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第九部 第一章 第13話

 だが、そのとき――。


「セシリアさん! 内部封印領域に反応あり! 一部の魔力系統が逆相で震えています!」


 イリナの鋭い声が、張り詰めた拠点の空気を切り裂いた。


 彼女の端末に走る光のラインが、不規則に乱れながら明滅する。

 通常であれば同調波と並走するはずの魔力曲線が、明らかに逆方向の振幅を描き、互いに噛み合わない波形を生じさせていた。


 数値が跳ね、警告色が瞬く。

 それは外部干渉では説明のつかない、異質な挙動だった。


「外からじゃない……。これ、内側から……?」


 クラリスが小さく息を呑む。


 指先が端末の表示へと伸びたまま、わずかに震えている。

 冷静を保とうとする声色の奥に、抑えきれない緊迫が滲んでいた。


 セシリア・グレオール准尉は、即座に視線を鋭くする。


 眉がほんのわずかに動き、思考が加速する。

 過去のデータ、前回の試験、類似事象――すべてが瞬時に照合された。


 (……明らかに前回とは違う。前は外部からの逆流反応だった。だが今は……封印の内側が、こちらに“応答”している)


 呼吸を一度だけ整え、彼女は通信回線を開く。


『――アリスさん。あと十秒、同調状態を維持してください。限界を超える前に、こちらで必ず遮断します』


「……わかりました」


 アリスの返答は短い。

 だが、その声音には揺るぎのない決意が宿っていた。


 彼女の掌から魔導剣へと流れ込む魔力は、一本の光の筋となって震えながら伸び、石碑の中心部へと交差している。

 制御は崩れていない。

 だが、流れは確実に“引かれて”いた。


 次の瞬間。


 石碑表層の文様が、明らかに脈動を強めた。


 幾何学的に組まれた円環が、ごくわずかにずれる。

 それに伴い、直線構造が微細に揺らぎ、封印全体が再構成を試みているかのような挙動を見せた。


 まるで――深い眠りの奥から、

 “誰か”が身じろぎをしているかのように。


 淡い光は、規則的な呼吸のように収縮と膨張を繰り返す。

 そのたびに周囲の霧が震え、展開されている結界膜に細かなきしみが走った。


 観測班の緊張は、一気に最高潮へと達する。


 マーロ・ディルヴィン中尉は奥歯を噛み締め、端末から一瞬たりとも視線を離さない。

 セリオ・カルミナは符号変換器を強く握り、内部構造の再解析に入る。


 エルネアの手は符号盤を高速で走り、干渉波を解析する光が、幾重にも重なって乱舞していた。


 護衛隊も同様だった。


 ナディア・フェルグリッド中尉は銃口をわずかに下げ、反動制御を最優先に切り替える。

 レイラ・アスコット少尉は無言のまま、石碑とアリスを交互に見据え、次に起こる“変化”だけを待ち構えていた。


 ミリエルの盾はさらに一歩前へ押し出され、

 フロリアの剣には、淡く鋭い光の縁が生まれていく。


 石碑とアリスのあいだ――。


 そこに、確かに「交信」が生じ始めていた。


 言葉ではない。

 音でもない。


 だが、互いの存在を探り合うような、

 触れれば壊れかねない“何か”のやり取りが、確実に発生している。


 アリスは、微かに唇を開いた。


「……聞こえる、ような……気がする」


 それが、何を意味するのか。

 次に、何が返ってくるのか。


 全員が息を潜める。


 胸の奥に押し寄せる鼓動を必死に抑えながら、

 その兆候を――ただ凝視していた。


 ――残り十秒。


 アリスは魔導剣の柄に触れたまま、わずかに瞼を伏せ、意識を深く沈めていた。

 視界は霧に閉ざされているはずなのに、彼女の感覚はむしろ研ぎ澄まされ、石碑の存在だけが鮮明に浮かび上がっている。


 掌から流れる魔力は、強制的に押し出すものではない。

 呼吸と同調するように、静かな律動を刻みながら、霧を震わせ、封印構造へと幾重にも重なっていく。


 淡く光る紋様が、心なしか脈動を早めた。


 それは外部刺激への反応というより、

 ――応答。


 石碑の“呼吸”が、彼女の鼓動とぴたりと重なったかのような錯覚。

 時間の感覚が引き伸ばされ、残り十秒という区切りが、異様なほど長く感じられた。


 そのときだった。


「……ん?」


 アリスの眉が、ほんのわずかに動く。

 声は自分自身にしか届かないほど小さく、吐息に紛れて消えそうなものだった。


 だが、その瞬間。

 微細すぎて錯覚とも思える“それ”は、確かに彼女の魔力の深層へと触れた。


 音でも、言葉でもない。

