第九部 第四章 第5話
クラリスの腕の中でしばらく泣き続けていたアリスは、やがて嗚咽の波が少しずつ収まっていくにつれ、乱れた呼吸をゆっくりと整えていった。
肩を上下させていた震えが、次第に間隔を空け、浅く、静かなものへと変わっていく。
胸に溜まった熱がゆるやかに冷めていくと同時に、現実の感覚が少しずつ戻ってきた。
白衣越しに伝わっていた体温。
背を撫でていた指先の動き。
耳に届いていた規則正しい鼓動。
涙に濡れた頬はまだ温かく、目元は赤く腫れている。
それでもアリスは小さく息を吸い込み、クラリスの胸元からそっと身を離した。
視線を伏せたまま、かすかな笑みを作ってみせる。
「……ごめんなさい。落ち着きました、もう大丈夫です。取り乱してしまって……」
声はか細く震えている。
作った笑みも頼りなく、涙の余韻が唇の端にまだ残っていた。
強がりだと、自分でもわかっている。
クラリスは黙ってアリスを見つめ、静かに両肩へ手を置いた。
その掌は温かく、優しい重みが、アリスの小さな震えを包み込む。
「謝らないで」
低く、柔らかな声。
「泣いていいのよ、アリス。こんな話を聞かされて、平然としていられるほうが不自然だわ。私だって、もし自分が同じ立場だったら……きっと取り乱してる」
灰青の瞳が、まっすぐにアリスを捉える。
「あなたは何も悪くない。生まれたことも、魂が帰ってきたことも、世界が反応したことも……あなたの“罪”じゃない」
一拍置き、わずかに微笑む。
「それでも笑おうとする強さが、やっぱり……レティシアね。怖くても、揺れても、最後には立とうとする。その芯の強さは、昔から変わらない」
その一言が、アリスの胸にかすかな熱を残す。
過去と今を繋ぐ絆のように、温かく。
レイリスは、ほんの少しだけ視線を逸らし、窓の外へ目を向けた。
いつの間にか夕闇が研究室を包み、空には淡い月が昇り始めている。
窓枠を越えて差し込む月光が、青白い髪を静かに照らした。
その横顔には微かな笑みと、胸の奥を疼かせる切なさがにじむ。
「……私、アリス様のそういうところ、やはり好きです」
声は穏やかだが、揺るがない。
「強くあろうとするところも、怖がるところも、全部含めてアリス様です。無理に笑わなくてもいいんです。今は泣いたままでも、震えたままでも……私たちがそばにいます」
青白い瞳が、静かに優しく揺れる。
「どんな波が来ようと、どんな真実が待っていようと、私はアリス様の味方です。何百年でも、何度でも、隣に立ちます」
その響きは小さな灯火のように、確かに力強かった。
アリスの目に、再び光が滲む。
涙ではない。
確かな、温もりを宿した光だった。
クラリスとレイリス――両脇に寄り添う二人の存在が、胸の奥に灯る希望のように感じられる。
孤独に押し潰されそうだった暗闇に、小さな光が差し込む。
完全ではない。
だが、確かにそこにある。
アリスは袖で涙を拭い、なんとか笑顔を作ってみせた。
ぎこちないが、それでも確かな微笑み。
「……ありがとう。本当に……ありがとう。私、一人じゃなかったんだね」
その言葉を聞いた瞬間、クラリスはほっと小さく息をついた。
胸に残っていた緊張が、ゆるやかにほどけていく。
「当たり前でしょう? 一人にするわけないじゃない」
やわらかく、少しだけ呆れたように笑う。
「あなたがどんな存在でも、どんな過去を背負っていても、私にとっては友達なの。それは変わらない」
隣でレイリスも、静かに頷いた。
「ええ。アリス様は、アリス様です。それ以上でも、それ以下でもありません」
研究室の空気は、もう凍りついてはいなかった。
夜の静けさの中で、三人の呼吸が穏やかに重なっている。
アリスの胸に灯った小さな火は、まだ弱い。
けれど、確かに消えてはいなかった。
研究室の空気は、先ほどまでの重苦しさが嘘のようにやわらいでいた。
窓の外では夜がすっかり深まり、月明かりが石造りの床に淡い銀の帯を落としている。
卓上の魔導ランプが穏やかな橙色の光を灯し、三人の影をゆらりと壁へ映していた。
涙の痕がまだわずかに残るアリスの隣で、クラリスはそっと息を整える。
