第一部 第三章 第10話
梢の隙間から洩れる陽光が、倒木にもたれるアリスの頬を優しく撫でていた。
風が通り抜けるたびに光が揺れ、木漏れ日の粒が彼女の髪を金糸のように照らす。
土の香り、湿った木の匂い、遠くで鳴く小鳥の声――それらが混ざり合い、静かな時間の層を作っていた。
微かな寝息が止まり、アリスはわずかに身じろぎをする。
そして、まぶたがゆっくりと震え、淡い光の中で開かれた。
「……ん……あ……」
掠れた声が唇から漏れ、ぼんやりとした視線が世界を捉える。
まだ夢と現実の狭間にいるような、その蒼の瞳が焦点を結ぶと――目の前に、しゃがみ込むリナの姿があった。
「おはよう、アリスさん。よく眠れた?」
リナの声は低く、落ち着いていて、森の空気に溶けるようだった。
淡い陽光が彼女の頬を照らし、汗と疲労の中にも芯の強さを滲ませている。
アリスはその姿を認めた瞬間、小さく跳ね起きた。
一瞬にして意識が現実へと戻り、慌てて頭を下げる。
「す、すみません! 最後まで寝てしまって……!」
声には焦りと気恥ずかしさが混じっていた。
リナは柔らかく笑い、首を横に振る。
「大丈夫。あれだけ戦ってたんだもの、少しは休まなきゃ」
その横で、フィルが苦笑しながら肩をすくめた。
「気にすんな。アリスが一番体を張ってたんだ、寝て当然だろ」
マーヤが水筒を差し出し、にっこりと微笑む。
「ほら、喉潤して。もう行動開始だから」
アリスは恥ずかしそうに頬を赤らめ、両手で水筒を受け取った。
金属の冷たさが掌に伝わり、喉を潤す水の感触が全身を静かに目覚めさせていく。
飲み終えたとき、肩に残る重さがわずかに軽くなった気がした。
リナが全員を見渡し、声を引き締めた。
「じゃあ、全員準備完了ね? 休憩終わり。行軍を再開するわ」
「了解!」
その声が重なり、六人の間に再び緊張が走る。
彼らは立ち上がり、湿った草を踏みしめ、魔導ライフルと魔導剣の状態を確かめながら歩き出した。
森の空気はどこか冷たく、息を吸うたびに湿り気が肺の奥まで入り込む。
足音は落ち葉に吸われ、沈黙の中に小さな鼓動だけが続いていた。
――だが、進み始めて間もなく。
かすかな風の中に、誰かの声のようなものが混ざった。
それは人の言葉とも、精霊の囁きともつかぬ、不気味で、けれどどこか美しい旋律。
森全体がそれに呼応するようにざわめき、葉擦れの音が一斉に方向を変えた。
「……また、歌声……?」
マーヤの声が震える。
レティアの耳が微かに動き、リナは即座に全員へ手信号を送った。
「止まって、周囲警戒!」
六人は息を殺し、視線を四方へ走らせる。
風の音が消え、鳥の鳴き声さえ止む。
木々の間から差し込む光が一瞬揺らぎ、森そのものが息を潜めたようだった。
「……いない……?」
フィルが小さく呟く。
その声が異様に響き、誰もが思わず息を止める。
エルドが低く言った。
「気味が悪いな……油断するなよ」
彼の手が剣の柄に自然と伸び、指先が軽く震える。
その緊張が空気に伝わり、全員の肌を刺した。
森の奥では、風に混じって何かが動くような音がする。
だが、それは幻聴のように消えていき、再び沈黙が訪れる。
しばらくして、旋律は霧が晴れるようにふっと消えた。
代わりに、どこかで鳥が鳴き始め、森の静寂がゆっくりと戻っていく。
だが、六人の胸の奥には、何かが確かに残っていた。
それは恐怖ではなく、理解できない“違和感”だった。
その後の行軍は遅々として進まなかった。
道はぬかるみ、足元の根が絡み、歩を進めるたびに靴底が重く沈む。
度重なる魔獣の襲撃と歌声への警戒が続き、皆の顔には疲労の色が濃く浮かび始めていた。
やがて、森の色が徐々に変わっていく。
夕暮れが近づき、木々の影が長く伸びる。
空気は冷たくなり、風が運ぶ匂いが湿った土から石の匂いへと変わっていった。
「……空気が変わったわね」
リナが静かに呟く。
その先――。
木々の合間から、巨大な石造りの構造物が姿を現した。
それは森を圧するほどの存在感を放っていた。
苔むした巨石がいくつも積み重なり、ところどころに彫り込まれた古代文字がかすかに光を反射している。
崩れかけた柱がなおも垂直を保ち、壁面には長い年月が刻んだ裂け目が走っていた。
蔦が絡みつき、石の隙間からは冷たい空気が漏れ出している。
足元の地面は硬く、乾いた砂と砕けた石片が混ざっていた。
風が吹くたびに、その石の隙間から淡い響きが漏れる。
まるで、建造物そのものが息をしているかのようだった。
リナが息を呑み、言葉を落とす。
「これが……古代の遺跡……想像していたより、ずっと大きいわね」
レティアは慎重に歩を進め、手袋越しに石の表面をなぞる。
「ずっと昔、文明が栄えた証。石の一つ一つに、膨大な歴史が刻まれている……」
マーヤが目を輝かせて言う。
「こんな場所に、こんな巨大な遺構があるなんて……ただの伝説じゃなかったんだ」
風が吹き抜け、彼女の髪を揺らす。
