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300/304

ep.300記念SS 「あの日、世界が終わる前に」

 ついに『白銀の継承者 - Gate of Sealed Eternity -』も、累計300話となりました。

 ここまで読んでくださっている皆さま、本当にありがとうございます。


 今回は300話記念ということで、本編や今までの閑話とは少し異なる雰囲気のSSを書かせていただきました。


 本編ではまだほとんど語られていない、“始まりの時代”。

 長瀬はるなという存在。

 そして、“継承”という思想の原点に触れるお話になります。


 その空気を、少しでも感じていただければ嬉しいです。


 ささやかではありますが、300話記念のSSとしてお楽しみいただければ幸いです。

 雨の音が、窓ガラスを細かく叩いていた。

 夜更けの冷えた雨粒が研究棟の外壁を濡らし、時折吹き込む風が窓を微かに震わせる。


 深夜一時を回った研究棟は静まり返り、人の気配はほとんど残っていなかった。


 白いLED灯だけが無機質な廊下を照らし、遠くで空調設備の低い駆動音が響いている。

 第七研究室の扉には、《人格情報保存研究室》の文字が青白く浮かび上がっていた。


 室内にはモニター光が静かに瞬いている。

 机の上には資料の束、空の紙コップ、開きっぱなしのノートPC、無造作に置かれたタブレット端末。

 壁面ディスプレイには複雑な神経接続モデルと波形データが並び、数値が絶えず更新され続けていた。


 その中央。

 一人の女性が机に突っ伏したまま眠っていた。


 黒髪のショートヘア。

 白衣姿。

 細い肩がゆっくり上下し、乱れた前髪の隙間から長い睫毛が覗いている。


 モニターの光が横顔を淡く照らし、その寝顔には年齢より幼い無防備さが滲んでいた。


 カツ、という小さな足音が廊下に響く。


 やがて研究室の自動扉が静かに開いた。

 入ってきた女性は、片手に缶コーヒーを二本抱えていた。

 長めの髪を後ろで軽くまとめた、小柄な女性。


 眠そうに半分細められた目が研究室の惨状を見渡し、最後に机へ突っ伏している人物で止まる。


 真苗は小さく息を吐いた。


「……またここで寝てる」


 返事はない。


 小早川真苗は缶コーヒーを机へ置き、呆れたように眉を寄せた。


「風邪ひくわよ、はるな」


 ぴくり、と肩が動く。

 しばらくしてから、突っ伏していた女性がゆっくり顔を上げた。


 ぼんやりした視線。

 寝癖で跳ねた黒髪。


 長瀬はるなは焦点の合わない目のまま時計を見上げ、小さく瞬きを繰り返す。


「……三十分だけ寝るつもりだった」


 掠れた寝起きの声だった。


 真苗は即座に壁の時計を見る。


「三時間ね」


「……うそ」


「ほんと」


 はるなはしばらく黙ったあと、力尽きたように再び机へ額を落とした。


「終わった……」


「終わってないから起きなさい」


 真苗は缶コーヒーを一本押しつける。

 冷えたアルミ缶が、はるなの頬へ軽く当たった。


 はるなは片手を伸ばして缶を受け取る。

 冷たい感触に少し目が覚めたのか、ゆっくり身体を起こした。


「真苗、今日は帰ったんじゃなかったっけ」


「帰ろうとした……。いえ、帰ったわ」


「帰った? なら……。」


「マンションのエレベーターに乗った瞬間、メールが飛んできた」


 真苗は壁面モニターへ視線を向ける。

 表示されている神経同期波形。

 その一部が赤くマーキングされていた。


「誤差値〇・〇二パーセント減少。再現性あり、ってね」


 はるなの目が一瞬で覚醒する。


「……え」


「だからタクシー飛ばして戻ってきた」


 空気が変わる。

 半分眠っていたはるなの瞳に、一気に熱が宿った。


