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第一部 第三章 第11話

 遺跡外縁――安全地帯とされたその場所では、複数の小隊の隊員たちが手際よく焚き火を起こし始めていた。

 乾いた枝が組み上げられ、火打石の音があちこちで響く。


 やがて、ひときわ鋭い火花が散り、細い炎が枝の先端を舐めた。

 空気中の湿気が火の温度で弾け、淡い白煙が立ち上る。

 木の樹脂が焦げる独特の匂いがあたりに漂い、その香りが夜の森に広がっていく。


 乾いた枝が勢いよく火を噴き、淡い炎が夜の湿気を押し返すように明滅する。

 焚き火の光は、濃い闇に溶けかけた古代遺跡の石壁を照らし、その古びた文様に金色の揺らめきを映し出した。


 各自が簡易シートを広げ、背負ってきた荷物を次々に降ろしていく。

 金属が擦れる音、布の軋み、魔導具の微かな唸り――それらがやがて一つずつ消え、静かな安堵の息遣いだけが、夜気の中に溶けていった。


 リナ小隊の六人も荷を降ろし、疲れ切った身体を倒木にもたれて休めた。

 その瞬間、誰からともなく、深く長い息が漏れる。

 肺の奥にたまっていた熱が吐き出され、冷たい空気が入れ替わっていく。


「アリスさん、水を飲んで。まだ顔色が戻りきってないわ」


 リナが落ち着いた声で言い、さりげなく水筒を差し出した。

 その手の甲には小さな擦り傷が幾つもあり、一日の戦闘の跡がそのまま刻まれていた。


 アリスは小さく頷き、恥ずかしそうに微笑みながら水筒を受け取った。

 唇に触れた金属の冷たさに、火照った体が少しだけ落ち着く。

 ごくり、と喉を鳴らして飲み込んだ水が、冷たく胃へと流れ込み、ようやく体の芯に“生きている”という感覚が戻ってきた。


 エルドとフィルは素早く動き、小鍋を焚き火の火種の上にかけた。

 袋から取り出した乾燥肉と野菜を手際よく刻み、水とともに鍋へと放り込む。


 焚き火の炎が小鍋の底を赤く染め、金属が熱せられる音が“カチリ”と微かに響いた。

 調味塩を振る手には、長年の習慣が染みついている。

 細かな動作のひとつひとつに、無言の信頼と連携があった。


 互いが何も言わずとも動く――それは数えきれない戦場を共に越えてきた証のようだった。


 マーヤとレティアは、周囲の枯れ枝をかき集め、火勢が落ちぬように次々と薪を投入する。

 乾いた枝が弾けて小さく火花を散らし、そのたびに炎が揺らめき、隊員たちの顔を赤く照らした。


 やがて、鍋から立ちのぼる香ばしい湯気が夜気に溶け込み、肉と野菜の柔らかな香りが辺り一帯を包んでいく。

 冷えた空気の中、その温もりがまるで命の灯のように感じられた。


「やっと人心地つくな……」


 フィルは鍋をかき混ぜながら、深く息を吐いた。

 瞳に映る焚き火の光が小さく揺れ、彼の表情にもようやく安堵の色が滲む。

 エルドは木製の椀を取り出し、手際よくスープをすくっては仲間へ配っていく。


「ほらリナ、隊長から優先だ」

「ありがとう、エルドさん」

「アリスは二杯な」

「え?、ええ……ありがとうございます、いただきます」


 アリスの声は少し掠れていたが、その笑みには穏やかさが戻っていた。

