第一部 第四章 第4話
一方、野営地に残っていたリナ小隊の面々も、その異様な青白い光と地面の振動に気づき、寝床から飛び起きた。
夜の闇を裂くように、遠くの森の方角が淡く明滅している。
地の底から響くような低い唸りが、じりじりと肌を刺すように空気を震わせていた。
まるで大地そのものが呻いているかのようだった。
「……今の揺れ、ただ事じゃないわ……!」
リナの声が夜気を切り裂いた。
焚き火の炎が突風で煽られ、影が一瞬だけ乱れる。
ぱちりと弾けた火の粉が、焦げた木の匂いを夜風に乗せて散った。
焚き火の前で休息していたエルドは、反射的に魔導ライフルを掴み上げ、鋭い視線を周囲に走らせる。
彼の指先には、わずかに汗が滲んでいた。
夜気の冷たさがその感触を一層際立たせる。
「フィル、アリス、起きろ! 嫌な魔力の渦が発生してる!」
鋭い呼び声に、フィルは寝袋を乱暴に押しのけながら目を擦り、頭の奥がまだ夢と現実の境をさまよっているような表情を見せた。
息を吸い込むたびに、焦げた空気が喉にまとわりつく。
「……まさか、また何か襲ってくるのか……?」
その声にわずかに震えが混じっていることに、誰もが戦慄した。
普段は冷静なフィルの声が、こんなにも脆く揺れるのを聞いたのは初めてだった。
眠気と疲労の中で交わす言葉はどこか虚ろで、それでも必死に現実に引き戻されていることを示していた。
全員の呼吸が、次第に速くなる。
リナはすぐに膝立ちになり、周囲を見回して声をかけた。
顔を照らす炎の光が、その瞳に鋭い影を落とす。
「アリスさん、武器を構えて!」
指示の声に、空気が一瞬で張り詰めた。
リナの動きは迷いがなく、指先まで研ぎ澄まされていた。
長時間の警戒で疲れているはずなのに、その背筋は微動だにしない。
彼女の瞳は鋭く、覚悟に満ちていた。
「はい……すぐに準備します」
アリスは静かに頷き、落ち着いた手つきで魔導ライフルを抱え、肩口からすっとベルトを外す。
その所作は流れるように滑らかで、まるで長年の訓練で染みついた儀式のようだった。
深く呼吸を整えると、肺の奥で熱い空気が揺らめくのを感じる。
疲労で重く垂れたまぶたの奥に、戦闘者の冷静な光が灯った。
「……魔力の流れがおかしい、乱れている……!」
エルドが低く唸るように言った。
彼の眉間には深い皺が刻まれ、その瞳には濁った青い光が宿る。
歪んだ魔力波動が地面を這うように伝わり、靴底越しに小刻みな振動が伝わってきた。
アリスは膝立ちのまま遠方を見据え、細く引き締まった唇を噛んでいた。
その瞳は揺れることなく、遠くの青白い光の点をまっすぐに捉えている。
「嫌な感じ……あの光、魔力の放出じゃない……何かを“呼び出してる”……!」
リナの声に、背筋を走る冷気が一層強まる。
森の奥では、風が止まり、虫の声が完全に途絶えていた。
焚き火の火がふっと揺らぎ、まるで何か巨大な存在が、闇の向こうで息を潜めているかのように――夜が沈黙した。
その時――。
青白い魔方陣の中心から、禍々しい巨影が4つ、地面を割ってゆっくりと這い出した。
ひび割れた地面から焼け焦げた熱気が吹き上がり、焦げた石と鉄の匂いが夜気に混じる。
魔方陣の光は呼吸するように脈打ち、中心部では青白い光の柱が立ちのぼっていた。
空気が歪み、魔力の粒子が波紋のように広がる。
夜の森が、異形の降臨を拒むかのように軋んだ。
――バロール・ビースト亜種。
人魔大戦末期に魔国軍が創り出した、恐るべき生体兵器の改良種である。
地の底に封じられたはずの災厄が、今ふたたびその姿を現していた。
単眼で強力な魔眼を持ち、熱線を放つ二足歩行の魔獣。
10メートルを超える巨躯を黒い硬質の外殻が覆い、赤く脈打つ瘤が随所に浮かんでいる。
その瘤は血管のように光を帯び、どくん、と不気味な鼓動を刻んでいた。