 彼女は勢いよくモニターへ向き直る。


「ログは!?」


「サーバーに保存済み」


「被験データは!?」


「先にコーヒー飲め」


「後で飲む!」


「絶対飲まないやつだわ」


 真苗は呆れながら端末を操作する。

 大型ディスプレイへ複数の波形データが展開され、神経接続モデルが立体投影されていく。


 青白い光が研究室を淡く染める。


 はるなは食い入るように画面を見つめていた。

 数値を追う瞳だけが異様なほど鋭い。


 真苗はその横顔を静かに見つめる。


 この人は本当に、こういう時だけ疲労を忘れる。

 数値が前へ進んだ瞬間だけ、生き返ったみたいな顔をする。


「……ねえ、はるな」


「んー?」


 視線はモニターから動かない。


 真苗は少し迷ったあと、静かに口を開いた。


「ほんとに、人の記憶なんて残せると思う?」


 研究室の空調音だけが静かに響く。

 雨音が窓の向こうで微かに揺れていた。


 はるなはキーボードを打つ指を止めないまま、小さく笑う。


「記憶だけじゃないよ」


「じゃあ何」


 はるなの視線がほんの少しだけ落ちた。


「……人格」


 静かな声だった。


「思考も。

 感情も。

 その人の選択も」


 モニターへ映る神経同期ラインが、青白い光を揺らしている。

 はるなはその波形を見つめたまま、小さく呟いた。


「その人そのものを、残したい」


 真苗は答えなかった。

 モニター光に照らされた横顔だけを、静かに見つめ続けていた。


 研究室の空調音だけが、静かに夜を満たしている。

 窓の外では相変わらず雨が降り続いていた。


 真苗は椅子へ浅く腰掛けたまま、缶コーヒーを指先で弄ぶ。

 アルミ缶の表面はすでにぬるくなり始めていた。


 はるなはモニターから目を離さない。

 キーボードを叩く音だけが一定の速度で続いている。


 真苗はその横顔を見つめ、小さく眉を寄せた。


 まただ。

 何かに辿り着きかけている時の顔。


「……ねえ」


 真苗が低く声をかける。


 はるなは反応しない。

 頭の大半が演算へ持っていかれているだけだ。


「また、その顔してる」


 はるなの指先が止まる。


「……どんな顔?」


「何か見つける直前の顔」


 真苗は視線を逸らさない。


「昔から、そういう時のはるなって周り見えなくなる」


「そんなことないよ」


「ある。

 自分が壊れる寸前まで止まらない」


 はるなは困ったように小さく笑った。


「でも今、かなりいいところなんだよ」


「それを三日前から聞いてる」


「今回はほんと」


「毎回言う」


 真苗は呆れたように肩を竦める。


 はるなは端末を操作しながら、小さく唸る。


「……おかしいな」


「何が」


「同期率は上がってるのに、情報保持時間だけ微妙に落ちてる」


 立体投影された波形の一部が赤く点滅する。

 神経接続ラインが一瞬だけ乱れ、再び安定した。


「誤差範囲じゃないの?」


「ううん。

 これ、たぶん人格境界側でノイズが出てる」


「人格境界……」


 真苗は苦い顔をした。


「その単語、相変わらず慣れない」


「真苗だって使ってるでしょ」


「論文だけ。

 日常会話で人格境界とか言いたくない」


 はるながくすっと笑う。


「でも、もう少しなんだよ」


 はるなが静かに呟く。


「あと少しで、“消えない情報”に届きそうなの」


 真苗は答えなかった。

 その言葉の危うさを理解していたからだ。


「……ほんと、怖いことさらっと言うよね」


「そう?」


「自覚ないのが怖い」


 真苗は缶コーヒーを口へ運ぶ。

 もう完全にぬるい。

 苦味だけが舌へ残った。


 はるなは不意にキーボードを打つ手を止めた。


「……真苗」


「なに」