 焚き火のはぜる音が心地よく響き、湯気がしっとりと夜の空気に溶けていく。

 炎が石壁に影を落とし、その影がゆらゆらと踊る。


 全員の頬にほんのりと赤みが差し、長く張り詰めていた緊張が、まるで氷が溶けるように静かに解けていった。


「……しかし、本当に今日は大変だったな」


 フィルは椀を両手で包み込みながら、遠くの闇を見つめるように呟いた。

 スープの湯気が彼の頬をなで、その視線の先には、闇の中に沈む遺跡の影がある。


「ゴブリンの群れに、あの歌声……一体何なんだろうな、あれは」


 エルドはあごに手を当て、眉をひそめた。

 焚き火の光が頬の傷跡を照らし、彼の表情に影を落とす。


「気味が悪いだけじゃなくて……あれ、魔獣を呼び寄せてるんじゃ……って、考えすぎかな?」


 マーヤは眉をひそめ、少し怯えを帯びた声で言った。


「あり得るわ。この後の報告で上層部に伝えて、対策を検討してもらわないと」


 リナは即座に反応し、真剣な表情で頷く。

 彼女の声は冷静でありながらも、どこか硬い。

 指先は椀を握るたびに小さく震えていた。


 レティアはそんなリナを一瞥し、その隣で静かにスープをすするアリスを見やった。

 微笑みを浮かべ、そっと言葉を添える。


「でも、アリスがいてくれて本当に良かった。途中、何度助けられたか分からない」


 アリスは木椀を口に運びながら、穏やかに首を振る。


「みんなで生き残っただけ。私一人じゃ、無理だったよ」


 その声は焚き火の音に溶け、柔らかく夜の空気へと散っていく。


「そうだな!」


 エルドが勢いよく木椀を掲げた。


「全員無事が何よりだ! ……明日も頼むぞ、隊長!」


 リナは苦笑し、頬にかかった髪を軽く払う。


「ええ……もちろん。……でも今は、とにかくしっかり食べて休むのが仕事よ」


「りょーかい!」


 フィルが笑いながら答え、マーヤとレティアもそれぞれ微笑んで頷いた。

 焚き火の輪の中に、小さな笑い声がぽつり、ぽつりと咲いていく。

 その声が夜気を揺らし、静かな森に、わずかながらも“人の温もり”を戻していた。


 冷たい風が遠くから吹き抜け、古代遺跡の壁面を撫でる。

 その向こう、森の奥深くでは、まだ得体の知れぬ気配が、音もなく息づいているかのようだった。


 それでも――。

 焚き火の温もりに包まれた六人の輪の中には、安堵と、確かな絆があった。


 そしてその光の下で、彼らの心には、明日へ向かう静かな決意が、ゆっくりと芽生えていた。


 遺跡外周――安全地帯に指定されたその場所では、いくつもの焚き火がぽつぽつと灯り、それぞれの小隊がその周囲に集まっていた。

 炎が湿った夜気を押し返し、石造りの遺跡の壁面に赤い揺らめきを映す。

 焦げた木の匂いと金属油の匂いが混ざり合い、夜の静けさに人の営みの温度を戻していた。


 各小隊の隊員たちは焚き火を囲み、装備を点検したり、銃身を拭ったりしていた。

 鎧がきしむ音、魔力コンデンサの低い唸り、そして小さなため息が交錯する。

 戦いの残滓を静かに洗い流すように、誰もが黙々と手を動かしていた。