そして、不意に横目でレイリスへと視線を送った。
「……リディアには、報告したの?」
穏やかな問いかけだったが、その声音の奥には探るような色が混じっている。
不意を突かれたレイリスは、ぱちりと瞬きをした。
一瞬きょとんとした表情が浮かぶ。
だが次の瞬間、青白い瞳の奥にいたずらな光が灯り、唇の端がくいっと持ち上がった。
「まだしてません。というか……しばらくは教えてあげません」
さらりと言い切る。
「……どうして?」
クラリスがやや呆れたような声音で問い返す。
肘掛けに軽くもたれながら、興味半分、警戒半分といった表情だ。
レイリスは腕を組み、ふふんと鼻を鳴らした。
その仕草は、戦場で“ブラッディ・ローズ”と呼ばれる副長の面影を完全に脱ぎ捨てている。
「だって、十七年もですよ? 私が何度報告を上げても会ってくれないし、なんの連絡もよこさないし、指示だって直接くれずに、わざわざ大臣経由でくるんです。しかも私がティアナ騎士団に入ったと知った途端、ファーレンナイト王国との公式会談にも姿を見せなくなって……あの人ったら、本当に意地悪なんです」
言葉は流れるようだが、ところどころに長年の鬱憤がにじんでいる。
アリスは思わず目を丸くした。
「……それ、やっぱり寂しかったんだね」
ぽつりと、素直な感想がこぼれる。
レイリスはむっとした顔で振り向いた。
「……寂しいなんて言ってません! 私はただ、職務上の報告が円滑にいかないことを問題視しているだけです!」
言い訳のように早口でまくしたてる。
「いやいや、完全に拗ねてる顔だよ」
クラリスがくすっと笑いながら付け加える。
指先で口元を隠しつつも、肩が小さく震えている。
レイリスはさらに頬をふくらませた。
その仕草は、普段の鋭さも威厳もなく、年齢も立場も忘れたかのように子どもっぽい。
「拗ねてません! ただ、少しくらいこちらの気持ちも考えてほしいだけです。十七年ですよ? 十七年も放置されたら、誰だって一回くらい意地悪したくなります」
言い切ったあと、ほんのわずかに視線が揺れる。
クラリスはとうとう吹き出しそうになり、唇を押さえながらも苦笑を漏らした。
「……確かに、それはちょっと意地悪かもね。報告を大臣経由っていうのも、なんだか距離を置いてる感じだし」
レイリスはそこでようやく肩をすとんと落とした。
照れたように口元へ柔らかな笑みを浮かべる。
「だから、私も意地悪します。しばらくは教えてあげません。……ふふ、どんな顔をするか、ちょっと楽しみなんです」
青白い瞳に、からかうような光が宿る。
「ねえ、想像してみてください。リディア姉が“知らなかったわ!?”って目を見開くはずです。そのあときっと、悔しそうに唇を噛んで……でも最終的には“どうしてすぐに言わなかったの”って、真面目な顔で怒るんですよ。あの人、怒るときは静かに怖いですから」
両手を胸の前で軽く組み、楽しげに肩を揺らす。
「ふふ……その顔を思い浮かべるだけで、ちょっと胸がすっとするんです。十七年分の仕返しです」
その姿を眺めていたアリスが、思わずソファから身を起こした。
「……完全に子どもの仕返しじゃない! そんなの、私でも思いつかないよ! しかも相手、武神と謳われる女王でしょ!?」
声に半ば本気の焦りが混じる。
クラリスはこらえきれずに吹き出し、肩を揺らして笑った。
「ふふ……ほんと、レイリスも可愛いところあるんだから。普段はあんなに凛としてるのに」
レイリスはむっとして頬を染める。
「可愛くありません。私は至って冷静です」
そう言いながらも、視線はわずかに逸らされている。
やがて口元が小さく緩んだ。
――拗ねながらも、どこか嬉しそうで、安心したような微笑み。
研究室に、柔らかな笑い声が広がる。
先ほどまでの重たい空気は、もうどこにもない。
夜の静寂の中で、三人の距離は、確かに少しだけ縮まっていた。
するとアリスが、両手を頭の後ろに組みながら、ぐったりした声を上げた。
ソファの背凭れに深く沈み込み、天井を仰いだまま、長く息を吐き出す。
