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第九部 第三章 第1話

 アリスたちが仮拠点に戻る頃には、周囲はすでに撤収準備で慌ただしさに包まれていた。


 岩棚の上に張られた簡易結界は半透明の膜を震わせながら順次解除され、霧の中に淡い光の粒を散らして消えていく。


 魔導車両の荷台には次々と器材が積み込まれ、積み下ろしのたびに鈍い金属音が湿った空気を震わせて霧の奥へ吸い込まれていった。


 観測班の術者たちは額に汗を浮かべながら端末の残り作業を急ぎ、複雑な術式を走らせては記録水晶へ最終ログを書き込み、展開していた術式結界を一つずつ解体しては封印札に収めていく。 


 指揮所代わりのテントでは、結界札や映像水晶の回収が手際よく進められ、魔力遮断の封印箱が重い音を立てて閉じられていった。


「第四観測系、ログ最終確認完了!」

「封印札三番系統、回収済み!」

「遮断箱、封印処理入ります、触れないでください!」


 慣れた手つきで働く人々の間を、報告を受けた伝令や補助員が忙しなく行き交い、短い掛け声と確認のやり取りが飛び交っている。

 仮拠点全体が、ひとつの巨大な歯車のように規律正しく回転していた。


 その流れの中で、アリスは所在なげに立ち尽くしていた。


(私……片付けの手伝い、できることない……)