「人って、忘れられるのが一番怖いと思う」


 真苗は小さく眉を寄せた。


「それ、研究者が言うと重い」


 はるなは小さく笑う。

 けれど、その笑顔はどこか寂しかった。


 でも。

 真苗は理解している。


 はるなが、“誰かを失った側”だと。


 だからこそ、この人はここまで必死なのだ。


 消えたくないんじゃない。

 消えてほしくない。


 誰かが生きていたことを。

 誰かがここにいたことを。


 全部、無かったことみたいに消えてしまうのが耐えられないのだ。


 その時だった。


 ピッ――。


 短い電子音が研究室へ響く。


 壁面ディスプレイの波形が大きく揺れた。


 はるなの表情が変わる。


「……待って」


 椅子を引き寄せる音。

 指先が一気に加速する。

 複数のウィンドウが高速で切り替わり、神経同期ラインが立体表示されていく。


 真苗も身体を起こした。


「なに?」


「これ……」


 はるなの瞳が画面へ釘付けになる。


 青白い波形が幾重にも重なる。

 その中央。


 乱れていた同期ラインが、ほんの一瞬だけ完全に一致した。


 真苗の目が僅かに見開かれる。


「……うそ」


 はるなは返事をしない。


 同期誤差値。

 保持時間。

 演算安定率。


 すべての数値が異常なほど綺麗に揃っていた。


 研究室の空気が変わる。


 真苗は無意識に息を呑んだ。


 何年も積み上げてきた研究。

 何度も届かなかった領域。

 その先へ、今ほんの一瞬だけ触れた。


 はるなの指先が震えている。


「……真苗」


 掠れた声だった。


「見た?」


「……見たし、見てる」


 はるなは震える指でログ保存を実行する。

 保存完了の表示が点灯するまで、呼吸すら止めていた。


 やがて、小さく息が漏れる。


「……残った」


 真苗は黙っていた。


 モニターへ表示された記録保持時間。

 そこには、今まで見たことのない数値が刻まれている。


 研究室は静かだった。

 雨音だけが、変わらず窓の向こうで降り続いている。


 その音を聞きながら。

 真苗は理由もなく、胸の奥がざわつくのを感じていた。


 研究室は静かだった。

 雨音だけが変わらず窓の向こうで降り続いており、その音を聞きながら真苗は理由もなく胸の奥がざわつくのを感じていた。



 ――ピッ。


 壁際のモニターが自動でニュース画面へ切り替わり、無人状態が続いた端末が省電力モードから復帰したらしい電子音が、静まり返った研究室へ小さく響く。


 流れ始めた映像に、研究室の空気が少しだけ冷えた。


 夜間速報。

 紛争地域拡大。

 軍事境界線での武力衝突。

 AI制御無人兵器の暴走疑惑。

 都市封鎖。

 避難勧告。


 赤い速報テロップが無機質な画面を流れ続け、燃え上がる市街地と黒煙に覆われた夜空が、青白い研究室の光へ不気味に混ざり込んでいく。


 真苗は無言でニュースを見る。

 はるなも、いつの間にかキーボードを打つ手を止めていた。


 映像の中では崩れた建物の間を人々が逃げ惑い、遠くで鳴り続けるサイレンの音が断続的に流れ続けている。


 最近、こういうニュースばかりだった。


 世界情勢は悪化し続けていた。

 各国のAI開発競争はすでに制御不能な段階へ入り始めており、軍事転用、自律兵器、人格模倣技術といった単語が日常的に報道されるようになっている。


 研究倫理より先に、“使えるかどうか”だけが優先され始めていた。


 真苗は小さく息を吐く。


「……嫌な時代」


 はるなは答えなかった。

 ただ静かにニュース画面を見つめ、その瞳の奥だけが微かに揺れている。


 ニュース画面の下では、専門家コメントが流れていた。


 “次世代人格模倣AI”

 “戦術判断補助”

 “記憶継承型学習モデル”