夕陽が遺跡を照らし、苔の緑と石の灰が黄金色に染まった。
フィルは低く息を吐き、拳を握る。
「明日、あの中に踏み込むんだな」
エルドが剣の柄に手を置き、真っ直ぐに前を見据えた。
リナは振り返り、全員の顔を確かめる。
その瞳に宿るのは、緊張と決意、そしてわずかな期待だった。
「全員、今夜は警戒を強めて休むわ。夜の森は、さっきの歌がまた聞こえるかもしれない」
六人の間に、再び沈黙が落ちた。
だが、それは恐怖の沈黙ではない。
静かに燃える炎のような覚悟が、全員の胸に芽生えていた。
梢の隙間から洩れる夕光が、遺跡の壁面を黄金に染め上げる。
その光の下、六人は――ついに古代遺跡の外縁へと辿り着いた。
その時――。
「! リナ小隊が到着したぞーッ!」
遺跡の外縁で警戒に当たっていた先行班の一人が、
密林の奥を駆け抜けてくる六人の姿を見つけ、張り上げた声で仲間に知らせた。
その声は、重く沈んでいた空気を突き抜けるように響き渡り、
張り詰めていた緊迫感をほんの少しだけ緩めた。
森を抜けて現れたアリスたちは、
全身に泥と血の飛沫を浴び、衣の端は枝葉で裂けていた。
それでも、その歩みには確かな生の気配があった。
安全地帯として確保されている広い外縁――
苔むした石畳と崩れた柱の間に設けられた陣地では、
先行していた班員たちがいっせいに顔を上げる。
驚きと安堵が入り混じった息が、そこかしこで漏れた。
誰かが思わず拳を掲げ、別の者は胸をなでおろしながら駆け寄る。
「おい、無事だったのか!」
「戻ったぞ、リナ小隊だ!」
ざわめきが広がり、緊張の中にも生気が戻っていく。
互いの肩を軽く叩き合い、無事を確かめ合う笑み。
長い森の行軍を終えた彼らにとって、それは束の間の救いだった。
その輪の中を、先に到着していた班長・レオが勢いよく駆け抜けてくる。
濃い灰色の髪を後ろで束ね、額には汗がにじんでいた。
息を整える間もなく、彼は笑顔で声を張り上げる。
「リナ小隊! 大丈夫か! あと少し遅かったら、捜索隊を出すところだったぞ!」
声に混じるのは叱責ではなく、明確な安堵。
その眼差しは、仲間を失うことを恐れていた者のそれだった。
リナは深く頭を下げ、荒い息を整えながら詫びた。
頬には泥がつき、疲労の色が濃い。
「申し訳ありません、班長。想定以上に魔獣の襲撃が続きました。
それに……昨日の“歌声”の件もあり、何度も進行を止めて警戒を強化しました」
レオは短く息をつき、そして力強く頷いた。
その手でリナの肩を軽く叩く。
「大げさに言って悪かった。まあ、無事ならそれでいい。
ここまでたどり着けたこと自体が奇跡みたいなもんだ。
――この古代遺跡の外縁が今日の野営地だ。
予定通り、内部には入らない。方針は変わらないから安心しろ」
その言葉に、アリスたちは互いの顔を見合わせた。
そして小さく、安堵の息を吐く。
ほんの一瞬、全員の肩から緊張が抜けた。
湿った風が頬を撫で、湿った土と血の匂いの残る空気が、ようやく落ち着きを取り戻していく。
マーヤが肩をすくめ、少し冗談めかした口調で笑った。
「……それにしても、今日は遺跡の奥に踏み込まないで済んで助かったよ」
その声に、フィルが同意するように苦笑を浮かべる。
「助かったよ。これ以上、あの“歌声”と魔獣の相手はごめんだ……」
マーヤの笑いに乗じて、エルドも疲れたように息を吐く。
「まったくだ。もう少し遅れてたら、森の中で夜明かししてたかもしれないな」
わずかに笑いが広がり、張り詰めた空気が和らぐ。
その様子を見たレオは、腕を組んで少しだけ口角を上げた。
彼の目には、ようやく任務の手応えと仲間への信頼が戻っていた。
やがて、レオは一歩前に出て声を張り上げる。
「全員、今日はここで休息を取れ! 内部への立ち入りは禁止だ!
明日、ミラージュの魔導騎士団と合流後、予定通り遺跡内部を調査する!」
「了解!」
一斉に返された声が、外縁の石壁に反響する。
その音がやがて静まり、風と焚き火の音だけが残った。
――こうして、波乱と疲労に満ちた二日目は、
遺跡外縁という自然の結界に守られた安全地帯で、静かに幕を閉じた。
焚き火の柔らかな灯りが、古代遺跡の石壁にオレンジの影を揺らめかせる。
炎の明滅に合わせて、石の文様がまるで呼吸するように浮かび上がる。
その光がアリスたちの鎧や髪を照らし、静かな輝きを宿していた。
森の奥からは、まだ風のようなざわめきが絶えず聞こえていた。
木々のざわめきが、まるでこの地に潜む何かの存在を告げているかのように。
だが今はただ――。
長い行軍と戦いの疲労に包まれた六人の時間を、
その闇と炎の境界が、優しく守っていた。
焚き火の音が、ひとつ、ふたつと弾ける。
夜の帳が静かに降り、森のざわめきが遠くへと消えていく。
空には雲の切れ間から、幾つもの星が姿を見せていた。
それはまるで、明日へ向かう者たちを見守るかのように――
遺跡の上空で、静かに瞬いていた。




