第九部 第四章 第3話
クラリスは驚いた表情で目をぱちくりと瞬かせ、喉の奥がかすかに震えるのを自覚しながら、ほとんど息と一緒に名をこぼした。
「……レイリス・セリンドリス……?」
その名を口にした瞬間、胸の奥で何かが確かに揺れた。
灰青の瞳がわずかに寄せられた眉の下で揺らぎ、視線は宙へとさまよう。
記憶の奥底に沈んでいるはずの光景が、霧の向こうでかすかに形を結びかける。
それでも、はっきりとは掴めない。
だが――確かに懐かしい。
胸の奥が、理由もなく強くざわめいていた。
レイラは――いや、真の姿を現したレイリスは、そんなクラリスをまっすぐ見つめている。
澄んだ水晶のような瞳がわずかに潤み、長い睫毛の縁に光が宿る。
こらえきれずに、一筋の涙が頬を伝った。
そして、震えを含みながらも、はっきりと告げる。
「……はい、セリーネお姉さま。レイリス・セリンドリスです。あなたのそばで剣を振るい、あなたに叱られ、あなたに褒められていた――あのレイリスです」
クラリスの瞳が大きく揺れた。
指先がわずかに震え、無意識のうちに胸元の白衣を握りしめる。
「えっ……レイちゃん? 本当に……レイリスなの? あの、私の後ろをちょこちょこついて回っていた、小さなレイちゃん?」
声は信じきれないという戸惑いと、それでも信じたいという願いが入り混じっている。
レイリスは涙をこぼしながらも、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
その笑みは、どこか幼いころの面影を宿している。
「はい、『レイちゃん』です。あのときは、いつもあなたの背中ばかり見上げていました。セリーネお姉さまの背は、とても大きくて、強くて、まぶしかったんです」
その声音は甘えを帯び、三百年前の少女の響きをそのまま残していた。
アリスはその様子を見守りながら、にっこりと、少しだけからかうように口を開く。
「ね? びっくりしたでしょ? さすがに私も最初は目を疑ったよ」
クラリスは目を丸くしたまま、しかしやがて力の抜けた苦笑を浮かべた。
「驚くも何も……まさかレイリスだとは夢にも思わなかったわよ。しかも、こんなに立派になって……ううん、正直まだ頭が追いついてないわ」
レイリスは涙を拭いながらも、満面の笑みを向ける。
その笑顔には、再会できた喜びが隠しきれずに溢れていた。
「だってね、昔はこんなにちっちゃかったんだもん」
そう言って自分の胸あたりを指さし、少し照れくさそうに肩をすくめる。
「身長なんてこれくらいでしたよ? いつも『もっと食べなさい』って言われていましたし」
クラリスの口元がふっと緩む。
「そうだったわね。細くて、危なっかしくて、でも無茶だけは一人前で……」
懐かしさが、ようやく温度を伴って浮かび上がる。
すると、レイリスはふくれっ面になり、わずかに頬を膨らませた。
「あれから三百年も経ったんですから、私だって年を取ります! もう若くなんてありませんから!」
その言い方は、どこか昔と変わらない。
強がっているのに、どこか可愛らしい。
クラリスは身を乗り出したまま、真剣な眼差しでレイリスを見つめる。
「失礼だけど……今、何歳なの?」
問いかけられたレイリスは、少しだけ肩をすくめて視線を逸らす。
「……年齢ですか。そんなの、普通に聞くことじゃありませんよ。女性に対して無遠慮です」
そう言いながらも、頬がほんのりと赤く染まっている。
アリスが口元を押さえ、小さく笑う。
「ふふっ、気になるのは当然だと思うけどなぁ。三百年ぶりの再会なんだし」
観念したように、レイリスは深く息を吐き、改めて二人に向き直る。
その表情には、ほんの少しだけ得意げな色が混じっていた。
「……四百三十一歳です。でも、人族換算だと二十六か二十七歳くらいだったと思います。見た目相応……のはずです」
クラリスは一瞬目を見開き、次の瞬間、素直な驚きの声をあげた。
「えっ! そうなの!? なんだか前世の私とあんまり変わらないじゃない!」
レイリスは恥ずかしそうに視線を落とし、指先をいじりながら小さく微笑む。
「だから言ったでしょう? もう若くなんてありませんって……。お姉さまより、きっと年上になってしまいました」
その言葉を聞いた瞬間、クラリスの表情がぴたりと止まる。
数秒の沈黙のあと、ゆっくりと片眉が持ち上がった。
「……それじゃあ、前世の私は若くなかったわけね?」
声は妙に落ち着いているが、どこか底冷えする響きがある。
「つまり、あなたから見た私は“年増”だったと、そう言いたいのかしら?」
にこり、と笑う。
だがその笑顔は、研究室の温度を一瞬下げるほどに整いすぎていた。
レイリスは目を見開き、ぶんぶんと首を振る。
「ち、違います! そんな意味ではありません! お姉さまは昔からお美しくて、凛としていて、年齢なんて関係なくて……!」
