第八部 第二章 第13話
――一方。
中庭の別区画では、リゼットたち探索者育成部による「最終公開演習」が実施されていた。
昨日までよりさらに拡張された幻影の迷宮は、柔らかな陽光を遮るように淡く輝く壁が幾重にも重なり、立体的な層を成して広がっている。
通路の奥では影と光が複雑に絡み合い、見る角度によって形を変える幻影が挑戦者の視界を惑わせていた。
細い枝道が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、一歩踏み出すごとに空気が変わるのを肌で感じさせる。
足を踏み入れた子供や来賓たちは、思わず息を呑み、慎重に周囲を見回した。
壁に映る淡い光が揺らめくたび、進むべき道が変わるように錯覚し、誰もが一瞬立ち止まる。
「こちらの道は行き止まりです。……でも、よく観察すれば“罠”に気づけるはずですよ。焦らず、周囲を見てみましょう」
イリーナが落ち着いた理知的な声で告げる。
指先がそっと壁に触れると、幻影が水面のように揺れ、小さな光の筋が浮かび上がった。
それは罠の痕跡――不自然な魔力の流れを示す印だった。
「あっ……!」
「ほんとだ、ここ……光の向きが違う!」
挑戦者の子供たちが声を上げ、目を輝かせながらイリーナの言葉に耳を傾ける。
「正解は……こっちです。勇気を出して、一歩進んでみましょう」
促されるまま、意を決して道を選び直すと、幻影の壁がすっと晴れ、奥へ続く通路が姿を現した。
その瞬間、小さな歓声が上がる。
「できた!」「通れた!」
リゼットが一歩前に出て、柔らかな笑みで頷いた。
「気づく力は、剣や魔術に劣らない大切なものです。恐れずに観察し、考え、選ぶ――皆さん、とてもよくできましたね」
その穏やかな言葉に、子供たちは誇らしげに胸を張る。
観客席にいた来賓たちも、思わず微笑みを交わした。
安全管理を任されているヴィクトールは、一歩下がった位置から迷宮全体を冷静に見渡していた。
迷った来賓が足を止めると、彼は自然な仕草で手を差し伸べ、正しい方向を示す。
無駄のない動作と揺るがぬ落ち着きは、見る者に確かな安心感を与えていた。
迷宮を抜けた挑戦者一人ひとりには、小さな魔道具のお守りが手渡される。
水晶片や光石を加工したそれは掌にすっぽり収まり、淡く温かな光を放つ。
子供たちは宝物のように抱きしめ、誇らしげに掲げて走り去っていく。
その姿に親や来賓の表情が自然と緩み、中庭には和やかな空気が広がっていった。
「なるほど……探索者育成部とは、ただ戦うための場ではないのだな」
来賓の一人が感心したように呟く。
「危険を見極め、仲間を導く力……それを育てる場所か」
周囲の観客も静かに頷き、その言葉の重みを噛み締めていた。
――そのときだった。
中庭の向こう、親善試合のステージから、地を揺るがすような大歓声が轟いた。
「おおおおお――っ!」
爆発するような声援に、迷宮の挑戦者たちも思わず足を止め、驚いたように顔を上げる。
「……きっと、ラースの試合だわ」
リゼットが小さく囁く。
イリーナも遠くの方向を見やり、目を細めて頷いた。
「観客の反応からして……ただの一戦ではなかったみたいね」
遠くから押し寄せる熱狂の波。
それが過ぎ去ると、再びこの場所には、知的で静かな感嘆の空気が戻ってくる。
剣技に沸く激しい興奮と、迷宮で育まれる静かな達成感――。
その両極が同時に存在することこそが、舞踏祭三日目の午後を特別なものにしていた。
そしてそれは、
学院という場が持つ多面性と奥深さを、雄弁に物語っていた。
――休憩時間。
親善試合の熱狂がひとまず幕を下ろし、観客席から観戦していた学院生たちは、ざわめきと興奮を抱えたまま中庭へと散っていった。
誰もが先ほどの光景を語らずにはいられず、歩きながら身振り手振りで再現する者、友人の肩を掴んで声を荒げる者の姿があちこちに見える。
空気にはまだ熱が残り、歓声の余韻が微かに耳の奥で反響していた。
その頃、探索者育成部の控え場所では、レティア班の三人が腰を下ろし、ようやく一息ついていた。
演習の緊張が解けきらないまま、静かな時間が流れかけた――その矢先。
勢いよく扉が開き、同じ学院生が息を切らして駆け込んできた。
「おい! さっきの試合、見たか!? 親善試合の最後だ! アリスとラースだぞ!」
弾む声に、三人が一斉に顔を上げる。
「……えっ、本当にやったの?」
イリーナが思わず立ち上がり、驚きに声を震わせる。
半信半疑のまま、相手の顔を食い入るように見つめた。
「見たんだよ! 俺、前の方の席にいたから間違いない! アリスが、なんだかわからない構えを取って……次の瞬間、ラースの喉元に剣が――!」
身振り手振りを交えた説明は、興奮のあまり順序も曖昧だが、その迫力だけは痛いほど伝わってくる。
その言葉に、リゼットは目を丸くし、胸に手を当てて息を呑んだ。
「そ、そんなに速かったの……? だって、ラースはあのラースだよ……?」
震える声で問い返す。
「速いなんてもんじゃない! 抜刀から決着まで、二秒もなかったんだ! いや、体感だと一瞬だった! 観客、全員が固まって……誰も声を出せなかった!」
仲間の声はさらに熱を帯び、控え場所にいた他の学生たちまでが自然と集まり、耳を傾け始める。