「……やっぱり私、巻き込まれる未来しか見えないんだけど! ねえ? どう考えても、これ絶対あとでリディアに知られて、私が真ん中に立たされるやつだよね!?」
情けない悲鳴に近い声だった。
涙で赤くなっていた目元が、今度は焦りでさらに潤む。
三人の間に、再び笑い声が広がった。
先ほどまでの張り詰めた緊張とはまるで別の、軽やかな笑い。
重苦しい話題からようやく解き放たれた部屋には、今だけは穏やかで温かな空気が満ちていた。
魔導ランプの橙色の光が、三人の表情をやわらかく照らしている。
そのやりとりのあと、アリスは脱力したようにぐったりとソファに身を沈める。
頭を背凭れに預け、疲れ切った子どものように力なく両手を挙げた。
「……もう、二人とも……勘弁してよ……今日はさすがに情報量が多すぎる……魂が帰還とか、世界が揺れたとか、十七年分の拗ね話とか……もう、頭が処理落ちしてるんだから……」
その弱々しい声には、安堵と呆れと、わずかな安らぎが混じっていた。
「……もう、おなかいっぱいすぎて、おかしくなりそうなのに……ここでリディアまで来たら……私、寝込みます! 本気で倒れますからね! 戦闘不能になりますから!」
両手をばたばたと振る。
どこか大袈裟な仕草が、かえって場を和ませた。
三人の間に、くすくすと笑い声が広がった。
石壁に反射したその笑いが、夜の静寂に溶けていく。
緊張と涙で張り詰めていた空気がふっと解け、温かな日常の空気が部屋に戻ってくる。
月明かりが床に落とす銀の帯が、どこか祝福のように静かに揺れていた。
「……リディアは戦闘以外は、レティシアにラブラブだからね〜。あの人、剣を握ってるときと、それ以外のときの落差がすごいんだから」
クラリスがからかうように口を尖らせて言った。
灰青の瞳がいたずらっぽく細められる。
その瞬間、アリスの顔は見る間に真っ赤に染まった。
「ちょ、ちょっとクラリス!? そ、それは……! 違うから! あれは、その……戦友としての信頼とか、そういうやつであって……!」
慌てて両手を振り回し、声を裏返らせる。
耳の先まで赤くなり、視線を泳がせるその仕草は、必死に否定しながらも図星を突かれたようで、余計に照れ隠しが下手に見えてしまう。
「ええ〜? 戦友って、あんな目で見る? “レティシア様”って呼ぶ声、あれ完全に甘いけど?」
クラリスが追い打ちをかける。
「甘くない! 断じて甘くない! あれはただの尊敬の表れで……!」
アリスは両手で顔を覆い、指の隙間から抗議する。
だが赤面は隠しきれない。
動揺するアリスの姿に、レイリスも思わず口元に手を添え、「ふふ」と小さく微笑を浮かべた。
その青白い瞳は、どこか懐かしむように細められている。
「確かに……リディア姉は、レティシア様にぞっこんでしたから……♡ あの頃も、戦後の報告が終わるたびに、視線が追いかけていましたし……。本人は隠しているつもりだったようですが、周囲には丸わかりでしたよ」
穏やかな口調のまま、さらりと爆弾を落とす。
「れ、レイリスまで!? やめて、二人とも! ほんとにやめて!」
アリスは完全に混乱状態だった。
背凭れに沈んだまま足をばたつかせ、抗議の声を上げる。
クラリスはついに堪えきれず、肩を震わせながら笑った。
「ふふ……ああもう、今日一番の癒やしはこれだわ。さっきまで世界規模の話してたのに、今は恋愛話だなんて、落差が激しすぎる」
「恋愛じゃないってば!」
即座に否定が飛ぶ。
レイリスは小さく首をかしげる。
「では、再会したときにどんな顔をなさるか、楽しみですね。きっと……とても、喜ばれますよ」
その声音には、からかいだけでなく、どこか優しい確信が滲んでいた。
アリスはようやく抵抗をやめ、ぐったりとソファに沈み込む。
「……もう、好きにして……。どうせ私は、みんなにからかわれる運命なんでしょ……」
拗ねたような言い方だったが、声はどこか柔らかい。
こうして交わされる何気ない会話と笑い声が、重苦しい話をしていたはずの空気を和らげ、三人の間に柔らかな安堵を広げていった。
まるで、ようやく“日常”が戻ってきたかのように――。
夜の研究室には、温かな笑いと、確かな絆だけが残っていた。