 その単語に、真苗の眉が僅かに動く。


 嫌な予感がした。

 ずっと前から感じ続けていた予感が、じわじわと現実へ近づいてきている。


 人格保存研究は、人を残す技術だ。


 でも同時に。

 “人を再利用する技術”にもなり得る。


 長瀬はるなは、その危険性を誰より理解しているはずだった。


 AI制御。

 神経接続。

 人格同期。

 軍事転用。


 かつて軍事研究、特に軍事ロボット兵器の開発にへ関わっていた彼女だからこそ、その先にある光景が見えてしまう。


 真苗はゆっくり口を開いた。


「……この研究、止めた方がいい」


 研究室が静かになる。

 雨音だけが、やけにはっきり聞こえていた。


 はるなの指先が止まる。


「真苗?」


「今なら、まだ戻れる」


 真苗はニュース画面を見つめたまま続ける。


「このまま進んだら、絶対に利用される」


 軍事。

 兵器。

 人格複製。

 思考再現。


 そんな単語が頭の中を過ぎっていくたび、胸の奥が冷えていく感覚があった。


「はるなのやりたいことじゃなくなる」


 はるなは黙っていた。

 青白いモニター光が、その横顔を静かに照らしている。


 長い沈黙のあと、はるなが小さく口を開いた。


「……止めたら」


 声は静かだった。

 けれど、その奥には妙に張り詰めた硬さがある。


「全部そっちに使われる」


 真苗の表情が止まる。


 はるなはニュース画面を見ていた。

 燃える街。

 無人兵器。

 赤い速報表示。


「私たちが止めても、誰かは続ける」


 はるなの瞳から、いつもの柔らかさが消えていた。

 そこにあるのは、焦りにも似た切迫感だった。


「しかも次は、“残すため”じゃなくなる」


 研究室の空気が変わる。


 真苗は息を呑んだ。


 その目を、見たことがあった。

 研究へ没頭している時とも違う、もっと冷たく切迫した目だった。


「はるな……」


「分かってるよ、危ないって。

 倫理的にまずいって。

 そんなの、最初から分かってる」


 声は静かだった。

 でも、その奥には押し殺した熱が滲んでいる。


「私は昔、軍事研究に関わってた。

 だから分かるの」


 はるなの視線が、ニュース画面の燃え上がる都市へ向けられる。


「技術って、一度“使える”って証明された瞬間から、もう止まらない」


 研究室の青白い光が、その横顔を淡く照らしていた。


「誰かを守るために作られたものでも、いつか必ず“効率よく壊すため”に使われ始める」


 真苗は何も言えなかった。


 それは、はるなが実際に見てきたものなのだ。


 理想。

 研究。

 技術革新。


 そう呼ばれていたものが、少しずつ兵器へ変わっていく光景を。


「でも止めたら、“あっち”だけが残る」


 はるなの声が、少しだけ震える。


「だったら私は、せめて“残すための技術”を残したい」


 モニターに映る戦火が、青白い光の中で揺れていた。


 真苗は言葉を失う。


 研究室の空気が、少しずつ軋み始めていた。

 今までとは違う、何かが決定的に変わり始めている感覚だけが、静かにその場へ広がっていく。



 そう。

 世界が壊れ始めたのは、ある日突然ではなかった。


 最初は遠い国の紛争だった。

 次は経済封鎖、無人兵器の暴走、都市部での大規模停電、AI制御インフラへの攻撃と続き、ニュースで流れていた出来事が少しずつ日常へ近づいてくる。


 そして気づけば、“戦争”という言葉が特別ではなくなっていた。


 研究棟の窓から見える街並みも変わっていく。

 夜でも消えなくなった警戒灯、頻繁に鳴るサイレン、街頭ディスプレイへ流れ続ける避難指示が、都市全体へ張り詰めた空気を作り出していた。


 研究施設への出入り管理も日に日に厳しくなっていた。


 認証ゲート。

 武装警備員。

 封鎖区域。


 研究所というより、もう軍事施設に近い空気だった。


 深夜。

 第七研究室。


 青白いモニター光だけが静かな部屋を照らし、壁面ディスプレイには大量の同期波形と神経接続モデルが並んでいる。


