々たる煙の中に敵影を捉える。

 彼の瞳はまるで灼けた鋼のように鋭く、

 その立ち姿だけで戦場の空気を一変させるほどの威圧を放っていた。


「偶然近くで演習中だったグエンは、直属の私兵部隊を率いて即座に出動し、劣勢の中で剣一本を手に形勢を覆し、王を救い出したのよ」


 少女の声と共に幻の中で剣が閃く。

 金の光が一瞬で闇を切り裂き、数十の敵兵が薙ぎ倒される。

 彼は一歩も退かず、ただ前へ。

 その姿は“戦うために生まれた者”の純粋な形を体現していた。


 白い空間に響く剣戟の音は、やがて静寂の中へと溶けていく。

 光景が霧散し、再び穏やかな白が世界を包んだ。


「その功績で、彼はファーレンナイト王国から準男爵位、ミラージュ王国からは名誉騎士伯位を授かった

 彼は元統合師団団長、“剣鬼グエン”と呼ばれた武人」


 ロングヘアの少女の声に、どこか誇りが滲む。

 それは敬意だけではなく、深い敬愛の響きを帯びていた。


「彼は誰よりも厳格で、己の信念を決して曲げなかった。

 しかしその一方で、家族には驚くほど優しくてね。

 戦場で見せる鋭い眼差しが、孫娘を前にすると途端に柔らかくなるの。

 叱るときでさえ、目尻にはいつも笑みが浮かんでいた」


 ショートヘアの少女が微笑み、静かに付け加える。


「剣鬼――そう呼ばれながらも、あなたの笑顔ひとつで刀を納めるような人だったのよ」


 アリスの胸の奥が熱くなった。

 祖父の面影が、ぼんやりと浮かび上がる。


 いつも背筋を伸ばし、無駄な言葉を嫌う厳格な人。

 けれど、幼い頃、訓練を終えた後にくれた飴玉の甘さを、今も覚えている。


 その最後の言葉に、アリスの喉が詰まり、呼吸が震えた。


「……そんな……私の……おじい様のこと……」


 声は涙に溶け、消え入るように空へ流れた。

 頬を伝う雫が白い光に溶け、まるで祖父の手が優しく撫でたように頬を温めた。


 二人の少女は穏やかな笑みを交わし、まるでその感情を肯定するように頷いた。


「だからこそ、アリス。あなたがここにいるのは、決して偶然ではないの」


 ショートヘアの少女が静かにティーカップを揺らすと、香りがふわりと広がった。


 それは紅茶ではなく、どこか懐かしい花の香り――

 まるで春先、祖父の庭で嗅いだ白百合の匂いのようだった。


「学院でのあなたはすごいわね。魔術部門三位、剣術二位、そして総合一位」

「普段は穏やかなのに、戦闘では誰より冷静で、正確で、そして強い」

「それに……前世――詳しくは後で話すけれど――無意識のうちに積み重ねた知識が、今のあなたの“力”を作っているの」


 ロングヘアの少女が軽く笑みを浮かべ、テーブルを指で軽く叩く。

 その指先が奏でた音は、まるで過去と現在を繋ぐリズムのように柔らかだった。


「そういえば……《閃光のアリス》という名を、聞いたことがあるわ」


 ショートヘアの少女が、少し懐かしそうに微笑む。


「学院に入る前、冒険者として活動していた頃――

 あなたが放つ剣と魔力の光が、夜闇を切り裂く“閃光”のようだったから。

そして、あなたの移動速度があまりにも速いことから"閃光”と。

 それを見た仲間や冒険者たちが、いつの間にかそう呼ぶようになったの」


 ロングヘアの少女も頷き、静かに続ける。


「恐怖と絶望の中に差し込む、一筋の光。

 その名は、あなたの戦い方そのものを象徴しているのよ。

 ――速さではなく、希望を与える光として」


 アリスは一瞬、息を呑んだ。

 遠い記憶の中で、薄暗い洞窟を駆け抜けた日が蘇る。

 仲間の悲鳴、血の匂い、そして己の剣が放った光。

 闇の中で、確かに“誰かの希望”でありたかった自分を思い出した。


 小さな冗談めいた声に、アリスは苦笑しそうに瞬きをした。

 けれど、次の瞬間に告げられた言葉が、世界の色を変えた。


「――アリス。

 あなたは、ただの学院生でも、偶然の生まれ変わりでもない」


 ロングヘアの少女の声が、空気そのものを震わせる。

 その一語ごとに、白い空間がわずかに波打ち、光の粒がゆらりと揺らめいた。


「幾千の命が散り、幾百の祈りが交錯した戦の果てに――

 ひとりの少女がこの大陸を救った。

 それが、“レティシア・ファーレンナイト”。

 そして――その魂こそ、今ここにいるあなたなのよ」


 言葉が降り注ぐたびに、世界の光が重なり合う。

 白が金に、金が蒼銀に染まり、アリスの頬を淡く照らした。

