第九部 第一章 第4話
初会合が終了し解散となり、調査隊のメンバーたちがそれぞれの準備に向けて動き出す中――
重厚な扉が開閉するたび、鈍く低い音が石造りの壁に反響し、わずかに震えるような余韻を廊下へと残していった。
革靴や軍靴の規則正しい足音が床板に刻まれ、やがて曲がり角の向こうへと吸い込まれていく。
紙束を抱えた研究員の腕が擦れ、羊皮紙の乾いた音がぱらぱらと零れ落ちる。
鎧の留め具や武具がわずかに触れ合い、控えめながらも確かな金属音が鳴り、去り際の気配をひときわ重々しいものにしていた。
会議の熱が去ったはずの室内には、それでもなお薄い魔力の残滓が漂っていた。
魔導投影機の光はとうに消えているというのに、空気はどこか青白く冷たく、肌にかすかな粟立ちを覚えさせる。
緊張の余韻が完全には消えきらず、目に見えぬ膜が室内全体に張り付いているかのようだった。
窓の外から差し込む午後の光は、傾きかけた太陽に照らされ、わずかに赤みを帯びている。
木枠の窓ガラスを透かしたその光は、机の上に散らばる資料を照らし、羊皮紙の端を淡く縁取った。
使い込まれた椅子が押し戻される音が一つ、また一つと響き、誰もいなくなった座席がぽっかりと空白を残す。
その静けさが、かえって先ほどまでの張り詰めた熱を際立たせていた。
誰も声を発していないはずなのに、耳の奥にはなおセシリアの言葉が残響しているようだった。
「不測の事態を想定し、私とレイラ少尉用の魔導兵装もフル装備で準備しております」
――あの一言の重みが、今もなお空間そのものに刻み込まれているかのようで、立ち去る者の胸に影を落とし続けていた。
薄く残る魔力の気配と緊張の余韻は、会議室に張り付き、名残のように漂い続けている。
そんな中、クラリスは隣で静かに資料をまとめていたアリスへと、そっと身を寄せた。
羊皮紙の端を揃える指先の動きは慎重で、几帳面そのものだが、その眼差しには微かな探る色が宿っている。
「……緊張してる?」
問いかけられたアリスは、手を動かすのを一度だけ止め、伏せていたまつ毛をゆっくりと持ち上げた。
淡い光を映した瞳が一瞬だけ揺らぎ、すぐに澄んだ色を取り戻す。
「ううん。むしろ前より落ち着いてる。やることが、ちゃんと見えてるから」
声は低く抑えられていたが、不思議とよどみはなかった。
その瞳には、曇りのない覚悟と、芯の通った光が確かに宿っている。
虚勢や強がりとは違う、内側から静かに、しかし確実に湧き上がる決意。
それがそのまま形になっているかのようで、年若い少女の顔に、ときおり戦場の兵士に似た影を落としていた。
クラリスは、そんなアリスを横目に見つめ、静かに頷いた。
眼鏡の奥の視線がわずかに和らぎ、冷静さの隙間から優しさが垣間見える。
その仕草はほんの一瞬だったが、彼女なりの肯定と信頼が、確かに込められていた。
周囲を見回すと、会議室にはすでに多くの椅子が空席となり、残っているのはわずかな余韻と資料の山だけだった。
重厚な長机の上には、いまだ人の温もりが残っているかのように、小さな凹みや書類の跡が散らばっている。
外から差し込む午後の日差しはさらに赤みを帯び、窓枠の影が机上の資料に長く伸びていた。
その情景の中で、クラリスは低く、しかし確かに響く声で呟いた。
「今回は……本当に、対処が万全ね。あれだけの装備と人員を動かすなんて、前回の調査とは比べものにならないわ」
その声音には安堵と同時に、皮膚の下を走る緊張の色が混じっていた。
会議室の静けさは、むしろその言葉の重みを、より鮮明に浮かび上がらせている。
アリスも姿勢を崩さず、机上の羊皮紙を一枚ずつ丁寧に揃えながら、落ち着いた声で応じた。
指先の動きは静かだが、その声には確かな重みがある。
「うん。医療班が現地配備されるなんて思ってなかったし……ティアナ様の代わりに、レイラ少尉まで参加するなんて。たぶん、私たち以上に、周囲の方が本気なのかもしれないね」
小さく吐き出されたその言葉は、会議室の広い空間にすっと溶け込み、かすかな残響のように漂った。
アリスの横顔は真剣で、淡々と事実を述べているようでいて、その奥には「自分の立ち位置を理解しようとする強さ」が見え隠れしていた。
「本気、ね」
クラリスは微かに口元を緩め、控えめな笑みを浮かべる。
だが眼鏡の奥で光る瞳には、笑みとは裏腹に深い真剣さが宿っていた。
その視線は、資料ではなく、まっすぐにアリスへと向けられている。
「……それだけ、この遺跡に“何かがある”って、皆が直感しているということよ。だからこそ、私たちがしっかり掴まないといけない。曖昧なまま、次へは進めないわ」
その言葉は柔らかく響きながらも、芯のある低さを帯びていた。
窓の外から差し込む夕陽がクラリスの頬に淡く射し、光と影の境界がその横顔に鋭さを与える。
語気に込められた覚悟と責任感は、もはや単なる学者のものではなく、戦場に立つ者と同じ重さを帯びていた。
アリスは一瞬だけ動きを止め、その横顔を見やった。
クラリスの瞳に映る光を見つめながら、胸の奥に生じた小さな緊張と、それに共鳴する何かを、確かに感じ取っていた。
アリスは軽く頷き、そのままふと視線を宙へ泳がせた。
