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第一部 第四章 第6話

 ――そのころ。

 古代遺跡の正面壁面に叩きつけられたアリスは、崩れた石壁の陰に身を埋め、息を整えようと必死だった。

 荒々しく上下する胸の動き。

 呼吸は浅く、喉の奥を焼きつくすような痛みが走る。

 肺の奥に熱い鉄の味が広がり、呼吸するたびにその味が口中に滲んだ。


 背中と肩の痺れはじわじわと広がり、まるで全身に無数の針が刺さっているかのようだった。

 腕を少し動かしただけで骨が軋み、耳の奥で鈍い音が響く。

 崩れた瓦礫の下で、石片がじり、と頬を掠めた。


「……ッ……げほっ……!」


 喉からかすれた咳が漏れ、唇の端から細い血の筋が垂れる。

 それは頬を伝い、冷たい石の上に赤い線を描いた。


(あばら……何本か……折れてる……)


 息を吸うだけで肺が痛み、胸の奥で鈍い圧迫が走る。

 鼓動のたびに傷が波打ち、視界の端が赤く滲んだ。


 だが、体の痛みよりも、心の奥で締めつけられる焦燥の方がはるかに苦しかった。


(……倒れているわけにはいかない……ここで終わるわけには……)


 瞼を開けると、崩れた瓦礫の向こうで、青白い光と赤い閃光が交錯していた。

 耳を突く爆音。

 仲間たちの叫びが、確かに聞こえる。


「レティア……! リナさん……みんな……!」


 声を出そうとした瞬間、喉が焼けつくように痛み、呼吸が詰まる。

 震える指先が、地を掴むように瓦礫を握った。


(……まだ……終われない……!)


 視線はぼんやりと、折れた魔導剣の残骸に落ちた。


 あの一撃――全力の魔力で受け止めた代償。

 剣の刃は根元から半分に裂け、今や杖のようにも使えない。

 魔力導線が断たれたルーンの隙間から、淡い青白い光がかすかに漏れていた。

 その輝きが、まるで息絶える命の残光のように揺れている。


(……でも、あの女性を守らなきゃ……。遅れたら……みんなが……!)


 震える手で、彼女はその刃の欠片を拾い上げた。

 掌が裂れ、血が滲む。

 それでも、手放さなかった。


(まだ……戦える……少しでも……!)


 焦燥と痛みが交錯する中で、彼女は身体にかけていた魔法の効果を思い返した。

 《クイックアクセル》――呼吸と動作を極限まで早め

 《フィジカルブースト》――筋肉と骨を限界まで強化し

 《プロテス》――物理的衝撃を緩和し

 さらに魔導剣には瞬時に《プロテス・エンチャント》を付与し、刃の破損を防ごうとした。

 それらの魔法がなければ、あの一撃は確実に命を奪っていた。


 だが、代償はあまりに大きかった。

 魔力は枯渇寸前。

 指先から流れ出る魔力光が、すでに薄く滲んでいる。

 体力は限界を超え、意識の縁が霞む。


「……まだ……終われないのに……」


 声は掠れて、誰にも届かない。

 それでも、彼女の胸の奥では熱が絶えず燃え続けていた。


(……立たなきゃ。……レティアたちが……戦ってる……)


 耳の奥に、かすかに聞こえる。

 仲間の声。銃撃音。氷槍の炸裂。

 そのすべてが、彼女の心を強く揺り動かす。


(私は……また守られてばかり……なの?)


 瞳の奥に、淡い蒼の光が宿り始める。

 意識が朦朧とする中、血の滲んだ手で胸元を押さえた。

 鼓動が早鐘のように鳴る。


(いいえ……今度は、私が……!)


 崩れた瓦礫の中、アリスはゆっくりと片膝を立てた。

 傷ついた身体が悲鳴を上げる。


 かすかに聞こえる――遠くの詠唱の声。

 夜気の向こうで響く呪文の残響が、微かな光のようにアリスの耳を打つ。


 途切れ途切れのその声は、彼女にとって唯一の“現実”だった。

 仲間たちがまだ戦い続けている。

 それを知らせる声だけが、痛む心の底をかろうじて支えていた。


「……レティア……みんな……」


 掠れた声は喉の奥で途切れ、息と一緒に震えながら漏れ出た。

 その名を呼ぶだけで、胸の奥が痛む。

 言葉を紡ごうとしても、唇は乾き、声は砂のように崩れて消えていった。


 脳裏に、あの瞬間の感覚が生々しく蘇る。


 女性魔術師団員を咄嗟に突き飛ばし、代わりに自分が受け止めたあの衝撃。

 空気を裂く轟音。

 横薙ぎに振られた巨大な剣。

 骨がきしみ、全身を叩きつける衝撃。

 その瞬間、時間が止まったように感じた。


(――もしあれが、数秒でも遅れていたら……)


