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第一部 第四章 第2話

 第三小隊が通常警備に就いてから、しばらくの時間が過ぎていた。

 焚き火の炎は静かに揺れ、橙の光がゆらゆらと草地を照らしている。

 焦げた薪の匂いが夜気に溶け、風が吹くたびに火の粉がゆるやかに宙を舞った。


 その側で、レティアが静かに上体を起こした。

 寝袋から半身を抜き出し、夜の空気を胸いっぱいに吸い込む。

 月明かりの淡い光が、彼女の頬を青白く照らしていた。


 そっと隣にいるマーヤの肩を指先でつつく。

「……マーヤさん、そろそろ起きてください……」

 その声は、まるで夜気の中に溶ける囁きのように柔らかかった。


 マーヤは毛布の中で小さく身をよじり、寝ぼけた声を漏らす。

「……ん〜……まだ……ふわぁ……むにゃ……」

 毛布に包まれた彼女は、まるで小動物のように無防備だった。

 頬にかかる髪が微かに揺れ、唇からこぼれる寝息には一日の疲労がにじんでいる。


 レティアは苦笑を浮かべ、自分の魔導ライフルを胸に抱きながら肩をすくめた。

「もう少ししたら、私たちの警備の番ですよ。先に準備しておかないと……」


 マーヤはまぶたを半ばだけ開き、ぼんやりとした目でレティアを見上げる。

「……レティアちゃん、早起きすぎ……眠いよ……」

「マーヤさんも起きてください……ほら、お湯も沸かしましたから……」


 レティアは焚き火のそばに手招きし、湯気を立てる小鍋を指し示した。

 淡い湯気が夜気に揺れ、光の中で白く滲む。


 マーヤはしぶしぶ毛布から抜け出し、まだ眠気を引きずったままの足取りで焚き火へ近づいた。

 焚き火の光が彼女の頬に反射し、柔らかな影を作る。

 レティアが差し出した湯に干しパンを浸すと、マーヤは口に運びながら呟いた。

「……ん〜……うま……でも眠い……」


 レティアはその様子に微笑みを浮かべ、ライフルの魔力残量を点検しながら言う。

「マーヤさん、もう少ししたら外縁を見回りますから、ちゃんと目を覚ましてくださいね」

「ん……わかってるって……」


 マーヤは目を細めて笑い、くすくすと声を漏らした。

「レティアちゃんこそ、無理しないでね……」


 焚き火の赤い火の粉がふたりの間を舞い、光が揺らめく。

 二人はその光の向こうで視線を合わせ、控えめに微笑み合った。

 眠気と冷え込む夜気の狭間で、ほんの少しだけ――互いの心がほどけるような、温かなひとときだった。


 ふと、マーヤが小さな声でつぶやく。

「……ねぇ、レティアちゃん……」

「はい?」


 レティアが顔を近づけ、耳を傾ける。

「こうしてるとさ……なんか恋人同士みたいじゃない?」


 その一言に、レティアの頬がぱっと赤く染まった。

 焚き火の光がその紅をさらに鮮やかに映す。

「えっ、そ、そんな……私、まだ……!」


 慌てて視線を泳がせるレティアを見て、マーヤは口元に柔らかな笑みを浮かべた。

「ふふ……冗談だよ。でもね、レティアちゃんがかわいいから、ついからかいたくなるんだよねぇ……」

「も、もう……マーヤさん、寝ぼけてるふりして……」


 レティアは眉をひそめつつも、どこか嬉しそうに微笑んだ。

 マーヤはくすくすと笑いながら、そっとレティアの肩に額を寄せた。

「安心して……レティアちゃんが一緒だと、夜の警備も怖くないから……」

 レティアは困ったように眉を下げながらも、優しく返す。

「……はい。私も、マーヤさんと一緒なら怖くありません」


 マーヤは再び目を閉じ、レティアの肩に凭れたまま小さく囁いた。