まるでその体自体が“生きた呪詛”であるかのようだった。
巨大な包丁型片手剣を携え、その刃は赤黒く、魔力の光を吸い込むように鈍く輝く。
風を裂くたびに、焦げた鉄の匂いと魔力の唸りが混じる。
その存在感は、まさに絶望そのものだった。
巨体がゆっくりと起き上がり、関節が擦れるたびに、金属音と骨が軋むような音が響く。
その音が大地を震わせ、鼓膜の奥にまで食い込んでくる。
近くに布陣していた第6小隊が悲鳴を上げて応戦を試みた。
「……っ! あれが……!」
エルドの声は震え、唾を飲み込む音がはっきりと響いた。
目の前で現実が崩壊していく――そんな絶望の音だった。
低く唸りながら、バロール・ビースト亜種が巨大な剣を振りかぶる。
その動きは緩慢でありながら、確実にすべてを打ち砕く質量を孕んでいた。
振り下ろされた刃は地面を深く抉り、爆煙と飛沫が夜空を赤く染めた。
轟音が夜空を引き裂き、地面が波打つように爆ぜる。
土砂が雨のように降り注ぎ、飛び散った岩塊が人を打ち据えた。
焦げた血と土の匂いが入り混じり、息を吸うことすら苦しい。
「退避っ! 下がれ、早く――!」
「無理だっ、撃て! 撃てぇぇッ!!」
悲鳴と怒号が交錯し、青白い魔力弾が夜空に迸る。
だが、放たれた魔弾は巨獣の黒い装甲に弾かれ、火花と煙だけが虚しく散っていく。
「くそっ……効かねぇ! 殻が厚すぎる!」
「距離を取れ! あいつの剣が来るぞ!」
それでも止まらない。
バロール・ビースト亜種の剣が再び振り下ろされ、地面が裂け、光が弾け、爆風が全てを飲み込んだ。
人間ごと地面が吹き飛び、絶望が戦場を覆う。
フィルは歯を食いしばり、震える手で魔導ライフルを強く握る。
喉が乾き、冷たい汗が背中を伝った。
「嘘だろ……どうやって止めれば……!」
絶望的な現実に体が震え、喉の奥が締め付けられる。
手の中のライフルが重く、まるで鉛のように感じられた。
アリスもリナも言葉を失い、ただ立ち尽くす。
遠くに広がるのは、踏み潰される人影と消えゆく断末魔の叫び。
青白い火花が瞬き、魔導ライフルの閃光が絶望的に散り、瞬く間に消えていった。
「……こんなの、どうやって……!」
エルドの呟きは夜気に吸い込まれる。
その声には恐怖よりも、理解不能な現実への混乱が滲んでいた。
目の前の光景が、ただの“敵襲”ではないことを誰もが悟っていた。
背後で重い咆哮が続き、震動が伝わる。
地面の下から這い上がるような振動が、足元から体内に響く。
――ズズ……ズウゥ……ッ!
鼓膜を突き破るほどの低音と高音が混じり合い、空気そのものが震え上がる。
焚き火の炎が潰れ、光が歪んだ。
耳を裂く咆哮とともに、散開したバロール・ビースト亜種の一体が、野営地を蹂躙しながらリナ小隊に迫る。
足音1つで地面が波打ち、天幕が吹き飛んだ。
破壊の衝撃波が背中を叩き、肺の奥まで震わせる。
「来る……! 来るぞ……!」
エルドの喉が鳴り、魔導ライフルを構え直す。
その瞳には恐怖を超えた戦意の光が宿っていた。
背後でリナが指示を飛ばす。
「全員、距離を取って――防御陣形を! アリスさん、右から援護!」
「了解!」
アリスが息を吸い込み、魔力を高密度で集中させる。
空気が震え、彼女の髪が微かに揺れる。
蒼の瞳が内側から白銀の光を帯び、淡く輝いた。
その輝きが夜の闇を照らし、周囲の戦場をわずかに明るく染める。
まるで彼女の眼差しそのものが、希望の残光であるかのようだった。
その直前――。
進行方向で逃げ遅れた若い女性の魔術師団員が、震える唇を噛みしめながら、必死に詠唱を終えた。
額には汗が滲み、肩で息をしながらも、その手のひらは決して下がらない。
「――《アイスアロー》ッ!!」
空気が一瞬で冷たく凝固した。
凍気が渦を巻き、魔力が形を取りながら鋭い氷の矢となる。
放たれた瞬間、空気が裂けるような音が響いた。
――ズガァッ!!