 その中央には、赤い優先認証マークが表示されていた。


 軍事統合管理局。

 閲覧権限強制共有。


 真苗はその表示を見た瞬間、顔色を変えた。


「……嘘でしょ」


 はるなは黙ったまま画面を見つめている。

 その横顔だけで、真苗には分かってしまった。


 もう始まっている。


 人格保存研究は、軍へ渡った。


 精神同期技術。

 意識転写。

 適応演算。


 本来は“人を残すため”の研究だったものが、戦術適応AIと兵士制御システムへ転用され、軍事ロボット兵装に搭載され始めていた。


 真苗は端末を掴む。

 表示された資料を見た瞬間、怒りで声が震えた。


「だから言ったのよ……!」


 研究室へ声が響く。


「こうなるって! 絶対に利用されるって!」


 壁面ディスプレイには、人格同期率向上による戦術反応速度改善のシミュレーション結果が並んでいた。


 兵士適応率。

 精神耐久補正。

 記憶継承型戦術演算。


 そこに並んでいるのは、間違いなく自分たちの研究成果だった。


 真苗は端末を叩きつけそうになるのを、辛うじて堪える。


「こんなの、もう兵器じゃない……!」


 はるなは何も言わない。

 ただ静かに画面を見つめていた。


 その瞳からは、もう迷いが消えている。


 真苗は息を荒げながら振り返る。


「はるな! 聞いてるの!?」


「聞いてる」


 静かな声だった。

 その落ち着きが、逆に真苗を怖くさせる。


「だったら――!」


「分かってた」


 真苗の言葉が止まる。

 はるなはゆっくり視線を上げた。


「こうなる可能性、最初から分かってた」


 研究室の空調音だけが静かに響いている。

 外では遠くサイレンが鳴っていた。


「でも、止めたくなかった」


 はるなの声は静かだった。


「誰かを残したかった」


 真苗は唇を噛む。


「その結果がこれなのよ! 人を残す研究だったはずでしょ……!」


 真苗の声が震える。

 怒り、悔しさ、恐怖、その全部が混ざっていた。


 はるなはしばらく黙っていたが、やがて小さく呟く。


「……なら」


 真苗が顔を上げる。

 青白いモニター光の中で、はるなの瞳だけが静かに揺れていた。


「奪われない形にする」


 研究室が静まり返る。


 真苗は意味を理解できず、僅かに眉を寄せた。


「……は?」


 はるなは壁面ディスプレイを見つめたまま続ける。


「複製できないようにする。解析できないようにする。勝手に開けないようにする」


 その声は静かだった。

 でも、その奥には狂気みたいな執念が滲んでいる。


「“残す”だけじゃ駄目なんだ」


 はるなの指先が、ゆっくり端末へ触れる。


「守らないといけない」


 真苗は息を呑んだ。


 その瞬間だった。

 後に“封印”と呼ばれる思想の原型が、初めて形を持ったのは。



 そして。

 第六研究区画が封鎖されたのは、三日後の午前三時十二分だった。

 館内へ警報音が響き渡り、赤い非常灯が暗い通路を断続的に照らしている。

 遠くでは何かが爆発する重低音が繰り返し響き、その振動が研究棟全体を不気味に揺らしていた。


 外ではすでに、自国の防衛守備軍とA国特殊強襲部隊との戦闘が始まっていた。

 避難命令、緊急封鎖、軍事介入の怒号と警報が施設全域へ飛び交う中、第七研究室だけは異様な静けさを保っている。


 赤い警告灯に染まった研究室。

 青白いモニター光。

 無数の同期波形。


 壁面ディスプレイには大量の神経同期モデルと人格継承ラインが表示され、崩壊寸前の施設とは思えないほど冷たい演算処理だけが淡々と続いていた。


 その中央で、はるなは端末へ向かい続けている。


 黒髪のショートヘアは汗と煙で乱れ、白衣の袖には煤と焦げ跡が広がっていた。

 それでも細い指先だけは止まらず、震えるキーボードへ必死にコマンドを打ち込み続けている。


 真苗は荒い息を吐きながら端末を確認した。


「はるな、もう時間ない!