「もうちょっとだけ……こうしてていい?」

「……もう。仕方ないです……」


 微笑みと共に応じるレティアの声が、焚き火のはぜる音に溶けていく。

 夜風がふたりの髪を撫で、静けさがまた戻ってきた。

 そのまましばらく、マーヤはレティアの肩に凭れたまま、穏やかなまどろみに沈んでいった。

 炎のゆらめきがふたりの頬を温かく照らし、夜の時間がゆっくりと流れていく。


 やがて、遠くから焚き火をかき混ぜる小さな音が聞こえた。

 レティアはそっとマーヤの肩を叩き、優しく声をかける。

「……マーヤさん、そろそろです。警備の時間ですよ」

「ん〜……わかってる……起きる……」


 マーヤは未練がましく顔を離し、寝ぼけ眼のまま魔導ライフルを手探りで探し出した。

 手に取ると、ぎゅっと胸に抱きしめる。

「……さてと……行こっか。レティアちゃん、夜道でこけないように私が守ってあげるね?」


 明るく冗談めかしたその声に、レティアは小さく吹き出した。

「はい、でも……私もマーヤさんを守りますから」


 二人は視線を合わせ、小さく頷き合った。

 焚き火の暖かさを背に、月明かりに照らされた遺跡外縁を、魔導ライフルの金属音を抑えながらゆっくりと歩き出す。

 夜の静けさが森を包み込む中、ふたりの足取りには、もう揺らぎも迷いもなかった。


 第三小隊との警備交代の時間が近づき、レティアとマーヤは焚き火のそばからゆっくりと立ち上がった。

 立ち上がると同時に、夜風がふたりの外套の裾をかすかに揺らす。

 火の粉がひとつ、空気の流れに乗って宙を漂い、静かな闇へと消えた。


 二人は肩を並べ、焚き火の明かりが届かない外縁の暗がりへと足を進めていく。

 足音は湿った土に吸い込まれ、乾いた枝を踏む音すら聞こえない。

 冷たい夜気が、まだ少し眠そうなマーヤの頬を優しく撫で、髪の隙間をすり抜けていった。


「……ねぇ、レティアちゃん、さすがに眠気、吹き飛んだ?」

 マーヤが小声で問いかける。

 レティアは少し肩を竦めてから、微かな笑みを浮かべて応えた。

「はい。でも……マーヤさんのほうが心配です。ちゃんと目を覚ましてくださいね」

「へへっ、大丈夫大丈夫。ちゃんと目ぇ覚ましてるって」


 マーヤは自信満々に胸を張るものの、すぐに手でまぶたをこすった。

 指先が瞼に触れるたび、夜気に冷えた息がふわりと白く漂う。

 その仕草がどこか子どもっぽくて、レティアは思わず小さく笑みをこぼした。


 二人は互いに軽く笑い合いながら、静かな足取りで外縁の闇に溶け込んでいく。

 遠くで焚き火の光が小さく瞬き、夜露を帯びた草の葉がわずかに銀を反射する。

 足元の土は冷たく、靴底からひんやりとした感触が伝わった。


 やがて視界の先に、見張りをしている第三小隊の二人の姿が見えてきた。

 彼らは背を向けたまま、耳を澄ませるように森の奥を睨んでいる。

 月光が肩の鎧を淡く照らし、硬い空気が張り詰めていた。


 レティアが小さな声で呼びかける。

「お疲れさまです。次の交代に来ました」

 一人が振り返り、ほっとしたように息を吐いて微笑んだ。

「ああ、助かるよ。今夜は……実は少し変なんだ」

「変……ですか?」


 レティアが首をかしげる。

 マーヤも不安げに目を瞬かせ、わずかに身体を強張らせた。


「森がな、ずっと無音なんだ。葉擦れも虫の声も獣の遠吠えも、まるで全部止まってる。

 何も出てこないし異常はないが……静かすぎて逆に気味が悪い」

「そんな……」


 マーヤは思わず背筋を伸ばし、周囲をキョロキョロと見回した。

 湿った風も吹かず、木々はまるで息を潜めたように動かない。