 リナ小隊の面々も食事を終え、焚き火の側で湯気を立てるスープ鍋を囲み、ようやくほっと息をついている。

 淡い火の粉が空に舞い、燃えかすがぱちりと弾けて音を立てた。


 そんな中、班長のレオが、焚き火の中央に立ち上がった。

 背の高い影が炎を背にして伸び、彼の顔を橙色の光が照らす。

 険しい目元には疲労が刻まれていたが、その瞳の奥には確かな威圧と冷静さが宿っていた。


「……各小隊長はこちらへ。行軍状況と警戒情報を報告しろ」


 低く響く声が、夜の空気を震わせた。

 その言葉に、焚き火を囲んでいた小隊長たちがそれぞれの位置から立ち上がり、装備を整えながらレオのもとへ歩み寄る。


 靴底が砂と石を踏みしめる音、鎧の留め具が擦れる金属音。

 小さな音の一つひとつが、夜の静けさの中ではやけに鮮明に響いた。


 木々のざわめきと焚き火のパチパチという音が遠い呼吸のように聞こえる中、全員の視線がレオへと集まる。

 その空間に、再び緊張の糸が張り詰めた。


 レオは焚き火の火を背に、顔を引き締めながら集まった小隊長たちに告げる。


「これより、遺跡外縁到着時点での各小隊状況を確認する。全員の前で報告しろ。順に簡潔に話せ」


 その一言に、場の空気が変わった。

 先ほどまでわずかに漂っていた安堵がすっと消え、全員の姿勢がわずかに正される。


 近くにいた隊員たちは焚き火の光に背を預け、それでも耳はそちらに傾けていた。

 誰もが、今夜の報告がただの形式ではないことを理解している。


 最前列の小隊長が一歩前に出て、敬礼した。

 焚き火の光がその頬を照らし、軽く焦げた軍装の肩章をきらりと光らせる。


「報告いたします。予定通り進行。途中、《ストーンバック・ウルフ》と二度交戦しましたが、負傷者なし。弾薬消耗も軽微です」


 レオは頷き、簡易記録盤にペンを走らせながら短く言う。


「よし、次」


 短い指示が飛ぶたびに、次の小隊長が一歩前に出て報告を始めた。

 それぞれの声が重なり、焚き火の音とともに夜の空気を満たしていく。


「第二小隊、魔力障壁展開中異常なし。魔力消耗軽微。哨戒班二名を北側へ配置」

「第三小隊、後方補給部隊と合流済み。負傷者二名、軽傷。明日には復帰可能です」


 報告のたびにレオの筆が動き、短い確認の声が返る。

 そのやり取りが繰り返されるたび、隊の中にわずかな安堵が生まれ、誰かの肩の力が少しずつ抜けていった。


 しかし、それも束の間だった。


「リナ。最後だ、報告しろ」


 レオの声が静かに響いた瞬間、周囲の視線が一斉にリナへと向いた。

 リナは深く息を吸い、背筋を伸ばして一歩前に出る。

 焚き火の光が彼女の横顔を照らし、瞳に映る炎が静かな決意を映した。


「報告いたします。行軍中、複数回にわたり《ストーンバック・ウルフ》および《ゴブリンロード》の群れの強襲を受けました。特にゴブリンロードの数は、従来の情報と比べても異常に多く、予想を超える交戦となりました。加えて、昨日に引き続き謎の歌声が行軍中に何度も確認され、隊列を変更し警戒を強化したため、予定より到着が遅れました。現在、隊員に深刻な負傷者はおりませんが、魔導ライフルの破損と魔力コンデンサの残量が不足気味です」


