表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
272/302

第八部 第二章 第13話

 ――一方。

 中庭の別区画では、リゼットたち探索者育成部による「最終公開演習」が実施されていた。


 昨日までよりさらに拡張された幻影の迷宮は、柔らかな陽光を遮るように淡く輝く壁が幾重にも重なり、立体的な層を成して広がっている。


 通路の奥では影と光が複雑に絡み合い、見る角度によって形を変える幻影が挑戦者の視界を惑わせていた。


 細い枝道が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、一歩踏み出すごとに空気が変わるのを肌で感じさせる。


 足を踏み入れた子供や来賓たちは、思わず息を呑み、慎重に周囲を見回した。

 壁に映る淡い光が揺らめくたび、進むべき道が変わるように錯覚し、誰もが一瞬立ち止まる。


「こちらの道は行き止まりです。……でも、よく観察すれば“罠”に気づけるはずですよ。焦らず、周囲を見てみましょう」


 イリーナが落ち着いた理知的な声で告げる。

 指先がそっと壁に触れると、幻影が水面のように揺れ、小さな光の筋が浮かび上がった。


 それは罠の痕跡――不自然な魔力の流れを示す印だった。


「あっ……!」

「ほんとだ、ここ……光の向きが違う!」


 挑戦者の子供たちが声を上げ、目を輝かせながらイリーナの言葉に耳を傾ける。


「正解は……こっちです。勇気を出して、一歩進んでみましょう」


 促されるまま、意を決して道を選び直すと、幻影の壁がすっと晴れ、奥へ続く通路が姿を現した。


 その瞬間、小さな歓声が上がる。


「できた!」「通れた!」


 リゼットが一歩前に出て、柔らかな笑みで頷いた。


「気づく力は、剣や魔術に劣らない大切なものです。恐れずに観察し、考え、選ぶ――皆さん、とてもよくできましたね」


 その穏やかな言葉に、子供たちは誇らしげに胸を張る。

 観客席にいた来賓たちも、思わず微笑みを交わした。


 安全管理を任されているヴィクトールは、一歩下がった位置から迷宮全体を冷静に見渡していた。

 迷った来賓が足を止めると、彼は自然な仕草で手を差し伸べ、正しい方向を示す。


 無駄のない動作と揺るがぬ落ち着きは、見る者に確かな安心感を与えていた。


 迷宮を抜けた挑戦者一人ひとりには、小さな魔道具のお守りが手渡される。

 水晶片や光石を加工したそれは掌にすっぽり収まり、淡く温かな光を放つ。


 子供たちは宝物のように抱きしめ、誇らしげに掲げて走り去っていく。

 その姿に親や来賓の表情が自然と緩み、中庭には和やかな空気が広がっていった。


「なるほど……探索者育成部とは、ただ戦うための場ではないのだな」


 来賓の一人が感心したように呟く。


「危険を見極め、仲間を導く力……それを育てる場所か」


 周囲の観客も静かに頷き、その言葉の重みを噛み締めていた。


 ――そのときだった。


 中庭の向こう、親善試合のステージから、地を揺るがすような大歓声が轟いた。


「おおおおお――っ!」


 爆発するような声援に、迷宮の挑戦者たちも思わず足を止め、驚いたように顔を上げる。


「……きっと、ラースの試合だわ」


 リゼットが小さく囁く。

 イリーナも遠くの方向を見やり、目を細めて頷いた。


「観客の反応からして……ただの一戦ではなかったみたいね」


 遠くから押し寄せる熱狂の波。

 それが過ぎ去ると、再びこの場所には、知的で静かな感嘆の空気が戻ってくる。


 剣技に沸く激しい興奮と、迷宮で育まれる静かな達成感――。

 その両極が同時に存在することこそが、舞踏祭三日目の午後を特別なものにしていた。


 そしてそれは、

 学院という場が持つ多面性と奥深さを、雄弁に物語っていた。


 ――休憩時間。

 親善試合の熱狂がひとまず幕を下ろし、観客席から観戦していた学院生たちは、ざわめきと興奮を抱えたまま中庭へと散っていった。


 誰もが先ほどの光景を語らずにはいられず、歩きながら身振り手振りで再現する者、友人の肩を掴んで声を荒げる者の姿があちこちに見える。


 空気にはまだ熱が残り、歓声の余韻が微かに耳の奥で反響していた。


 その頃、探索者育成部の控え場所では、レティア班の三人が腰を下ろし、ようやく一息ついていた。

 演習の緊張が解けきらないまま、静かな時間が流れかけた――その矢先。


 勢いよく扉が開き、同じ学院生が息を切らして駆け込んできた。


「おい! さっきの試合、見たか!? 親善試合の最後だ! アリスとラースだぞ!」


 弾む声に、三人が一斉に顔を上げる。


「……えっ、本当にやったの?」


 イリーナが思わず立ち上がり、驚きに声を震わせる。

 半信半疑のまま、相手の顔を食い入るように見つめた。


「見たんだよ! 俺、前の方の席にいたから間違いない! アリスが、なんだかわからない構えを取って……次の瞬間、ラースの喉元に剣が――!」


 身振り手振りを交えた説明は、興奮のあまり順序も曖昧だが、その迫力だけは痛いほど伝わってくる。


 その言葉に、リゼットは目を丸くし、胸に手を当てて息を呑んだ。


「そ、そんなに速かったの……? だって、ラースはあのラースだよ……?」


 震える声で問い返す。


「速いなんてもんじゃない! 抜刀から決着まで、二秒もなかったんだ! いや、体感だと一瞬だった! 観客、全員が固まって……誰も声を出せなかった!」


 仲間の声はさらに熱を帯び、控え場所にいた他の学生たちまでが自然と集まり、耳を傾け始める。