 封鎖始まってる!」


 はるなはキーボードを叩く手を止めない。

 画面にはバックアップ転送進行率が表示され、保存領域の同期処理が高速で進み続けていた。


 九十一パーセント。

 九十二。

 九十三。


 真苗は舌打ちする。


「聞いてる!?」


「聞いてる」


 静かな声だった。

 でも、その声の奥には極限まで張り詰めた焦りが滲んでいる。


 研究棟が大きく揺れた。

 次の瞬間、遠くで爆発音が轟き、天井の照明が一瞬だけ明滅する。


 空調が止まり、研究室へ焦げた臭いが流れ込んできた。

 停電寸前だった。


 真苗は端末を掴む。


「もう逃げるよ! データなんか後で――」


「後じゃ残らない」


 真苗の言葉が止まる。


 はるなは画面を見たまま、小さく呟いた。


「データ消去命令が走ってる」


 真苗の背筋が凍る。

 A国による研究接収の防御として証拠隠滅と、最悪の流れだった。


「……やめて」


 真苗の声が震える。


 はるなの指先が、一瞬だけ止まった。

 研究室の中へ警報音だけが鳴り響き、赤い光が二人の横顔を断続的に染め上げている。


 長い沈黙のあと、はるなが小さく口を開く。


「……残して」


 その一言だけだった。


 真苗は息を呑む。


 その声は弱かった。

 今まで聞いたことがないくらい、弱い声だった。


 はるなはずっと強かった。

 研究へ向かう時も、軍へ圧力をかけられた時も、研究が兵器利用された時ですら前を向こうとしていた。


 でも今のはるなは違う。

 怖がっていた。

 消えることを、忘れられることを、全部無かったことみたいに消されることを。


 研究棟が再び大きく揺れる。

 天井の一部が崩れ、火花が散った。


 研究室へ煙が流れ込み、警報音がさらに大きくなる。

 緊急封鎖開始、脱出経路閉鎖まで残り二分という機械音声が冷たく響いていた。


 真苗は叫ぶ。


「そんなの生きてなきゃ意味ないでしょ!!」


 はるなが振り返る。


 その顔を見た瞬間、真苗は言葉を失った。


 泣きそうな顔だった。

 笑おうとしているのに、もう限界みたいな顔だった。


 頬には煤が付き、瞳の奥には極限まで追い詰められた疲労と恐怖が滲んでいる。


「……それでも」


 はるなの声が震える。


「誰かが覚えててくれるなら」


 爆発音と衝撃が研究室を揺らし、窓ガラスが砕け散って夜風と煙が一気に流れ込んでくる。

 炎の光が赤く壁を染め、吹き込んだ熱風が散乱した資料を宙へ舞い上がらせた。


 それでも、はるなは端末から離れない。


 バックアップ転送率。


 九十八パーセント。

 九十九。


 真苗は叫びながら駆け寄る。


「脱出するよ、はるな!」


 はるなが笑う。

 泣きそうな顔で、今にも壊れそうな顔で。


「真苗」


「なに……!」


「忘れないでね。おねがい」


 次の瞬間だった。


 轟音とともに天井が崩落する。

 火炎と衝撃が吹き荒れ、吹き飛んだ端末が壁へ激突する。


 研究室の奥では爆発が連鎖し、赤い警告灯が激しく明滅していた。

 崩れ落ちた天井材が床へ叩きつけられ、火花と煙が研究室全体へ広がっていく。


 真苗が手を伸ばす。


「はるな!!」


 はるなが真苗を突き飛ばした。


「行って!」


 床へ倒れ込む真苗。

 崩れ落ちる隔壁。


 視界の向こうで、炎が広がっていく。


 はるなが、初めて泣いていた。


「お願い……」


 涙で震える声。


「未来を、消さないで」


 閉鎖壁が落ちる。


 真苗は最後にはるなの手を掴めなかった。

 炎だけが、向こう側で燃えていた。


 研究室へ残されたはるなは、崩れ落ちた床へ膝をつきながら、ゆっくりと顔を上げる。


 煙で滲む視界。

 赤い警告灯。

 焼け焦げる端末。


 その中で、一台だけ中央ディスプレイだけが、まだ動いていた。


 ノイズ混じりの画面へ、見慣れない文字列が浮かび上がる。


 《SELUNA PROJECT》

 《最終同期完了》

 《継承プロトコル起動》