氷の矢が唸りを上げて飛翔し、バロール・ビースト亜種の黒い外殻を撃ち抜いた。
鋭い氷片が爆ぜ、赤く脈動していた瘤を貫く。
血のような赤い魔力液が弾け、夜気に散った。
「当たった……!」
彼女の声にかすかな希望が宿る。
しかし――その歓喜は一瞬で打ち砕かれた。
巨獣はわずかに首を傾けただけだった。
氷の破片が砕け散り、赤い光が再び瘤の中で蠢く。
まるで、“無傷だ”と告げるように。
それでも近くにいた魔術師団員たち数名が、恐怖を押し殺して立ち上がった。
互いに視線を交わし、震える声で次々に詠唱を開始する。
「――《アイシクルランス》ッ!!」
空気が一変した。
冷気が弾け、湿った夜気が凍りつく。
彼らの魔力が交錯し、宙に無数の氷槍が生まれた。
鋭い光の軌跡を描きながら放たれた氷槍が、バロール・ビースト亜種の外殻に突き刺さる。
――バキィィィン!!
鈍い破砕音が響き、黒い殻がひび割れ、瘤の一部が砕け散った。
吹き出す赤い蒸気が、夜空に向かって立ちのぼる。
「効いている……!」
誰かが叫ぶ。
その声に、わずかな希望の色が灯った。
しかし、その希望を打ち消すように、リナの焦燥した声が響く。
「しかし、人数が足りない……これだけじゃあ足止めにもならない!」
リナは状況を瞬時に見抜いていた。
確かに氷槍は傷を与えていた。
だが、亜種の巨体はあまりにも巨大で、しかも再生を始めている。
傷口が蠢き、再び黒い外殻が覆っていく様子を、誰もが目の当たりにした。
魔術師団員たちの魔力は限界に近かった。
肩で荒く息を吐き、手の震えを押さえるように胸元を握る。
もう一発撃てば、魔力枯渇で倒れる者が出る――それを誰もが理解していた。
冷気と焦熱が入り混じる戦場で、わずかな静寂が生まれる。
その一瞬の“間”を嗅ぎ取ったかのように――
バロール・ビースト亜種が、ゆっくりと首を傾げた。
その単眼が紅く瞬き、次の瞬間――。
――ズゥゥゥン!!
巨大な片手剣が大気を裂くように横薙ぎに振られた。
音というよりも、空気そのものが押し潰されるような衝撃。
風圧だけで地面の砂が爆ぜ、近くのテントが根こそぎ吹き飛んだ。
「きゃ――ッ!!」
女性魔術師団員の視界が閃光に覆われる――はずだった。
その刹那。
「――ッ!!」
白い影が横から飛び込んだ。
アリスだ。
彼女は一瞬のためらいもなく魔導剣を抜き放ち、女性を後方へと強く突き飛ばした。
次の瞬間、巨大な剣がアリスの目前に迫る。
――ギャリィィィィィィィィン!!
金属が悲鳴を上げた。
アリスの剣が火花を散らしながら、巨獣の一撃を受け止める。
重圧が全身にのしかかる。
骨が軋み、腕が焼けるように熱い。
ドガァァァァァァン――!!
衝突の衝撃が地面を砕き、衝撃波が四方へ爆ぜた。
アリスの身体が弾かれ、遺跡の巨大な石壁に叩きつけられる。
石が砕け、ひび割れが走り、白煙が舞い上がった。
衝撃で周囲の瓦礫が宙を舞い、彼女の髪がふわりと浮かぶ。
「アリスさん――ッ!!」
リナの叫びが夜空を裂いた。




