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第八部 第二章 第16話

 ティアナの指先が、ゆるやかに宙を切った。

 その動きはあまりにも静かで、あまりにも自然だった。


 ――だが。


 会場の空気は、その瞬間に凍りついた。

 まるで大講堂全体に、透明な結界が張り巡らされたかのように。


 誰を指名するのか。

 誰が、この場で「選ばれる」のか。


 無数の視線がその白い指先を追い、息という息が喉元に貼りつく。

 ざわめきは完全に消え、衣擦れの音すら聞こえなくなった。


 指先は最初、会場の中央を流れるように巡る。

 舞踏会場の光と影をなぞるように、ゆるやかに、しかし確実に。


 そして――。


 ぴたり、と止まった。


 まるで、最初からそこに定められていたかのように。

 運命の糸が引き寄せられ、逃げ場を失ったかのように。


 ティアナの碧眼が、まっすぐに射抜いた先。


 それは、群衆の一角に佇む――アリス・グレイスラーだった。


 「……!」


 レティアは反射的に唇を押さえ、目を見開く。

 驚きと、理解と、そして否定しきれない予感が、同時に胸を打ち抜いた。


 フィオナは。

 驚くどころか、むしろ小さく肩を揺らし、

 「やはりですわね」とでも言うように、静かな微笑を浮かべる。


 そしてアリスは――。


 ほんの一瞬、完全に固まった。

 シャンパンの入ったグラスを持つ手が止まり、指に力がこもる。

 喉に泡が引っかかり、思わず息を詰めかけた。


 次の瞬間。


 ティアナの澄んだ声が、大講堂にまっすぐ響き渡る。


「――アリス・グレイスラー嬢」


 静寂が、爆ぜた。


 どよめきが一斉に奔り、

 小さな悲鳴と、驚愕の吐息が、あちこちから零れ落ちる。


 学院生たちは言葉を失い、

 貴族たちは互いに目を見交わし、

 来賓たちは一様に目を見張った。


 それは、あまりにも意外で。

 それでいて、誰もが心のどこかで「否定できない」と感じてしまう――

 圧倒的な“選択”だった。


 ティアナは、挑むような笑みを口元に宿したまま、

 伸ばした手を下ろそうとしない。


 まるで告げているかのようだった。

 ――あなた以外は、眼中にありません、と。


 アリスは深く息を吸う。

 胸の奥で暴れる心臓の鼓動を、必死に押さえ込みながら。


 そして――

 何事もなかったかのように、ほんの自然な仕草で。


 アリスは持っていたシャンパングラスを、そっとレティアへ差し出した。


 レティアは一瞬だけ目を瞬かせ、

 すぐに察したように無言で受け取り、静かに頷く。


 グラスの中で、細かな泡が小さく弾けた。


 そのやり取りはあまりにもささやかで、

 周囲の誰にも気づかれることはなかった。


 だが――

 それは確かに、アリスが覚悟を決めた合図だった。


 アリスはあらためて呼吸を整え、

 ゆるやかに一歩を踏み出す。


 その一歩ごとに、会場全体が息を呑む。

 視線は完全に彼女へと釘付けになり、

 まるで時間そのものが、アリスの歩みに合わせて進んでいるかのようだった。


 静寂に包まれる大講堂。


 ティアナは一歩前へと進み出て、

 凛とした声を、あらためて響かせる。


「――踊っていただけますか?」


 唐突な指名。

 だが、それは同時に――初めから決められていた指名でもあった。


 アリスには、即座に断るという選択肢はない。

 この場で、王代家第一公女に指名されるという意味を、

 彼女は誰よりも理解していた。


「光栄です」


 わずかに声は震えた。

 だが、アリスは背筋を伸ばし、その言葉を確かに紡ぐ。


 そして、ゆっくりと前へ歩み出た。


 その姿に、会場が再びどよめく。


 「ティアナ殿下が……学院生を?」


 「いや、待て……あれは――グレイスラー嬢だ!」


 驚愕と混乱の囁きが、波紋のように広がっていく。


 すべての視線は、アリスとティアナの二人に注がれ、

 広間の空気は、さらに張り詰めていった。


 ティアナは挑むような微笑を浮かべたまま、

 伸ばした手を、ただ静かに待ち続けている。


 アリスはその前に立ち、

 一瞬だけ呼吸を整えると――。


 その手へと、ゆるやかに、自らの手を差し出した。


 赤い絨毯の中央で、二人は互いに正対する。