 思考の中で、冷たい想像が胸を締めつける。

 目を閉じれば、彼女の背後で崩れ落ちた少女の顔が浮かぶ。

 怯えた瞳、涙、そして安堵――。

 救えたことが、たったひとつの救い。


(でも、私が倒れたら……みんなは……)


 恐怖と責任感が交錯し、身体の震えを止められない。

 痛みと寒気が同時に襲い、指先から力が抜けていく。


 アリスは杖代わりに持つ折れた剣の残骸を握り直した。

 刃の欠片が掌に食い込み、冷たい感触が皮膚を裂く。

 血がじわりと滲み、赤い線が指を伝って落ちる。


「……っ……!」


 短い呻きが漏れ、彼女はふらつく足で立ち上がろうとした。

 だがその瞬間、胸を貫くような鋭い痛みが走り、呼吸が途切れる。

 息を吸うたび、肺の奥が悲鳴を上げた。

 それでも、彼女は震える脚に力を込めた。


「……まだ……立てる……」


 そう言い聞かせるように、掠れた声が空気に溶けた。

 視界が揺れる。


 瓦礫と炎、氷の閃光がぼやけ、色を失っていく。

 音の輪郭も崩れ、遠くの咆哮が水の底のように歪んで聞こえた。

 自分の呼吸音だけが耳の奥に響く。

 それすらも次第に薄れていく。


「……まだ……私は……」


 言葉が途中で途切れ、唇がかすかに動くだけになった。

 息が漏れ、声は霧のように消えていく。


 体の力が抜けていく。

 指先が冷たくなり、折れた剣の破片が指の間から滑り落ちた。


 ――カラン……。


 金属片が冷たい地面に落ちる。

 乾いた音が小さく響き、闇の中に溶けた。


 アリスの身体は、糸が切れたように崩れ落ちた。

 砂埃が舞い、白い息が一筋だけ宙に残る。


 その背後では、仲間たちの咆哮と魔法の爆ぜる音がさらに激しさを増していた。

 地面を叩く衝撃。氷の砕ける音。銃声。悲鳴。

 戦場の音が遠のいていく。


 彼女の意識は、ゆっくりと深い闇の底へと沈んでいった。

 時間の流れが消え、痛みも音もなくなっていく。




 ――いつからだろうか。


 時間の感覚も、ここに来てからどれほど経ったのかも、まるでわからなかった。


 アリスは白く広がる世界の中に、ただひとりぽつんと立っていた。

 視界に映るのは、無限に続く淡い光の空間だけ。

 空と地の境界は曖昧で、どこまでも真っ白な世界が続いている。

 目を凝らしても、色も形も輪郭さえも曖昧で、ただ静謐な光だけが満ちていた。


 風もない。音もない。

 それなのに、不思議と寂しさはなかった。


 耳を澄ませば、どこか遠くで淡い鈴の音のような響きが、かすかに流れている気がした。


 気づけば、血と埃にまみれていたはずの軍服は、いつの間にか真っ白なワンピースに変わっていた。

 生地は繊細に光を反射し、わずかな動きでも淡く煌めく。

 裾が揺れるたび、足元の白い地面にほのかな影が生まれ、すぐに光に溶けていく。


 その儚い現象を見つめていると、胸の奥に不思議な温もりが灯った。

痛みも、寒さも、戦場の恐怖も――すべてが遠い夢のように感じられた。


「……ここは……?」


 自分の声が、自分の耳にだけ届いた。


 それは風のない空間に溶け込み、反響することなく吸い込まれていく。

 ひと粒の露が白い世界に落ちたかのように、跡形もなく消えた。


 立ち尽くしていると、遠く霞んだ光の向こうに、輪郭を持った何かが見えた。


 白いテーブルと椅子――その周りには、二人の少女が静かに座っている。


 アリスは、引き寄せられるように足を動かした。

 足音はない。

 それでも確かに、一歩ごとに距離が縮まっていく。

 重力すら感じないはずなのに、身体はふわりと軽い。

 まるで夢の中を歩いているようだった。


 近づくほどに、二人の輪郭がくっきりとしていく。

 どちらも真っ白なワンピースを纏い、光の中に自然に溶け込んでいた。


 まるで、この場所の一部として最初から存在していたかのように。