会議室の高い天井、その梁の影が夕刻の光に溶けかけているのを、ぼんやりと見つめながら、思い出を手繰るように言葉を紡ぐ。
「レイラ少尉……私、まだ直接お会いしたことはないけど。やっぱり、すごい人なんでしょう?」
少し間を置き、記憶を確かめるように続ける。
「この前の学院舞踏祭の行軍のときに、遠くから姿を見ただけでした。きちんと顔を合わせたことはなくて……でも、あのときの整然とした隊列の中心にいた少尉の姿は、すごく印象に残ってます」
思い返せば、あの瞬間の空気はどこか異質だった。
祝祭の華やかな喧噪、音楽と歓声、色とりどりの装飾に満ちた大通り。その中にあって、騎士団の行軍だけが、まるで別の世界から切り取られたかのように張り詰めていた。
観衆の拍手や喝采でさえ、一糸乱れぬ歩調の前では次第に勢いを失い、やがて自然と道を譲るように静まっていく。
それほどまでに、隊列は整い、無駄がなく、冷えた緊張を孕んでいた。
とりわけ、列の中心にいたレイラ少尉の存在。
歩みは他の騎士と同じく規則正しいはずなのに、彼女を中心に空気の密度だけがわずかに変わって見えた。
背筋を伸ばし、視線は真っ直ぐ前へ。
祝祭に集う誰よりも、その姿は明確に「戦場の人間」であることを示していた。
アリスはそのとき、無意識に息を呑んでいた。
きっと、あの場にいた多くの観客が同じ感覚を抱いたに違いない。
――まるで、軍勢全体を、ただ一人の意思が束ねているかのような、異様な統率感。
クラリスは一瞬だけ考えるように視線を落とし、指先で資料の端を整えながら、正直に答えた。
「私も、個人的な面識はないわ。でも、戦場での記録や報告なら、いくつか目を通してる。“ブラッディ・ローズ”の異名は伊達じゃないみたい。剣の軌道が見えなかった、とか。敵陣に単独で切り込んだ、とか……正直、ほとんど逸話の域ね」
淡々とした口調でありながら、その内容は尋常ではない。
アリスはわずかに目を見開き、すぐに小さく苦笑した。
「それって……ちょっと怖いような。でも、味方でいてくれるのは心強いですね」
「ええ。間違いなく頼れる味方よ。あの人が動く、というだけで、状況が“それ相応”だって皆が理解するくらいには」
アリスは机に両手を置き、背筋を伸ばして正面を見据えた。
その横顔にはまだ幼さが残っている。それでも、瞳の奥には揺るぎのない静かな決意が宿っていた。
「……なら、私も応えないと」
一拍の間もなく、言葉は続く。
「絶対に、無駄にはしません」
その声に込められた意志は、ひんやりと冷えた会議室の空気を、微かに震わせるように響いた。
クラリスはそんなアリスの横顔をじっと見つめ、眼鏡の奥で光る瞳を細める。
そして、ふと核心を突くように問いを投げかけた。
「ねえ、アリス。……今回の調査、なんとなく“何かある”って、思ってない?」
唐突な問いに、アリスは手を止め、ぱちりと瞬きを一度。
わずかに首を傾げてクラリスを見上げると、小さく口元を緩め、苦笑を滲ませながら返した。
「……やっぱり、そう思う?」
「うん」
クラリスは頷き、机上に散らばった資料へと視線を落としながら言葉を続ける。
「説明の内容も、全体の準備も、前回とは比べものにならないくらい入念だし……何より、あなたの表情。さっきから、少し緊張してるように見えたから」
アリスは一瞬だけ目を伏せ、指先で書類の端を無意識に撫でた。
言葉を探すように、短い沈黙が落ちる。
窓越しの夕光が彼女の横顔を照らし、頬に柔らかな影を落とした。
やがて、小さく吐息をこぼし、胸の奥から引き出すように静かに答える。
「正直……ずっと、胸の奥がざわざわしてるの。記録を読み返したり、準備を進めたりするうちに、それがどんどん強くなってて……うまく言えないけど、“何かが来る”気がしてる」
その言葉は、解散直後の静けさに沈み込み、重く、はっきりと響いた。
クラリスは真剣な眼差しでアリスを見つめ、ゆっくりと頷く。
その瞳には、理知的な冷静さと、仲間を思う温かさが同居していた。
次の瞬間、彼女はほんのりと柔らかな笑みを浮かべる。
「そっか。あなたの勘、私は信じてる。何があっても……私は、あなたのそばにいるから」
驚くほど自然で、けれど確かな力を帯びた言葉だった。
言葉以上の重みが、守りの結界のようにアリスの胸へと広がっていく。
さらにクラリスは声を少し落とし、わざと肩の力を抜いたような調子で付け加えた。
「……まあ、本音を言えば、“何も起きない”方が嬉しいけどね。精神的にも、体力的にも」
アリスは思わず吹き出しかけ、慌てて口元を手で覆った。
目元には、張り詰めていた緊張を溶かすような柔らかな笑みが浮かぶ。
それでも、その瞳の奥は、しっかりと引き締まっていた。
「うん。でも、もし何かが起きるなら……ちゃんと迎え撃つ覚悟は、できてる」
二人の声は、広い会議室の壁に静かに反響する。
薄暗くなりかけた窓辺から射し込む光と影が彼女たちを包み、その言葉一つ一つに確かな重みを与えていた。
解散したばかりの室内に漂う余韻は、沈黙よりも濃く張り詰めている。
それは、ただの調査ではなく――次なる決戦の予感を孕んだ空気だった。
その予感は、確かに二人の胸へ、深く刻み込まれていった。