しばらくして、レイリスはふっと息をつき、椅子から静かに立ち上がった。
衣擦れのかすかな音が夜の研究室に溶ける。
その動作は迷いがなく、それでいてどこか名残惜しさを含んでいた。
立ち上がった彼女の長い影が、魔導ランプの橙色の光を受けて石造りの床へと細く揺れる。
「そろそろ、戻らなきゃいけません。あまり長居すると、不審に思われますから……それに、今夜は騎士団の報告も残っています」
穏やかな声だったが、その奥には名残を惜しむ温度が確かにあった。
アリスがふと顔を上げる。
涙の痕がまだ目元にうっすら残っている。
それでも口元には、ぎこちないながらも柔らかな笑みが浮かんでいた。
「……うん。わかってる。でも、またこうして話せる時間がほしいね。定期的に、クラリスの講師研究室で落ち合いましょう。今度は……もっと穏やかな話題で。できれば世界規模じゃないやつで」
冗談めかして言いながらも、その声には必死に心を前へ進めようとする健気さがにじんでいる。
失いかけた安らぎを、自分の手で掴み直そうとする強さがそこにあった。
クラリスは小さく頷き、口元に穏やかな笑みを浮かべる。
「そうね。お互いの近況を報告し合ったり、話したいこともまだまだあるし。研究のことも、騎士団のことも……そして、あなた自身のことも。今日みたいに、一人で抱え込まないようにするためにも」
灰青の瞳が優しく細められる。
その視線は、友を気遣う真摯な光に満ちていた。
レイリスは二人を見渡し、碧白の瞳を細めた。
そこに宿る光は、慈しみと決意を同時に湛えている。
「ええ、約束しましょう。今度は、もっと笑える話を持ってきます。……十七年分の愚痴も、まだ半分も消化していませんし」
わずかに冗談を混ぜたその言葉が、部屋の空気をふっと緩める。
そう言うと、彼女はゆっくりと掌を翳し、精霊魔法を展開した。
空気が微かに震え、青白い光が指先からふわりとこぼれ落ちるように広がる。
光は水面の波紋のように空間へ広がり、衣の裾や髪を淡く照らし出した。
細かな光の粒子が舞い、まるで星屑が室内に降りたかのように瞬く。
光はやがて彼女の全身を包み込み、その輪郭を淡く揺らがせていった。
長い青白い髪はゆっくりと縮み、短く切り揃えられた黒髪へと変わる。
穏やかな瞳の光は静まり、鋭く研ぎ澄まされた眼差しへと変貌する。
頬の筋肉が引き締まり、表情は冷静で隙のない戦士のそれへと整っていく。
精霊魔法による偽装――レイラ・アスコット。
そこに立っていたのは、先ほどまで柔らかな笑みを浮かべていた女性とはまるで別人のような、無口で冷静な騎士だった。
クラリスとアリスは一瞬、その変貌に息を呑む。
同一人物だと知っているはずなのに、空気の質まで変わったように感じられる。
だが次の瞬間、二人は視線を交わし、どちらからともなく微笑みを返した。
――この秘密を分かち合えるのだという、確かな安堵がそこにあった。
「また会いましょうね。今度は……泣かずに済む話を持ってくるから」
アリスの声はまだかすかに掠れていた。
それでも、その奥には前へ進もうとする意志が宿っている。
レイラは冷静な顔のまま、小さく頷いた。
「ああ、また。約束だ」
短く、しかし揺るぎない言葉だった。
踵を返し、扉へと歩き出す。
軍靴の足音が床板に軽く響く。
一瞬だけ足を止めるが、振り返らない。
そのまま静かに扉を閉じる。
――カチリ。
金具の閉まる小さな音が、部屋に残された二人の耳に鮮明に響いた。
その瞬間、張り詰めていた気配がふっとほどける。
窓の外から夜風が吹き込み、カーテンがやわらかく揺れた。
月明かりが机の上の書類を淡く照らし、銀色の縁取りを与える。
クラリスとアリスはしばし無言のまま、互いに視線を交わす。
言葉にしなくても伝わるもの。
安堵、不安、そして揺るがぬ絆。
アリスは小さく息を吐いた。
「……行っちゃったね」
「ええ。でも、ちゃんと戻ってくるわ」
クラリスはそう答え、静かに微笑む。
三人それぞれの思いは、確かにそこに残っていた。
決意と安らぎ、そして温もりが、夜の研究室を静かに満たしていた。