 高天井から降り注ぐシャンデリアの光は、無数の水晶を透かして砕け、宝玉のような輝きとなって二人を包み込んだ。

 その光が床へと落ちるたび、影は長く伸び、ゆっくりと重なり合い、やがて一つの輪郭を描く。


 静謐。

 だが、ただの静けさではない。


 その場に集う誰もが、無意識に背筋を正し、次の一瞬を待っていた。


 まず、ティアナが優雅に腰を落とす。

 滑らかな動きで深く一礼し、その背は寸分の揺らぎもなく真っ直ぐに伸びていた。

 王宮の晩餐会、その最奥に立つ者だけが持つ格式と威厳。

 それを一切誇示することなく、当然の所作として体現している姿だった。


 アリスも遅れず応じる。

 動きは直線的で無駄がなく、剣士の礼そのもの。

 だが粗野さは一切なく、節度と敬意を込めた深い礼が、静かに返された。


 その二つの礼が重なった瞬間。

 会場全体の空気が、目に見えぬ波紋となって震えた。


 楽団が、新たな旋律を奏で始める。

 低く、重く、しかし流れるような調べ。


 最初の一歩を踏み出したのは、アリスだった。

 鍛え抜かれた体幹を崩すことなく、正確な間合いでティアナの手を取る。

 その導きは舞踏の型でありながら、どこか剣を振るう所作に近い。

 踏み込み一つに、戦場を生き抜いてきた者特有の緊張感が宿っていた。


 観客の心臓が、示し合わせたかのように強く脈打つ。


 ティアナは、その鋭さを拒むことなく、むしろ楽しむように微笑んだ。

 ドレスの裾が大きく翻り、燭光をまとって優美な円を描く。

 だがその旋回は、ただの淑女の優雅さでは終わらない。

 一歩進めば女王の風格。

 片腕を広げれば、王国を背負う者だけが放つ覇気が立ち昇る。


 その堂々たる存在感が、アリスの鋭い導きと真正面から拮抗し、舞台上では“武”と“気品”が激しくせめぎ合っていた。


「……舞なのに、戦いに見える」


 最前列に座る来賓の一人が、思わず漏らす。


 剣気を纏ったかのようなアリスの足運び。

 女王然としたティアナの応え。

 その二つが交わる光景は、華やかな舞踏会でありながら、同時に戦場の幻影を呼び起こしていた。


 やがて、楽曲の調べが転じる。

 軽快でありながら、確かな重厚さを孕んだ旋律。

 それは舞踏会場全体の空気を一変させる力を持っていた。


 アリスとティアナの視線が、静かに交差する。


 次の瞬間。

 ティアナが一歩を踏み込み、強い意志を宿した眼差しでアリスの手を取り直した。


「――今度は、わたくしが導きます」


 低く澄んだ声が、アリスの耳元に落ちる。


 驚きに目を見開くアリス。

 だが、退くという選択肢は最初から存在しなかった。


 次の瞬間には、その体はティアナのリードに委ねられている。

 強く、しかし乱暴ではなく。

 引き寄せる動きには、確かな覚悟と優雅さが同居していた。


 踏み込みは鋭い斬撃。

 旋回は刃をかわす身のこなし。


 ティアナの一挙手一投足は、女王としての気品と、武人の鋭さを併せ持つ。

 アリスもまた、しなやかな体捌きで応じ、互いの呼吸は寸分の狂いもない。


 それは舞という名を借りた、剣戟の応酬だった。


「……あれは、舞ではなく戦いだ……!」

「だが、なんと美しい……!」


 貴族席から漏れる声は、感嘆と畏怖が入り混じる。

 学生たちは言葉を失い、息をすることすら忘れていた。


 すれ違いざま、衣の裾が風を孕む。

 その一瞬、刃と刃が交差したかのような錯覚が生まれ、観客の胸が一斉に跳ね上がる。


 場内は、熱に包まれていった。


 やがて、楽曲は最終節へと突入する。


 ティアナがアリスを強く引き寄せ、二人は鋭く旋回し――

 背中合わせに、ぴたりと静止した。


 背筋を伸ばし、剣士のごとき構えを取ったその姿。

 それは、まるで二人の騎士が戦場に並び立つ幻影そのものだった。


 一瞬の静寂が、大講堂を完全に支配する。


 そして次の拍。


 爆ぜるような喝采が、空間を引き裂いた。


「ブラボー!」

「なんという舞だ!」


 拍手と歓声は大講堂の壁を震わせ、シャンデリアの水晶が細やかに揺れる。

 学生も貴族も来賓も、誰一人として例外なく、その圧倒的な舞の余韻に酔いしれていた。


 二人が決めの姿勢を取った瞬間――爆ぜるような拍手と歓声が、大講堂を一気に包み込んだ。