ヴィクトールは腕を組み、表情を崩さぬよう努めながらも、唇をきゅっと引き結んだ。
「……未知の構えに、形を変える剣。聞けば聞くほど、現実離れしているな。まるで伝説の逸話だ」
その低い声にも、抑えきれない驚きと戸惑いが滲んでいた。
イリーナはゆっくりと椅子に座り直し、紅潮した頬のまま大きく息を吐く。
「すごい……。速さだけじゃなくて、判断も完璧だったってことでしょう……? 同じ学院にいるとは思えない……」
言葉の端々に、憧れと衝撃が混じる。
「……でも」
リゼットが小さく続け、皆の視線を集める。
「ラースだって、全力で挑んだんだよね。その結果なんだよね……。だったら、二人とも……やっぱり特別なんだ」
その一言に、三人はしばらく言葉を失った。
互いの顔を見て、同じ熱と衝撃が胸の内にあることを確かめ合う。
控え場所の外からは、今もなお、残響のように歓声が聞こえてくる。
それはまるで、先ほど舞台で交わされた一瞬の剣戟が、まだ学院全体を震わせ続けているかのようだった。
――アリスとラース。
その名が放った衝撃は、休憩時間を挟んでもなお、消える気配を見せていなかった。
――その情報は、休憩時間という緩衝を挟みながらも、瞬く間に学院中へと広がっていった。
中庭の通路。
売店の前。
控え室の影。
観覧席の名残に腰を下ろしたままの学生たち。
誰かが語り、誰かが驚き、誰かが言葉を足す。
「聞いたか? ラースが……一瞬で負けたって」
「嘘だろ……あのラースだぞ?」
「本当らしい。前列にいた連中が騒いでた」
「剣が……途中で形を変えたって話だ」
「形を?」
「細剣が、反った片刃の剣になったって……湾曲してたって言ってた」
「そんなの、見たことあるか……?」
断片的な証言。
驚きと興奮に歪んだ記憶。
それでも、核心だけは共通していた。
アリス・グレイスラーが、ラース・エルヴァンを一合で制した。
その事実だけが、熱を帯びたまま学院の空気に溶け込んでいく。
教室の窓際では、授業を待つ下級生たちが身を乗り出し。
演習場の片隅では、剣士志望の学生たちが無言で刃を握り直す。
魔術棟では、研究肌の生徒が「剣の変化理論」を巡って議論を始めていた。
舞踏祭という非日常の中で、
それは紛れもなく“事件”だった。
――そして。
その中心にいたはずの本人は、まだその渦の大きさを知らぬまま、
少し離れた回廊で、一人静かに歩いていた。
舞台を降り、仲間や来賓の応対を一通り終え、ようやく与えられた短い空白。
アリスは肩の力を抜き、そっと息を吐く。
その時。
「……アリス!」
聞き慣れた声が、少し早足の音と共に近づいてくる。
振り向いた先には、リゼットとイリーナ、そしてヴィクトールの姿があった。
三人とも、まだ完全には飲み込めていないという表情をしている。
「リゼット、イリーナ、ヴィクトール……」
名を呼ぶと同時に、リゼットが一歩踏み出した。
「アリス……」
一瞬、言葉を探すように視線を彷徨わせてから、正直に告げる。
「私たち、実は直接は見てないの。でも……さっきから、いろんな人に話を聞いて」
イリーナも小さく頷き、慎重に言葉を選ぶ。
「前の席にいた学生や、警備補助に入っていた先輩からね。皆、口を揃えて言ってた」
ヴィクトールが低く続ける。
「抜刀の瞬間、剣の形が変わったと。細剣が、反りを持った片刃の剣になったらしい」
アリスは一瞬だけ目を瞬かせたが、否定も肯定もしなかった。
リゼットは続ける。
「湾曲していて、刃筋が光を引くようだったって。……正直、話を聞いているだけで現実感がなくて」
イリーナは息を吸い、少し興奮を抑えた声で言う。
「それで次の瞬間には、もうラースの喉元に刃があったって……二秒もなかったって」
ヴィクトールは腕を組み、静かに結論を口にする。
「噂に尾ひれは付いているだろう。だが、複数の証言が一致している以上……事実なのは間違いない」
その言葉に、アリスは小さく苦笑した。
「……そんなに大層な話になってるんだ」
だがリゼットは首を横に振る。
「大層、なんかじゃない。私たちは見ていない。でも……聞いただけで分かる」
碧眼が真っ直ぐにアリスを捉える。
「それは偶然じゃない。積み重ねたものが、一瞬に凝縮された結果だって」
イリーナも静かに続ける。
「正直、少し怖かった。でも、それ以上に誇らしい。アリスが、私たちの仲間だってことが」
ヴィクトールは短く頷く。
「学院中がどう騒ごうと、俺たちは知っている。あれは見せ場を狙ったものじゃない」
その言葉に、アリスは一瞬だけ視線を落とし、そして小さく微笑んだ。
「……ありがとう」
短い一言。
だが、その声には確かな温度があった。
その瞬間、遠くからまた別のざわめきが届く。
誰かが名前を呼び、誰かが走り、次の噂が生まれる音。
アリスはそれを背に感じながら、目の前の三人を見る。
「でも……今は、少しだけ静かにしていたいな。舞踏祭の最後くらいは」
リゼットは、その言葉にふっと笑った。
「そうだね。英雄役は……後でいい」
四人は並んで歩き出す。
喧騒の中心から、ほんの少しだけ距離を置くように。
だが――。
彼女が歩く先々で、人々の視線は自然と集まり、囁きは止まらず、“今日の出来事”は、すでに学院の歴史になり始めていた。