 胸の奥で、何かが強く鳴り響く。


「レティシアって、……王祖様?」


 アリスの唇が震えた。

 その名を発した瞬間、空気がきらめき、足元から淡い光が立ち上る。

 彼女の声はかすかに掠れていたが、確かに響いた。

 まるでその名を呼ぶことで、長く封じられていた扉が開いたかのように――。


「そして……レティシア・ファーレンナイトは私」


 ロングヘアの少女は右手を胸に当て、静かに目を閉じた。

 その姿は祈りにも似て、神聖な輝きが彼女の全身を包み込む。

 光は彼女の髪を撫で、ゆるやかに広がっていった。


「さらに遡れば、“長瀬はるな”――地球という世界で、軍事用ロボット研究者にして剣術家だった。その私が、もうひとつのあなた」


 アリスの瞳がわずかに見開かれる。

 脳裏をかすめるように、知らないはずの光景が流れた。

 無機質な研究室。

 白い光。

 鋼の机の上に散らばる設計図――。


「私が……長瀬はるな」


 二人の声が重なり、共鳴が空間を満たす。

 その共鳴は光となって波紋を描き、アリスの足元から天へと広がった。


「うそ……そんなの……私が……」


 アリスの言葉は震え、視線が宙を彷徨う。

 信じたくない――けれど、心の奥で何かが呼び覚まされる。

 指先が微かに熱を帯び、心臓の鼓動がゆっくりと加速していった。

 瞳の奥に宿った蒼が、わずかに白銀を帯び始める。


 ロングヘアの少女――レティシアが静かに言葉を続けた。


「ここはあなたの深層心理の世界。信じるかどうかは関係ないの」


 ショートヘアの少女が頬杖をつき、柔らかく微笑む。


「私たちは、あなたが“思い出した”からここにいるの」


 その瞬間、アリスの胸の奥で何かが弾けた。

 氷のように閉ざされていた記憶の扉が、ゆっくりと音を立てて開いていく。


 眩しい光が差し込み、そこに散らばる断片的な情景――

 炎の戦場、青白い剣、涙を流す少女たち、そして――滅びの鐘。

 記憶は流星のように降り注ぎ、彼女の心に刻み込まれていった。


 アリスの肩が小さく震える。

 その震えに呼応するように、二人は静かに立ち上がった。


 白い大地を踏みしめ、彼女の前に歩み寄る。

 温かな手が、彼女の肩にそっと触れた。

 その瞬間、光が弾け、空気が澄み渡る。

 まるで魂の奥底に、誰かの“ぬくもり”が戻ってくるようだった。


「これから私たちは一つになる」

「私たちの記憶も力も、すべてあなたの中に戻るの」


 その声は風のように優しく、炎のように強かった。

 拒むことなどできないほどに、真っ直ぐで、温かく――。


「――さあ、アリス。目を開けて」


 だがアリスは首を横に振り、震える声で問う。


「……この記憶と力が……あれば……みんなを……助けられるの……?」


 二人は微笑み、力強く頷いた。


「もちろんよ、アリス」

「あなたのすべてを、今ここに返すわ」


 けれどロングヘアの少女は少しだけ声を潜め、言葉を選ぶように続けた。


「でも……今回は特別なの」


 彼女の瞳が淡い悲しみを帯びる。


「アリス、あなたは今、身体も心もあまりに傷つきすぎた」


 ショートヘアの少女の声が静かに重なる。


「だから今だけは――あなた自身として立つことはできないの」


 レティシアは優しく微笑み、はっきりと告げた。


「だから私が前に出る。あなたの代わりに、必ずみんなを救う」


 その言葉には、迷いが一片もなかった。

 空気が震え、白い空間に淡い金の光が満ちていく。


 アリスの心が揺らぎ、頬を涙が伝う。

 そしてショートヘアの少女――はるながアリスの手を包み込み、囁く。


「安心して眠っていて。あなたはもう一人じゃない

 次に目覚めるときは――もっと強く、すべてを受け継いだあなた自身だから」


 その声は、母の子守唄のように優しかった。

 温もりが指先から胸の奥へと広がり、意識がゆっくりと霞んでいく。

 アリスの頬を一筋の涙が伝い落ち、白い大地に触れた瞬間、

 その雫は光の粒となって空へ昇っていった。


 世界がゆっくりと輝きを増し、白が蒼銀に変わる。

 風が旋回し、彼女の髪を揺らした。

 まるで天がその誓いを見届けるかのように。


 その光の中で、アリスの意識は穏やかに溶け、

 ――やがて、光と共に新たな命が再び目を開けようとしていた。

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