 専門的な器材を扱う術者や、手慣れた動きで魔導具を封印していくスタッフたちの姿を眺めながら、自分だけが輪の外に押し出されたような感覚に襲われる。


 剣を握ることも、魔力を放つことも得意だ。

 だが今ここで必要とされているのは、緻密な記録と安全な撤収作業。

 そのどれも、彼女には役目がなかった。

 指先がそわそわと落ち着かず、立ち位置を変えるたびに靴底が小さく砂利を踏む。

 胸の奥に、取り残されているような居心地の悪さが募っていく。


「……アリスさん」


 静かな声が、背後から届いた。

 振り向くと、セシリア・グレオール准尉がいつの間にかすぐ近くに立っている。

 仮設指揮端末を片手に持ちながらも、その視線は柔らかかった。


「あなたは十分働きました。石碑の共鳴、再試験、そして事象の証言……今日一日で、どれほどの負荷を受けたか、ご自分で分かっていますか」


 凛とした声だが、叱責ではない。

 労わる響きが混じっている。


「いえ、でも……皆さんが忙しく動いているのに、私だけ何もせずにいるのは、少し落ち着かなくて……せめて何か運ぶとか、記録の整理とか、できることがあれば」


 言いながら、アリスは視線を落とす。

 自分の両手が、何も持っていないことが妙に気になった。


 セシリアは一瞬だけ息をつき、それから小さく微笑んだ。


「あなたが今、無理をして倒れれば、撤収どころではなくなります。それは現場全体の負担になります」


 淡々とした事実の提示。

 だが、その奥にあるのは配慮だ。


「休むことも任務です。これは慰めではありません。部隊運用上の判断です」


 一歩近づき、声をわずかに落とす。


「あなたは象徴です。今日起きた事象の中心であり、今後の報告の中核でもある。……だからこそ、消耗した状態で立たせておくわけにはいきません」


 アリスは目を瞬いた。


「……象徴、ですか」


「ええ。あなたが立っているだけで、現場は安定します。それは、戦闘時だけの話ではありません」


 短い沈黙。

 周囲では依然として撤収の声が飛び交っている。

 だが二人の間だけは、わずかに静かだった。


「今は休んでいてください。――それも任務の一つです」


 改めて、はっきりと告げられる。


 アリスは一瞬きょとんとし、それから小さく頷いた。


「はい……分かりました。命令なら、従います。でも、終わったら……次は何か、ちゃんと役に立てることを任せてくださいね」


 セシリアはわずかに目を細める。


「その意欲は、次の任務で存分に発揮してください。今日は、本当にこれで十分です」


 指示に従い、アリスは近くに置かれた仮設椅子に腰を下ろした。

 簡素な折り畳み式の椅子だが、布越しに伝わる冷たさが、張りつめていた身体の緊張をわずかに和らげる。


 背もたれに体重を預けると、ようやく自分が疲れていることに気づいた。

 深く息を吐き出す。

 胸の奥に張りついていた見えない膜が、少しずつ解けていくのを感じる。


 遠くでは依然として撤収作業の声と足音が絶えない。

 封印箱の閉じる重い音。

 魔導車両のエンジンが低く唸る音。

 伝令の駆ける靴音。


 それでも、椅子に座った彼女の周囲だけは、不思議と静かな空間が広がっているように思えた。

 霧の向こうで光が瞬き、器材が次々と運び込まれていく。

 巨大な歯車は止まらない。

 だが、その中心から一歩外れた場所で、アリスはようやく、ただの一人の少女として息を整えていた。


 ――ふと、意識の奥に沈んでいた声が、冷たい水面を揺らすように甦った。


「門は六つ。ひとつは聞き出せた。でも、残りは……まだ、霧の向こう」


 あの白の空間で響いた、マダム・レティシアの静かな声音。

 凛として澄み切っているのに、どこか遠い。

 まるで時間そのものを隔てて届いたような、不思議な余韻を伴っていた。

 その言葉は小石のようにアリスの心へ落ち、幾重もの波紋となって静かに広がっていく。


 閉じたはずの白の空間は、なお淡い残像として胸の奥に息づいていた。

 光の粒子がまだ瞼の裏を漂っているかのようで、現実へ戻ってきたはずなのに、境界が曖昧に揺れている。

 天幕の布越しに差し込む光がわずかに揺れ、その揺らぎと残像が重なり、世界の輪郭を滲ませていた。


(六つの門……ひとつは辿り着いた。でも、残り五つは所在すら分からない。どうやって、どこから、辿ればいいの……)


 膝の上に置いた指先が、知らず小さく震える。

 押さえ込むように両手を組み合わせると、掌から冷えがじわりと滲み出した。

 布張りの折り畳み椅子は、体温を奪うように冷たい。

 背中に触れる天幕の影が、やけに薄く感じられた。


 そのとき、もうひとつの言葉が脳裏に浮かび上がる。


「魔人と魔人族は違う」


 それは、あの空間で告げられた断言。

 曖昧な推測ではなく、確信を帯びた声音だった。


「……あれって、どういう意味……?」


 かすれた声が唇から零れる。

 だがその呟きは、仮拠点を覆う霧へと溶け、誰にも届かず消えていった。


 耳の奥で、再び残響が広がる。


 「魔人と魔人族は違う。決して、同一ではない。混同してはならない」


 あのときのマダムの瞳は、静かに、しかし揺らぎなくこちらを見据えていた。

 知っている者の視線。

 歴史の裏側を実際に目にした者の確信。


 アリスはゆっくりと椅子の背もたれへ身を預け、わずかに首を仰け反らせる。

 天幕越しの光が揺れ、布の繊維を透かして白く滲む。

 呼吸は浅く、胸の奥にかすかな圧迫感が広がる。


(魔人族……三百年前、魔王アズマール・ベル=ノクトを戴き、クーデターでエルファーレを滅ぼし、魔国を築き、南大陸全体を支配しようとした種族)

(国家を成し、軍を動かし、戦略を立て、人族と正面から戦争をした存在)


 胸の奥が重く沈み、心臓の鼓動がゆっくりと、だが確かに強く打ちつける。

 それは野生の異形ではなく、統治構造を持った侵略国家だったという事実を、改めて突きつけられる感覚だった。


 だが――


(“魔人”は違う)


 戦場で語られたのは、軍略でも統治でもない。

 理性を欠いた破壊。

 暴走した魔力。

 異形として記録された存在。


 その像は、アズマール・ベル=ノクトの威厳ある肖像とは、決定的に一致しない。

 整然と玉座に座す姿と、血煙の中で暴れる異形は、同じ線上に置けない。


 眉間に自然と深い皺が刻まれる。

 記憶の中で、焦土と化した都市の絵図が滲み、燃え上がる炎の赤が瞼の裏に焼き付く。


「……同じ呼称で括られていただけ?」


 小さく呟く。

 声はかすれ、乾いた空気に溶ける。


「恐怖と混乱の中で、区別が失われただけ……?」


 心臓が速く打つ。

 血流の音が耳の奥でざわめき、遠くで封印箱が閉じる鈍い音が反響する。

 魔導車両の低い駆動音が地面を伝い、足裏に微かな振動を残す。


 すべてが薄い膜越しに聞こえる。

 現実が、わずかに遠い。


「魔人と魔人族は違う。……それを理解しなければ、門の先には進めない」


 マダムの声音が、今度はすぐ傍で囁くように響く。

 背筋に冷たいものが走り、肩口にかすかな震えが生まれる。


(だとすれば……三百年前の人魔大戦は、私たちが教えられてきた構図とは異なる可能性がある)

(魔王アズマール・ベル=ノクトを戴いた魔人族と、“魔人”と呼ばれた存在が混同されたまま、歴史が語られてきたのだとしたら……)