 遠くの枝に留まった鳥さえも、羽音ひとつ立てようとしなかった。


 レティアは表情を引き締めて返す。

「それは……警戒すべきですね。油断はできません」

「そうだな。何かあればすぐにレオ班長に報告してくれ」


 もう一人の隊員が、真剣な眼差しで告げる。

 二人は短く頷き合い、互いの肩を軽く叩き合った。

 交代の小隊員たちは、静かに足音を殺して焚き火の方へ戻っていく。


 彼らの背中が闇に溶けて見えなくなったころ、残されたレティアとマーヤは、黒く沈んだ大森林の闇に向き直った。

「……本当に音が……ない」


 レティアがじっと耳を澄ませる。

 森はまるで息を潜め、夜そのものが凍りついたかのようだった。

 マーヤも小さく息を飲みながら答える。

「まるで、森ごと寝てるみたいだね……」


 月明かりに照らされた二人のシルエットが、冷たい空気に溶けていく。

 空には雲ひとつなく、銀色の月が静かに見下ろしていた。


「……やっぱり、音がないのって、落ち着かないですね」

 レティアが小声で呟く。

 マーヤは横目でくすくすと笑いながら言う。

「だねぇ……いつもだったら虫の声とか風の音とか、ちょっとした物音にホッとするのに……逆に怖いよ」


 レティアはうなずきながら、魔導ライフルのグリップを少し握り直した。

 革の感触が掌に食い込み、緊張が指先に集まる。

「そうですね。こういう時こそ気を引き締めないと……」


 マーヤは肩をすくめて、いたずらっぽく笑う。

「でも……レティアちゃんと一緒だから、ちょっとは安心かも」

「えっ……私ですか?」


 レティアは不意を突かれて声を上げた。

 マーヤは柔らかい笑顔で頷き、わざとらしく小声で囁く。

「うん。だってレティアちゃんって、なんか頼りになるんだもん」


 月の光に照らされたマーヤの笑みが、淡く揺らぐ。

 レティアは帽子のつばを指先で触れ、視線を逸らしながらごまかした。

「そ、そんなこと……マーヤさんのほうが、ずっと経験豊富じゃないですか……」

「ふふっ。今夜はそういうことにしておいてあげる」


 マーヤが悪戯っぽく微笑み返す。

 レティアは照れ笑いを浮かべながらも、どこか穏やかな表情で言った。

「もう……からかわないでください」


 二人は肩を寄せ合うように歩きながら、森の闇を見つめる。

 月光は白く湿った地面を照らし、枝の影は微動だにしない。


「でも……」

 マーヤはそっと手を伸ばし、レティアの肩に触れた。

 冷えた指先が外套越しに触れると、レティアの体がわずかに強張る。

「レティアちゃんがいるから、きっと大丈夫」

 レティアは小さく息を吸い、柔らかく頷いた。

「はい。私も、マーヤさんと一緒なら怖くありません」


 マーヤは再び目を閉じ、レティアの肩に凭れたまま囁いた。

「もうちょっとだけ……こうしてていい?」

「……もう。仕方ないですね……」


 レティアは優しく答え、月光の下で小さく微笑む。

 二人の影は月明かりの中で重なり、夜気に溶けていった。

 小さな吐息が白く浮かび、闇にほどけて消える。


「……何も起きませんように」

 レティアが祈るように呟く。

 マーヤも頷き、苦笑しながら言葉を重ねた。

「ほんと。せっかくいい雰囲気なのに、変な魔物とか、歌とか、いらないよね」

「……『いい雰囲気』って……」


 レティアの顔がまた赤く染まり、マーヤはこっそり小さく笑った。

 静かな森の外縁で、二人の見回りは続いていく。


 だが――

 その笑みが完全に消えるのに、そう時間はかからなかった。

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