 割れんばかりの喝采が天井を揺らし、シャンデリアの水晶が細やかに震え、砕けた光を雨のように降り注がせる。

 楽団が奏でていた最後の余韻さえ呑み込むほどの熱狂。

 それは称賛であり、畏敬であり、そして誰もが目撃した「決定的な一舞」への本能的な反応だった。


 アリスは、わずかに肩を上下させながら胸に残る熱を整えるように、小さく息を吐く。


「……はぁ……」


 舞踏であるはずなのに、全力で剣を振るった直後のような昂ぶりが四肢に残っていた。

 肺の奥は火照り、心臓はまだ戦場の鼓動を刻んでいる。

 それでも――その頬には、戦いを終えた者だけが浮かべる、清々しい充実の笑みが宿っていた。


 客席の一角。

 その姿を見守っていたレティアが、胸に手を当て、吐息に近い声で呟く。


「……本当に、あなたは驚かせてばかりね」


 碧眼は誇らしさに揺れ、同時に、親友を心から称える温かさを帯びていた。


 一方、少し離れた位置。

 フィオナは手袋越しの指先で、ゆったりと控えめに拍手を重ねている。

 その所作は静かで、しかし確かな敬意を伴っていた。


「ふふ……さすがですわ。舞を戦場に変えてしまうなんて、あの二人にしかできませんもの」


 第三王女の気品ある声音は波紋のように周囲へと伝わり、隣席の貴族たちまでもが深く頷く。

 感嘆は連鎖し、場内の評価は疑いようのない確信へと変わっていった。


 喝采と歓声の渦の中――アリスは静かに視線を上げ、舞台中央に立つティアナと目を合わせる。

 ほんの一瞬。

 だが、その短い視線の交錯の中に、言葉を超えた共鳴が生まれた。


 剣を並べた戦友のように。

 互いの力を認め合い、背を預けられる者同士だけが結べる、静かな誓約。


 会場にいた誰もが、それを目で見たわけではない。

 だが確かに――その場に流れた空気が、二人の間に何かが結ばれたことを物語っていた。


 やがて、喝采の嵐がゆるやかに収まり、楽団の演奏は穏やかな調べへと切り替わる。

 高鳴っていた鼓動が鎮まっていくように、会場の空気も次第に和らいでいった。


 煌めくシャンデリアの光の下。

 アリスは深く息を吐き、舞台中央からゆっくりと歩みを引く。


 周囲の貴族や学生たちは自然と身を引き、彼女の前に道が拓けていく。

 それは意図されたものではなく、無意識の敬意が生んだ動きだった。


 背筋は凛として揺るがず、歩むたびにドレスの裾が静かに揺れ、紅の絨毯に柔らかな影を落とす。

 視線はなおも彼女を追い続け、ざわめきは次第に感嘆の吐息へと変わっていった。


「アリス!」


 最初に駆け寄ったのはレティアだった。

 碧眼をいっそう輝かせ、その瞳に誇らしさと安堵を宿しながら、親友の腕をそっと取る。


「本当に……見事だったわ。あの場で、あれだけ堂々と立ち続けられるのは、あなただけよ」


 その声音には、労わりと敬意が等しく込められている。


 アリスは少し照れくさそうに頬を掻き、柔らかな笑みを浮かべた。


「ありがとう、レティア。……でも途中で、本気で戦ってるみたいになっちゃって、正直ちょっと焦ったよ」


 冗談めかした口ぶりに、レティアは小さく笑みをこぼし、ゆっくりとかぶりを振る。


「いいえ。あれこそ、あなたらしい舞だったと思うわ」


 その一言は、誰よりもアリスを知る者だからこその確信に満ちていた。


 そこへ、フィオナが一歩、静かに前へと進み出る。

 長い睫毛を伏せ、気品に満ちた微笑を浮かべながら、両手を軽く合わせた。


「ええ。私も同感ですわ。――戦いであろうと舞であろうと、真摯に向き合えば、それは芸術となる。今夜のあなたの姿は、まさにそれでした」


 第三王女の澄んだ声音は凛と響き、周囲で耳を傾けていた者たちの表情を、さらに引き締める。

 感嘆はもはや言葉を必要としなかった。


 アリスは胸の奥が熱くなるのを感じながら、そっと息を整える。

 ほんのりと赤みを帯びた頬に微笑を浮かべ、静かに口を開いた。


「……ありがとう。二人がいてくれるから、私も前に進めるんだと思う」


 その小さな言葉は、豪奢な舞踏会の喧騒の中で、ひどく温かく響いた。


 煌めく灯火の下で寄り添う三人の姿は、まるで一枚の絵画のように美しく。

 それを見守った誰にとっても、決して忘れ得ぬ一幕として、深く胸に刻まれたのである。

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