言葉が慌てて次々とこぼれる。
耳の先まで赤く染まり、完全に狼狽している。
アリスは堪えきれずに小さく吹き出した。
「ふふっ、クラリス、ちょっと意地悪だよ」
クラリスは一瞬だけ真顔を保ったが、やがてくすりと笑った。
「冗談よ。でもね、そうやって慌てるレイちゃんを見ると、本当に昔のままだって思えるわ」
その言葉に、レイリスはほっと息をつき、力の抜けた笑みを浮かべた。
三百年の時を越えた再会は、涙と笑いを交えながら、確かな温もりを伴って研究室を満たしていく。
窓の外では木々が静かに揺れ、午後の光が三人を柔らかく包み込んでいた。
――しかし、その余韻は長くは続かなかった。
涙と笑いが交じり合った温かな空気は、ゆっくりと静まり、やがて別の緊張へと形を変えていく。
窓の外では午後の陽光が傾き始め、差し込む光が長い影を床へと落としていた。
研究室の奥で揺れていた精霊の残滓も、いつの間にか完全に消え、空気はひどく澄みきっている。
クラリスは資料の上に置いた手をきゅっと握りしめる。
白衣の袖口がわずかに震え、その指先に宿る力が、彼女の内心を如実に物語っていた。
まだ信じきれないという揺らぎと、それでも逃げずに向き合おうとする研究者の意志。
灰青の瞳には、理知と感情がせめぎ合う光が宿っている。
やがて、ゆっくりと息を整え、静かだが真剣な声で問いかけた。
「……それにしても。どうして、そんな偽装までしてファーレンナイトに? ましてや、ティアナ騎士団なんて……どういうことなの? あなたがただの騎士として身を置くには、理由があるはずよ」
その声音には責める響きはない。
ただ、真実を知りたいというまっすぐな意志だけがある。
アリスもその言葉に頷き、少し身を乗り出す。
金色の髪が肩からさらりと滑り落ち、蒼い瞳が真剣な光を帯びる。
「うん。私もずっと気になってた。わざわざ姿を偽ってまで、レイリスがここにいる理由……教えてほしい。偶然じゃないよね?」
二人の視線が重なり、静かな圧となってレイリスへ向けられる。
レイリスはその視線を受け止め、静かに目を伏せた。
長い睫毛が影を落とし、その表情には懐かしさと決意、そしてほんのわずかな覚悟の色が入り混じっている。
胸の前で指を組み、ゆるやかに息を吐く。
「……それは――」
短く区切られた言葉のあと、彼女は小さく微笑んだ。
「……えっと、誤解しないでほしいんですけど」
慎重に言葉を選びながら、真剣な眼差しで二人を見つめる。
「皆さんを“探して”いたわけじゃないんです。最初から、お二人の転生を確信して動いていたわけではありません」
アリスとクラリスが思わず視線を交わす。
互いにわずかな疑念を浮かべ、短い沈黙が落ちた。
レイリスは小さく肩をすくめ、言葉を続ける。
「十七年前……大陸全土を一瞬で覆うような、ものすごい魔力の“ゆがみ”。まるで世界そのものが息を呑んだかのような、巨大な“波”。あの現象を、覚えていませんか?」
アリスが小首を傾げ、きょとんとした表情を見せた。
「十七年前……? ごめんなさい、私が生まれた年だから……覚えてるはずもなくて」
その横で、クラリスがはっと目を見開き、すぐに顔を強張らせる。
指先がわずかに震え、記憶の断片が急速に浮上する。
「……あのとき、確かに魔力観測網が乱れた。各国で同時に記録された異常波形……私も論文を読んだことがあるわ。けれど、原因不明のまま封印されたはず……」
レイリスは静かに頷く。
「リディアお姉さまが、それを感じ取って、“何かが始まる”って。……代わりに調べてきなさい、と私をエルファーレ王国から送り出したんです」
その名を口にする瞬間、声音がわずかに柔らぐ。
敬愛と信頼が滲んでいた。
「正直、そのときは何のことか理解できませんでした。ただ、世界の底で何かが軋んでいる――そんな感覚だけがあった。だから十年以上、いろんな国を転々として……古代遺跡の記録、失われた封印術式、各地に残る魔力の歪みを調べ続けました」
窓から差し込む光が青白い髪を照らす。
彼女の横顔には、長い年月を一人で歩いてきた者の静かな強さがあった。
「……そんな中で、ティアナさんと出会ったのは、五年前のことでした」
アリスとクラリスが同時にわずかに息を呑む。
「偶然でした。私がとある遺構の調査記録を整理していたとき、“あなた、随分と面白そうなことをしているのね”って声をかけてくださって……」
レイリスは照れくさそうに小さな笑みを浮かべる。
「“調べものって、国家権力を使った方が効率いいでしょ?”って。まるで当然のように笑っていました。あの方は、本当に豪胆で……まっすぐで……」
その声音には、ティアナへの尊敬と信頼が自然と滲む。
「それで、“私のところに来ればいい”って。創設されたばかりのティアナ騎士団に、直接誘ってくださったんです。『力を持つ者が孤立する必要はないわ』って」