 その言葉が終わると同時に、周囲から小さなどよめきが起きた。


「ゴブリンロードが……?」

「群れで……? そんなはずは――」


 低い囁きが広がり、誰かが息を呑む音が焚き火のはぜる音に混じった。

 レオは眉をひそめ、記録盤のペンを止める。


「……本当にゴブリンロードが群れで出たのか?」


 確認する声は静かだったが、その奥には明らかな警戒の色があった。


「はい。目視で五体を確認しました。それぞれが指揮個体を持ち、連携して動いていた可能性があります」


 リナの報告に、場の空気が一気に凍りつく。

 焚き火の音だけが沈黙を埋め、その橙の光が皆の表情に緊張の影を落とす。


 レオは短く息を吐き、額に手を当てながら低く呟いた。


「……厄介だな。ここも注意した方がよさそうだ」


 その一言で、空気はさらに引き締まった。

 全員の目が炎の向こうを見つめ、森の奥の闇を意識する。


「……報告、ご苦労だった。遅れた理由は充分に理解した。――無事で何よりだ」


 焚き火の光に照らされたレオの瞳には、安堵とわずかな疲労が滲んでいた。

 周囲の小隊長たちも、まだ信じられないような表情でリナを見ていた。


 その沈黙を断ち切るように、レオは声を張り上げる。


「全員聞け! 二時間交代で警戒班を組め! それ以外はしっかり休め! 明日に備えろ、解散!」


「了解!」


 一斉に返された声が、夜の闇を突き抜けるように響いた。

 その声が遺跡の壁に反響し、森の奥へと消えていく。

 どこか遠くで鳥の羽ばたく音がした。


 その瞬間――不気味に漂っていた森の気配が、ほんの少しだけ押し退けられたように感じられた。


 焚き火の周囲では隊員たちがそれぞれの役割を確認し合い、見張り班が位置につき始める。

 誰もが無言のまま、手慣れた動作で夜営の支度を進めていた。

 疲労と緊張に刻まれた彼らの顔には、安堵と、そして消えぬ不安が入り混じっていた。


 その夜、森の闇は深く、炎の光が届かぬ向こうでは、何かが確かに――息をしていた。


 ――各小隊長がレオに報告している最中、焚き火の輪の少し離れた場所で、フィルがそっと息を吐いた。

 橙の光が彼の頬を照らし、額に滲む汗がきらりと光る。

 その手には、磨き直されたばかりの魔導ライフル。

 銃身には薄い煤が残り、まだ戦いの痕が消えていなかった。


「……お前、また剣だけでゴブリン切って回るのは程々にな」


 小声でそう言いながら、フィルは隣のエルドの肩を軽く小突いた。

 声には呆れと心配が混ざっている。


 エルドは焚き火越しにこちらを見やり、唇の端を上げて笑う。

 火の光がその笑みを照らし、逞しい輪郭を際立たせた。


「お前が銃で外さなきゃ済んだ話だろ?」


 冗談めかしたその一言に、フィルが一瞬むっとしてから、すぐに吹き出した。


「ははっ、言うようになったな……」


 二人のやりとりに、マーヤが苦笑しながら歩み寄ってきた。

 その髪が焚き火の光を受けて柔らかく揺れる。

 彼女は腰に手を当て、あきれたように肩をすくめた。


「もう、また始めた。……でも、無事で良かったね」


 その言葉に、二人とも顔を見合わせ、ほんの一瞬だけ、静かに笑みを交わした。

 火の粉が小さく弾け、空へ舞い上がる。


 そのやり取りを見ていたレティアが、微笑みながらそっとアリスの肩を叩いた。


「一番頑張ったのはアリスよ。本当にありがとう」


 彼女の声は柔らかく、まるで疲れた心を包み込むようだった。

 その瞳には安堵と誇り、そしてほんの少しの涙の光が宿っている。


 アリスはわずかに驚いたように顔を上げたが、すぐに小さく笑った。

 頬に当たる夜風が冷たく、火の温もりが肌を優しく撫でる。


「……皆がいたから」


 その小さな声は、まるで夜の静寂に溶け込むように淡く響いた。


 焚き火の炎がぱちりと弾け、音が闇に散る。

 炎に照らされたアリスの横顔が、一瞬だけ光に包まれたかのように見えた。


 誰も言葉を継がなかった。

 マーヤが静かに膝を抱え、フィルはライフルを膝の上に置いて目を閉じる。

 エルドは焚き火に薪を一つくべ、赤々と燃える炎を見つめながら深く息をついた。


 レティアは隣のアリスの肩にそっと手を置き、静かに頷く。

 火の粉が二人の間を舞い、夜風に乗って天へと昇っていく。


 その光が消えていくのを、アリスはぼんやりと見つめていた。

 目の奥に映るのは、どこか遠い記憶のような暖かさ。


 焚き火の弾ける音が、やがて夜空へと吸い込まれていく。

 風が遺跡の壁を撫で、草の葉を揺らした。


 その静寂の中――。

 仲間たちの微笑みと笑い声が、確かにそこに“生”の証として残っていた。


 闇は深く、森はなお眠らない。


 だが、焚き火の光の輪の中だけは、確かに穏やかで、温かい時間が流れていた。

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