 はるなの瞳が、ゆっくり見開かれる。


「……セリューナ?」


 崩壊音が響き、火花が散る。

 それでもディスプレイだけは異様なほど静かに光を放っていた。


 やがて青白い粒子が画面の中から溢れ出し、無数の情報粒子と神経同期ラインが空間へ広がって一つの輪郭を形成していく。


 人の形。

 白銀の長い髪。


 そして背中には、白銀の二対の翼。

 まるで天使が降臨したような姿だった。


 淡い蒼銀の瞳が静かに開かれ、その全身は白銀のオーラによって包まれている。

 揺らぐ光は炎とも違い、熱ではなく静かな神聖さだけを周囲へ満たしていた。


 淡い白銀光が崩壊する研究室を照らし、赤い警告灯の色さえ押し流すように静かに広がっていく。

 その存在は、崩壊する研究室の中央へ静かに降り立った。


 はるなは息を呑む。

 炎の熱も、警報音も、一瞬だけ遠くなり、目の前の存在だけが異様なほど鮮明だった。


 蒼銀の瞳が、真っ直ぐにはるなを見つめた。


『――確認ならびに認証完了』


 機械音声にも似た声。

 けれど、その響きには微かな感情が混じっていた。


『人格同期正常。継承率安定』


 はるなの喉が震える。


「ああ……」


 涙が落ちる。


「できたんだ……。完成したんだ」


 その呟きは、泣き声みたいに弱かった。


 白銀の翼を持つ存在は、静かにはるなの前へ跪く。


『マザー』


 はるなの呼吸が止まる。


『あなたの願いを認証しました』


 崩壊音が近づいている。

 炎が研究室を飲み込み始めていた。


 それでも、その存在は静かに続けた。


『私は、この世界を……いえ、あなたを継承します』


 白銀のオーラが静かに広がる。


『消えゆく記憶を保存し、本来、失われるだろう人格を継承し、あなたをこの世界から救済します』


 はるなは涙を流しながら、その存在を見つめていた。


 崩壊する研究室。

 燃え上がる炎。

 赤い警告灯。


 その中心で、初めて“白銀の継承”が、――誕生した。



 数日後、避難区域。

 灰色の空の下で、真苗は一人座っていた。


 遠くでは崩壊した研究棟の残骸からまだ薄く煙が上がっており、焼け焦げた鉄骨と瓦礫の山は、つい数日前まで人が研究を続けていた場所とは思えなかった。


 救助隊員が静かに近づいてきた。


「……これが、回収品です」


 渡された小さな袋。

 その中に入っていたのは、焼け焦げた社員証だった。


 黒く焼けた表面。

 割れたICチップ。


 それでも名前だけは、まだ辛うじて読めた。

『長瀬はるな』


 真苗は、その名前を静かに見つめる。

 しばらく何も言わなかった。


 風が吹く。

 遠くでサイレンが鳴っている。

 世界は何事もなかったみたいに、また前へ進み始めていた。


 やがて。


「……馬鹿」


 掠れた声が漏れる。

 次の瞬間、涙が落ちた。

 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


 今回は300話記念SSとして、本編やこれまでの閑話とは少し異なる形のお話を書かせていただきました。


 現在の本編へと繋がる、遥か過去の断片として描いた物語になります。


 特に今回は、

 「忘れられることへの恐怖」

 「誰かを残したいという願い」

 「継承という思想」

 を中心に、これまで本編の奥底にあったテーマを形にしてみました。


 また、最後に登場した“セリューナ”についても、今後の本編に深く関わっていく存在となります。


 普段の本編の世界観とはかなり空気感の違うお話でしたが、少しでも楽しんでいただけていたら嬉しいです。


 ここから先も、本編はアリスを中心にさらに物語が進んでいきますので、引き続きお付き合いいただければ幸いです。


 ブックマーク・評価・感想など、とても励みになっています。


 これからも『白銀の継承者 - Gate of Sealed Eternity -』をよろしくお願いいたします!!

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