 だが――確かに“応え”があった。


 観測端末のひとつが、低い振動音を発する。


 画面に赤い警告波形が瞬き、数値が一瞬だけ跳ね上がる。

 その異変に、ディランが即座に顔を上げた。


「セシリアさん! 今の一瞬、石碑の内部から“個人識別”に酷似した高位魔力応答を検出! 干渉波が――アリスさんの固有魔力特性に、一時的に完全同期しました!」


 驚愕と興奮を抑えきれない声が、拠点に走る。


 端末の表示を拡大していたセリオが、ほとんど同時に補足する。

 解析画面に映る符号列を睨みながら、その声には焦りと、研究者としての戦慄が混じっていた。


「これは……封印文様の中枢に刻まれた認証式の一部かもしれません! “接触者の固有魔力波形”を照合、もしくは記録している可能性が極めて高い……!」


 その言葉に、クラリスが息を鋭く呑む。


「つまり……石碑が、アリスさんを“知っている”……?」


 疑問でありながら、否定を許さない重さを持った言葉だった。


「断言はできません。しかし――他者とは明確に異なる反応を示したのは、間違いありません」


 セリオの低い声に、イリナも端末から目を離さぬまま深く頷く。

 震える指先で符号変換を継続しながら、解析を止める気配はない。


 張りつめた緊張が、空気をさらに重くする。


 その中で、セシリア・グレオール准尉は静かに息を吐いた。

 感情を表に出さぬまま、しかし明確な判断を下すために、通信回線を開く。


『……アリスさん。魔力同調を中断してください。今すぐ剣を鞘に納め、魔力を完全遮断。こちらで後処理に入ります』


 声は平静を装っている。

 だが、その響きは、わずかに硬質さを帯びていた。


「はい」


 アリスの返答は張りつめていたが、迷いはない。


 魔導剣を滑らせるように鞘へと納める。

 刃にまとわりついていた青白い光が、音もなくほどけ、消えていく。


 同時に、掌から放たれていた魔力の流れも、すっと断ち切られた。


 直後。


 石碑の脈動もまた、目に見えて収束していった。


 表層を走っていた淡い光が次第に薄れ、やがて完全に消える。

 再び、灰褐色の静謐な姿へと戻る石碑。


 だが。


 その“残響”は、霧の中に確かに残っていた。


 まるで、完全に眠りに戻る前に、

 ――何かを刻みつけたかのように。


 誰も言葉を発さず、ただその場に立ち尽くす。

 全員の神経は、静かに、しかし確実に揺さぶられ続けていた。


 「……」


 レイラは沈黙のまま、なおも石碑を見つめ続けていた。

 漆黒の兵装に包まれたその身体は微動だにせず、呼吸の気配すら感じさせない。


 だが、その双眸だけは違った。

 氷のように冷たく研ぎ澄まされながらも、奥底には抑えきれぬ淡い熱が灯っている。


 石碑の表層を撫でる霧の流れ。

 完全に沈静化したはずの封印文様。


 それらを一つ残らず焼き付けるように、レイラの視線は一点も揺らがなかった。


 やがてゆっくりと、その視線がアリスへと移される。


 感情を露わにしたわけではない。

 表情も、姿勢も、これまでと変わらない。


 ――だが、その瞳の奥に、一瞬だけ宿った色は、確かに違っていた。


 疑念ではない。

 驚愕でもない。


 それは、長く胸の奥で温め続けてきた考えが、静かに「裏づけられた」ときの色だった。


「……やはり……そう……なのか……」


 誰に向けた言葉なのか、自分自身にも分からない。

 掠れた声は、霧よりも儚く、朝の冷気に溶けるように消えていった。


 その微かな余韻を断ち切るように、沈黙を破ったのはナディアだった。


「今の反応……偶然じゃない。前回とは明らかに違う。封印の“表層”じゃない、“深部”が動き始めてる」


 声は低く、必要以上に抑えられている。

 だが、その一言一言は鋼のように重く、現場にいる全員の思考を一点に収束させた。


「石碑は、ただ受動的に反応したんじゃない。明確に……選んで、応えた」


 ミリエルが剣を握り直し、符文の位置を確かめながら冷静に応じる。

 その声には、恐れよりも分析と覚悟が滲んでいた。


「逆に言えば……“鍵”に近づいている証拠かもしれません。無作為ではなく、条件を満たす存在にだけ反応する……そういう封印構造なら」


 言葉を選びながらも、彼女の視線は自然とアリスへ向いていた。


 その空気を受け止めるように、セシリアは端末へと視線を落とす。

 魔力収束値、干渉残留率、封印安定指数――すべてが許容範囲に戻っていることを確認してから、全体通話を開いた。