 ヴィクトールは腕を組み、表情を崩さぬよう努めながらも、唇をきゅっと引き結んだ。


「……未知の構えに、形を変える剣。聞けば聞くほど、現実離れしているな。まるで伝説の逸話だ」


 その低い声にも、抑えきれない驚きと戸惑いが滲んでいた。


 イリーナはゆっくりと椅子に座り直し、紅潮した頬のまま大きく息を吐く。


「すごい……。速さだけじゃなくて、判断も完璧だったってことでしょう……? 同じ学院にいるとは思えない……」


 言葉の端々に、憧れと衝撃が混じる。


「……でも」


 リゼットが小さく続け、皆の視線を集める。


「ラースだって、全力で挑んだんだよね。その結果なんだよね……。だったら、二人とも……やっぱり特別なんだ」


 その一言に、三人はしばらく言葉を失った。

 互いの顔を見て、同じ熱と衝撃が胸の内にあることを確かめ合う。


 控え場所の外からは、今もなお、残響のように歓声が聞こえてくる。

 それはまるで、先ほど舞台で交わされた一瞬の剣戟が、まだ学院全体を震わせ続けているかのようだった。


 ――アリスとラース。

 その名が放った衝撃は、休憩時間を挟んでもなお、消える気配を見せていなかった。


 ――その情報は、休憩時間という緩衝を挟みながらも、瞬く間に学院中へと広がっていった。


 中庭の通路。

 売店の前。

 控え室の影。

 観覧席の名残に腰を下ろしたままの学生たち。


 誰かが語り、誰かが驚き、誰かが言葉を足す。


「聞いたか? ラースが……一瞬で負けたって」

「嘘だろ……あのラースだぞ?」

「本当らしい。前列にいた連中が騒いでた」

「剣が……途中で形を変えたって話だ」

「形を?」

「細剣が、反った片刃の剣になったって……湾曲してたって言ってた」

「そんなの、見たことあるか……?」


 断片的な証言。

 驚きと興奮に歪んだ記憶。

 それでも、核心だけは共通していた。


 アリス・グレイスラーが、ラース・エルヴァンを一合で制した。


 その事実だけが、熱を帯びたまま学院の空気に溶け込んでいく。


 教室の窓際では、授業を待つ下級生たちが身を乗り出し。

 演習場の片隅では、剣士志望の学生たちが無言で刃を握り直す。

 魔術棟では、研究肌の生徒が「剣の変化理論」を巡って議論を始めていた。


 舞踏祭という非日常の中で、

 それは紛れもなく“事件”だった。


 ――そして。


 その中心にいたはずの本人は、まだその渦の大きさを知らぬまま、

 少し離れた回廊で、一人静かに歩いていた。


 舞台を降り、仲間や来賓の応対を一通り終え、ようやく与えられた短い空白。

 アリスは肩の力を抜き、そっと息を吐く。


 その時。


「……アリス!」


 聞き慣れた声が、少し早足の音と共に近づいてくる。


 振り向いた先には、リゼットとイリーナ、そしてヴィクトールの姿があった。

 三人とも、まだ完全には飲み込めていないという表情をしている。


「リゼット、イリーナ、ヴィクトール……」


 名を呼ぶと同時に、リゼットが一歩踏み出した。


「アリス……」


 一瞬、言葉を探すように視線を彷徨わせてから、正直に告げる。


「私たち、実は直接は見てないの。でも……さっきから、いろんな人に話を聞いて」


 イリーナも小さく頷き、慎重に言葉を選ぶ。


「前の席にいた学生や、警備補助に入っていた先輩からね。皆、口を揃えて言ってた」


 ヴィクトールが低く続ける。


「抜刀の瞬間、剣の形が変わったと。細剣が、反りを持った片刃の剣になったらしい」


 アリスは一瞬だけ目を瞬かせたが、否定も肯定もしなかった。


 リゼットは続ける。


「湾曲していて、刃筋が光を引くようだったって。……正直、話を聞いているだけで現実感がなくて」


 イリーナは息を吸い、少し興奮を抑えた声で言う。


「それで次の瞬間には、もうラースの喉元に刃があったって……二秒もなかったって」


 ヴィクトールは腕を組み、静かに結論を口にする。


「噂に尾ひれは付いているだろう。だが、複数の証言が一致している以上……事実なのは間違いない」


 その言葉に、アリスは小さく苦笑した。


「……そんなに大層な話になってるんだ」


 だがリゼットは首を横に振る。


「大層、なんかじゃない。私たちは見ていない。でも……聞いただけで分かる」


 碧眼が真っ直ぐにアリスを捉える。


「それは偶然じゃない。積み重ねたものが、一瞬に凝縮された結果だって」


 イリーナも静かに続ける。


「正直、少し怖かった。でも、それ以上に誇らしい。アリスが、私たちの仲間だってことが」


 ヴィクトールは短く頷く。


「学院中がどう騒ごうと、俺たちは知っている。あれは見せ場を狙ったものじゃない」


 その言葉に、アリスは一瞬だけ視線を落とし、そして小さく微笑んだ。


「……ありがとう」


 短い一言。

 だが、その声には確かな温度があった。


 その瞬間、遠くからまた別のざわめきが届く。

 誰かが名前を呼び、誰かが走り、次の噂が生まれる音。


 アリスはそれを背に感じながら、目の前の三人を見る。


「でも……今は、少しだけ静かにしていたいな。舞踏祭の最後くらいは」


 リゼットは、その言葉にふっと笑った。


「そうだね。英雄役は……後でいい」


 四人は並んで歩き出す。

 喧騒の中心から、ほんの少しだけ距離を置くように。


 だが――。


 彼女が歩く先々で、人々の視線は自然と集まり、囁きは止まらず、“今日の出来事”は、すでに学院の歴史になり始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