 胸の奥に、重い沈殿物のような感覚が広がる。

 言葉にできない違和感が、静かに根を張る。


 六つの門。

 残された五つ。

 そして――魔人と魔人族の違い。


 理屈ではなく、確信として湧き上がる感覚がある。

 それらは、どこかで必ず繋がっている。


「……六つの門、残り五つ。そして“魔人と魔人族は違う”。この二つは、きっと一本の線で結ばれてる。偶然じゃない。絶対に……」


 吐き出した息は、思いのほか熱を帯びていた。

 だが同時に、肺の奥に冷えが残る。

 熱と冷えが同居し、彼女の内側を引き裂くように揺さぶる。


 外では、依然として撤収作業の音が絶え間なく続いている。

 だがアリスの周囲だけが、異様な静寂に包まれているかのようだった。

 霧はゆるやかに流れ、天幕の影を曖昧に溶かしていく。


 世界は動いている。

 だが彼女の思考は、今もなお白の空間の残響とともにあった。


 そのとき――


「……アリス?」


 柔らかな声が、すぐそばから響いた。

 霧を含んだ空気がわずかに揺れ、天幕の布がかすかに鳴る。


 はっと顔を上げると、クラリス・ノーザレインが端末を胸に抱えたまま立っていた。


 栗色の髪はきちんとまとめられ、細縁の眼鏡の奥にある灰青の瞳が、静かにこちらを見つめている。

 研究者としての冷静な光を湛えながらも、その奥には隠しきれない心配の色が滲んでいた。

 霧を透かす外光が揺れるたび、レンズに淡い反射が走り、その視線がより鋭く、より近く感じられる。


「ごめん。さっきからずっと遠くを見ていたから……声をかけるか迷ったんだけど。大丈夫? 顔色、少し悪いよ。呼吸も浅い」


 声音は落ち着いている。

 だが端末を抱える指先がわずかに白くなっているのを見て、アリスは気づく。

 クラリスは、思っている以上に動揺している。


 外では撤収の号令が飛び交い、資材を運ぶ音や車輪の軋み、結界解除の術式が弾ける低い響きが混じり合っている。

 それらすべてが薄い膜越しに聞こえる中、二人の間だけが妙に静かだった。


 アリスは一瞬、胸に渦巻いていた思索を言葉にしかける。


 ――六つの門。

 ――魔人と魔人族の違い。


 喉の奥まで言葉が上がる。

 だが、それはまだ断片的で不確かな仮説にすぎない。

 ここで口にすれば、ただ不安を広げてしまうだけかもしれない。


 その直感が、唇を固く閉ざした。


「……うん。ちょっと、頭の中を整理してただけ。さっきの“白”の空間の残像が、まだ消えなくて」


 微笑みを作ってそう答える。

 だが頬の筋肉がわずかに強張っているのを、自分でも感じた。


 クラリスはじっとアリスの顔を見つめる。

 数秒の沈黙。

 その間、霧の向こうで封印箱が閉じる鈍い音が響いた。


「整理、ね。……あなたは昔から――レティシアだった頃から、何かを抱え込むときほど、そうやって笑うのよ。大丈夫だと言いながら、自分で全部背負おうとする。三百年前も、今も、変わっていない」


 穏やかな口調。

 だがその言葉には、長い時間を共にした者にしか持ち得ない確信が宿っていた。


「無理はしないでね。今日のあなたは、石碑の共鳴の中心にいた。精神的な負荷も相当だったはず。身体より先に、心が疲れている可能性もある。今は休むことが最優先。分かるよね?」


 理屈を並べるようでいて、その声はひどく柔らかい。


 アリスは視線をわずかに逸らし、それからもう一度クラリスを見る。


「……うん、分かってる。でも、ただ疲れてるだけじゃないの。考えなきゃいけないことが、急に増えた気がして」


 そこで言葉が止まる。

 続けようとした瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。


「増えた気がして、って?」


 クラリスが一歩だけ近づく。

 霧を含んだ空気が二人の間で揺れる。


「……まだ、仮説の段階。整理できてないから、今は言えない。中途半端なまま話したら、きっと混乱させるだけだから」


 静かに、しかしはっきりと告げる。


 クラリスはしばらく黙っていた。

 眼鏡の奥の瞳がわずかに細められる。


「そう。なら、無理に聞かない。でもね、アリス。仮説でもいいの。研究はそこから始まるものだから。間違っていても修正すればいい。あなた一人で抱える必要はない。三百年前も、私は隣にいた。今も同じよ」


「……ありがとう。でも、もう少しだけ、自分で確かめたい。繋がるかどうか、ちゃんと見極めたいの」


 微笑みは今度こそ自然だった。


 クラリスは小さく息を吐き、頷く。


「分かった。あなたがそう言うなら、今は信じる。でも約束して。限界を感じたら、すぐに話すこと。私にでも、レティアにでも、誰でもいい。あなたが一人で背負う必要はない」


「……うん。約束する」


 短い言葉だが、そこには確かな決意があった。


 天幕の内に、再び小さな沈黙が落ちる。

 外の喧騒は続いている。

 車輪の軋み。

 術式解除の低い反響。

 伝令の駆ける足音。


 それでもアリスの耳にもっとも強く届いているのは、自らの心臓の鼓動だった。


(……いつか話さなきゃ。でも今じゃない。まだ断片。まだ仮説。確信になるまでは、言わない)


 胸の奥に沈んでいた言葉が、重石から決意へと形を変えていく。


「……ありがとう、クラリス」


 改めてそう告げると、クラリスは柔らかく微笑んだ。


「どういたしまして。あなたが無茶をしないよう見張るのも、私の役目だから」


 研究者の顔ではなく、ただの親友の顔だった。


 霧がゆるやかに流れ、天幕の影を淡く揺らす。

 二人の間にある静寂は、決して冷たいものではない。


 アリスはその静けさの中で、胸に秘めた疑問をひとり抱えながらも、確かに支えられていることを感じていた。

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