『――全員、状況収束を確認しました。異常魔力反応は現在消失。封印構造への直接的な破損、または浸食は認められません』


 一拍。

 場を落ち着かせるための、意図的な間。


『これをもって、第四段階は一時中断とします。各班は警戒態勢を維持したまま、記録整理と再解析へ移行してください』


 さらに、わずかに声のトーンを落とし、静かに付け加える。


『……ただし。今回の反応は、偶発的事象ではありません。記録すべき、重大な兆候です』


 その一言で、空気が再び引き締まる。


『この石碑は、確実に“アリスさん”に応答を返しました。それは事実です』


 言い切りだった。


 その言葉が、霧の中を通って拠点全体に落ちる。

 重く、逃げ場のない現実として。


 観測班も、護衛隊も、誰ひとりとして言葉を挟めない。

 軽口など、入り込む余地はなかった。


 淡い霧が漂う静寂の中で、

 その事実だけが、鋭い刃のように、全員の胸に深く突き刺さっていた。 


 アリスは魔導剣を腰の鞘へと静かに収めた。

 刃が納まったその瞬間、手元から流れていた魔力の奔流が、糸を断たれたようにふっと途絶える。


 石碑の表層を走っていた淡い光も、まるで深い呼吸を終えたかのように、脈動を弱めながらゆっくりと静まり返っていった。


 ――だが、その直後だった。


「……っ」

 アリスの視界が、ほんの一瞬だけ歪む。


 天地がわずかにずれた感覚とともに、膝の力が制御を失い、身体が前へと崩れた。


 硬い地面に片膝をついた瞬間、靴底が細かな砂利を弾き、乾いた音が静寂の中に短く広がる。


 呼吸は乱れていない。

 だが、胸の奥、さらに深い場所に残る微妙な重苦しさが、確かに彼女の体内へ“消耗”として刻み込まれていた。


 魔力を引き絞ったあとの、空洞のような感覚――それが、遅れて身体を支配し始めていた。


 左右に控えていた護衛騎士、レナ・ヴァルシュ少尉とセラ・グラウネス軍曹が、ほぼ同時に反応する。


 鎧の継ぎ目が擦れる低い音を立て、二人は即座に膝を落とし、アリスの両肩を確実に支えた。


「アリスさん、大丈夫ですか。立てますか、無理に動かないでください」


 レナの声音は冷静さを保っていたが、その瞳の奥には、はっきりとした動揺の色が滲んでいた。


「無理は禁物です。今は私たちが支えます、力を抜いてください……!」


 セラの声には、抑えきれない焦りと切迫がはっきりと混じる。


 しかし、アリスは小さく首を振り、唇の端にかすかな笑みを浮かべた。


「……ごめんなさい。気分が悪いわけじゃないんです。ただ……少し、力を使いすぎただけみたいで」


 その言葉は穏やかだったが、かえって消耗の深さを際立たせていた。

 二人の肩越しに伝わる体重の重さが、その“少し”という表現を静かに否定している。


 石碑前の状況を一瞬で把握したセシリア・グレオール准尉は、即座に通信端末を操作し、澄んだ声で全体へ通達を流した。


『こちらセシリア。アリスさんに消耗の兆候あり。全班、警戒態勢を維持したまま、接触班を一時撤収させます。補助班は後方警護に移行してください』


 応答は間髪入れずに返ってきた。


『了解。撤収ルートの確保に入る』


 ナディア・フェルグリッド中尉の声は落ち着いていたが、その背後で響く装備起動音が、事態の緊迫を雄弁に物語っていた。


 同時に、ミリエル・オストン准士官が展開盾を素早く再配置し、フロリア・カンタール軍曹は《対衝魔剣》を握り直して後衛へと位置を移す。


 足音ひとつ、霧の揺らぎひとつも逃さぬよう、周囲に張り詰めた意識は、見えない結界のように広がっていった。


 その一連の動きを、レイラ・アスコット少尉は無言のまま見届けていた。


 彼女の視線はまずアリスに注がれ、次いで石碑へと移る。

 その双眸に、一瞬だけ、陰のような色が宿った。


 やがて、レイラは小さく、しかし確かな頷きを一つ返す。


 そして何も言わぬまま、数歩先へと進み出た。


 重装外骨格の駆動音が霧の中で低く響き、彼女はまるで刃で空間を切り開くように、警戒網を押し広げながら道を確保していく。


 こうして――アリスを中心とした接触班は、重苦しい沈黙を纏ったまま、慎重な撤収行動を開始した。


 背後で、石碑は再び静かに佇んでいる。

 だがその“静けさ”は、すべてを終えた安堵ではない。


 何かを覆い隠したままの、不気味な沈黙。


 一歩離れるごとに、冷たい視線を背中へ浴びせられているかのような錯覚が、誰の胸からも消えることはなかった。 

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