 一人は、流れるような黒髪のロングヘア。

 もう一人は、短く整えられた柔らかなショートヘア。

 まるで“陰と陽”のような対照的な二人。

 それでも、漂う空気にはどこか深い調和があった。


 二人は白いテーブルを囲み、湯気の立つティーカップを手に静かに談笑していた。


 その動作はあまりにも静かで優雅。

 まるで絵画の中の一場面を覗いているようだった。


「……あの……」


 思わず声をかけると、二人の少女は同時に顔を上げた。


 そして、まるで最初から彼女を知っていたかのように、柔らかな笑みを向けた。


 その笑顔はどこか懐かしく、胸の奥をやさしく温める。


「女神様……ですか……?」


 アリスの問いに、二人は顔を見合わせ、くすくすと笑い合った。


 その笑い声は鈴の音のように透き通り、白い世界にやわらかな波紋を広げていく。


「ふふっ……そう思うのも無理はないわね」


 ロングヘアの少女が微笑みながら告げる。


「でも、まあ――今日はそんなところかしら」


 ショートヘアの少女が、白い指で空いた椅子を指差した。

 その仕草は自然で、どこか母性的な温かさがあった。


「ほら、アリス。立ったままじゃ話しにくいでしょ?」


 自分の名を呼ばれ、アリスは一瞬だけ目を見開いた。


 ――どうして、私の名前を?

 そう思いながらも、彼女の声に逆らう気にはなれなかった。


 おずおずと近づき、椅子に腰を下ろす。

 その瞬間、目の前にふわりとティーカップが現れた。

 白磁の表面に淡い金の文様が光り、温かな香りが立ちのぼる。

 ティーポットから漂う湯気は、どこか懐かしい香り。

 草花のようでもあり、陽だまりのようでもある。

 その香りだけで、胸の奥の緊張が少しずつ解けていくのがわかった。


 アリスは両手でカップを包み込み、そっと口をつける。

 ほんのりとした甘みと、静かな温度が舌の上に広がった。

 それは現実よりも穏やかで、夢のように優しい味だった。


「……おいしい……」


 思わず零れた言葉に、二人は楽しげにくすくすと笑い合った。

 その笑い声は、白い空間に柔らかく溶けていき、まるで花が咲くように広がった。


 アリスはカップをそっと置き、少し視線を落とした。

 胸の奥に、ふとした不安が蘇る。


「……私は……死んでしまったのですか?」


 その声は震え、かすかな恐怖と迷いが滲んでいた。


 ロングヘアの少女は、静かに首を横に振った。

 その仕草には、慈愛と確信が宿っていた。


「いいえ。まだ、そういうわけじゃないわ」


 穏やかで、まるで眠る子どもを諭すような声。


 アリスの胸に残っていた冷たさが、少しだけ溶けていく。

「……よかった……」


 思わず息を吐き、肩がわずかに震える。

 しかし、その安堵の奥に、別の疑問が浮かび上がっていた。


「じゃあ……ここは、どこなんですか……?」


 二人は顔を見合わせ、いたずらっぽく微笑む。


 その仕草はまるで、答えを言う前に“遊び”を挟む姉のようだった。


「うーん……そうね、言葉にするなら――」


 ロングヘアの少女が少し考え込むように唇に指を当てた。


「時と記憶の狭間、ってところかしら?」


「狭間……?」


 アリスが小さく首を傾げる。


「だからね、アリス」


 ショートヘアの少女が、カップを揺らしながら微笑んだ。


「ここでは、時間は進んでいないの。あなたが外で眠っている間も、ね」


 ロングヘアの少女がゆっくりと頷き、やわらかく続けた。


「だから安心して。今は少し、わたしたちとおしゃべりしましょう」


 ふたたび漂う温かな香り。

 ティーカップの表面に浮かぶ微細な光が、呼吸に合わせて揺れる。 


 その穏やかな光景に包まれながら、アリスの心の緊張はゆっくりとほどけていった――

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