そして、声をほんの少し落とす。
「……でも、かつての名も姿もそのままでは、あまりに多くの立場の人々に気づかれてしまう。古い因縁や、王家や各国の思惑を呼び寄せることにもなりかねない。だから私は――レイラ・アスコットとして、“別の役割”を選んで、この国に関わることにしたんです」
その言葉が落ちた瞬間、研究室の空気がさらに静まり返る。
クラリスはゆっくりと顎に手を当て、理解したように小さく頷いた。
「ああ……たしかに。そうよね」
灰青の瞳が細められ、研究者の思考が整然と組み立てられていく。
「レイリスって……エルファーレ王国の“ナイツ”総長の名だものね。生ける武神と呼ばれる女王の右腕。その名がそのまま出回れば、各国が放っておくはずがないわ」
レイリスはわずかに苦笑する。
「ええ。肩書きは勝手についてきただけですが……“総長”という名は、便利であると同時に、とても重いものです」
クラリスは静かに息を吐く。
「なるほどね。レイリスの名は、単なる個人名じゃない。王国の象徴、軍事の象徴、歴史そのもの。そんな存在が突然現れたら……政治も外交も、全部が動くわ」
アリスも納得したように頷く。
「確かに。今の世界でそれが明らかになったら、ティアナ騎士団どころじゃなくなるよね」
レイリスは静かに背筋を伸ばす。
「だから私は、騎士団の一員として振る舞えば、私は“ただの騎士”に見える。過去を知る者はほとんどいない。……その裏で、必要な真実に触れ、調べ続けることができる」
言葉の合間に、小さく息を吐く。
それは重荷ではなく、ようやく語れた安堵の吐息だった。
「それが、私なりの――“ここに在る理由”なんです」
最後の言葉は囁くようでありながら、確かな重みを持っていた。
そう言って、レイリスはまっすぐにアリスを、そしてクラリスを見つめる。
澄み切った瞳の奥には、揺るぎない意志と、二人への信頼だけがある。
その眼差しを受け止め、アリスの胸は静かに熱を帯びた。
クラリスもまた、無言のまま深く頷く。
レイリスの存在そのものが、ただの告白ではなく、彼女がこの時代に生きるための選択と使命を証明していた。
研究室の静寂は重くない。
それは、新たな理解が芽生える直前の、穏やかな静けさだった。
やがてクラリスはゆっくりと顔を上げた。
その灰青の瞳が、真っ直ぐにレイリスを射抜く。
先ほどまでの戸惑いや懐かしさは静かに沈み、代わりに研究者としての鋭い光と、かつて世界の揺らぎを肌で感じた者の真剣さが宿っていた。
窓の外では木々が風に揺れ、葉擦れの音がかすかに届いている。
だが室内は、まるで音を吸い込んだかのように静まり返っていた。
卓上に置かれた資料の端が、わずかな空気の流れで揺れる。
クラリスは一度だけ小さく息を整え、唇を開いた。
「……ごめんなさい、少し脱線したわね。あなたが言っていた、大陸規模の魔力振動。あの異常な“ゆがみ”の話だったわよね」
その声は静かだったが、芯はぶれていない。
感情に流されることなく、話題を本筋へと戻す確かな意思がにじんでいた。
レイリスはわずかに顎を引き、静かに頷く。
青白い髪がさらりと肩を滑り、灯りを受けて淡く光を返した。
「……はい。あの現象のことです。十七年前、大陸全土を一瞬で駆け抜けた魔力の波。結界を軋ませ、術式を乱し、精霊の流れさえ一瞬止めた、あの異常な振動」
淡々と語られるその言葉の奥に、確かな重みがある。
クラリスは膝の上で組んだ指先を、ぎゅっと強く握りしめた。
幼いころの記憶が、胸の奥をかすかに震わせる。
「……確かに、あったわ。あのときの“魔力の波”……」
低く呟く声は、どこか遠くを見つめているようだった。
「私、まだ八歳だったけど……はっきり覚えてる。空が突然暗くなって、家中の結界が軋んで、空気が震えてて……息ができないくらい、怖かった。どうにかなっちゃうんじゃないかって、本気で思ったの」
その言葉とともに、指先がさらに強く絡み合う。
白衣の袖がわずかに震え、爪が手のひらに食い込む。
アリスは何も言わず、ただ静かにクラリスを見つめていた。
その蒼の瞳には、寄り添うような温もりと、揺るがぬ信頼が宿っている。
やがてクラリスはゆっくりと顔を上げた。
震えを押し殺しながら、それでも目を逸らさずにレイリスを見据える。
「それで……あなたは、あれについて何かわかったの? あの“波”が何だったのか……」
問いは短い。
だが、その中には十七年分の疑問と、真実を求める切実な願いが込められていた。
研究室の空気が、ぴんと張り詰める。
窓辺の光が静かに揺れ、三人の影が床に長く伸びている。
レイリスはすぐには答えなかった。
長い睫毛が影を落とし、青白い髪がわずかに揺れる。
その沈黙は、嵐の前の静けさのように、重く深かった。




