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第一部 第三章 第9話

 六人は血と汗にまみれたまま、息を潜めて獣道を離れた。

 湿った落ち葉が足音を吸い込み、緊迫した静寂が森の奥まで広がっていく。


 木々の緑は濃く絡み合い、陽の届かぬ密林の闇が、まるで彼らの行く手を試すかのように沈黙していた。

 肌にまとわりつく湿気は重く、呼吸をするたびに肺の奥へ湿った空気が流れ込む。


 剣を握る手のひらには血と泥がこびりつき、乾ききらぬそれが指の動きを鈍らせていた。

 それでも誰ひとり言葉を発さず、ただ互いの背を見失わないようにと、慎重に一歩ずつ進み続ける。


 ――やがて。


 視界がふっと開けた。

 木々の隙間から小さな岩壁が顔を覗かせ、その根元には浅い水場が広がっている。

 水面は薄く波立ち、木漏れ日を受けて淡く煌めいた。

 静かな風が草を揺らし、かすかに水音が森の底で響く。


 リナが静かに手を挙げ、全員の動きを止める。

「ここなら周囲がよく見渡せるし、背後は岩壁で守られている。……今の私たちには、ここが限界ね」


 その言葉に全員が頷き、倒木を利用して荷物を下ろした。

 湿った木の匂いと、まだ消えきらない血の鉄臭さが混じり合い、胸の奥に鈍く残る。

 息を吐くたび、重く沈んだ疲労が全身に滲み出してくるようだった。


 リナはひとりひとりの顔を見渡し、声をかける。

「……怪我はない?」


 マーヤは背を丸めて肩をすくめ、かすれた声で答えた。

「かすり傷くらい。……でも、もうこれ以上動き続けたら、足がもげそうだよ」


 その声には笑いよりも、痛みのにじむ疲弊があった。

 フィルは膝にライフルを置き、息を長く吐き出して小さく笑う。

「同感だ……おまけに、俺の魔導ライフルももう限界だ。コンデンサが焼けて冷却が追いつかない。撃ててもあと数発だな」


 リナは短く目を伏せ、やがてアリスへと視線を向けた。

「……アリスさん、お願いがあるの。さっき私の魔導ライフルは槍で壊されたままだし、予備を取りに戻る余裕もない。剣は不得意だし、魔法で戦うとしても、まだ先が長そうだから、できれば魔導ライフルで戦いたいと思うの。もしよろしければ……」


 アリスは軽く微笑み、背中のライフルを外して差し出した。

「もちろんです、リナさん。私なら剣でなんとかなりますし、魔力の余裕もあります。肉体強化魔法を織り交ぜれば、戦闘には耐えられます」


 少し間を置き、彼女は柔らかな口調で続けた。

「それに、魔法攻撃は詠唱が必要ですし、こうした密林のように視界が狭く敵の位置が変わりやすい場所では、不意を突かれるリスクが大きいですよね。取り回しや魔力量の消費を考えると、魔導ライフルの方が効率的です。ですから、私のライフルを使ってください」


 リナは一瞬、息を詰め、それから小さく微笑んだ。

「ごめんなさい。ありがとう……助かるわ」


 冷たい金属の感触が手のひらに伝わる。

 リナは銃身の横に指を滑らせ、魔力コンデンサの残量を確認した。

「……弾数はまだ大丈夫そうね。あとで必ず返すわ」


 アリスは軽く笑って首を振った。

「無事にたどり着けたら、ですけど。……みんなで一緒に頑張りましょう」


 その言葉に、場の空気が少しだけ和らぐ。

 だがすぐに、冷たい風が木々を揺らし、緊張が戻った。


 エルドは魔導剣の柄を撫で、苦笑した。

「俺も同じだ。もう魔導ライフルより、剣一本でやった方が早い。どうせ近距離でしか当たらないしな」


 そう言って背からライフルを外し、フィルへと手渡す。

「フィル、お前が使え。お前の魔導ライフル、もう限界だろ」


 フィルは驚いたように顔を上げ、すぐに真剣な眼差しで頷いた。

「……助かるよ、エルド。これで少しはマシに撃てそうだ」


 レティアは二人のやり取りを見て、小さく息をつく。

「火力は落ちるけど、近接二人と援護三人ならバランスは取れてるわ」


 リナは全員を見渡し、表情を引き締めた。

「……少しでも休んで体力を戻す。見張りは交代制で。最初は私とフィルが立つわ」


 フィルは肩をすくめ、エルドから受け取ったライフルを点検しながら笑った。

「了解……これで少しは撃てるさ」


 リナはアリスの方へ視線を向け、穏やかな声で言う。

「アリスさん、あなたは一番動いてくれた。今は何も考えずに少し眠って。起こすときは必ず私が起こすから」


「……はい、ありがとうございます」


 アリスは倒木に背を預け、膝の上に魔導剣を置いたまま、ゆっくりと目を閉じた。

 まぶたの裏で、光と影が静かに揺らめく。

 鼓動はまだ速いが、次第に呼吸が落ち着きを取り戻していく。


 木々の梢からこぼれる微かな陽光が、水面に反射して森の奥を照らした。

 きらめく光が揺れ、波紋が静かに広がる。

 湿った空気の中で、草の香りがわずかに漂った。

 静寂の中、六人の荒い呼吸だけが響いている。

 それは戦場を生き延びた者たちの証のように、確かで、かすかに温かい音だった。


 梢の隙間からこぼれる柔らかな陽光が、倒木にもたれかかるアリスの頬をそっと撫でていた。

 その光は、まるで彼女の疲れを癒すように、肌の上を静かに滑っていく。

 濡れた木々の匂いと土の湿り気が入り混じり、森の空気は甘く重い。


 疲労で重たく閉じられたまぶたの奥で、アリスの意識はゆっくりと遠のき、ふわりと過去の記憶へと漂い始めていた。


 そこはグエン邸の鍛練場。

 春の穏やかな風が木立を抜け、花の香りを乗せて流れていく。

 磨き上げられた石畳の上に、幼いアリスが立っていた。

 まだ小さな体でありながら、両手でしっかりと魔導剣を握りしめている。

 指先は震え、額には汗が滲んでいた。

 だがその瞳だけは真剣で、まっすぐ前を見据えていた。


 何度も、何度も素振りを繰り返す。

 剣の軌跡が陽光を切り裂き、淡い光の線を描く。

 打ち込むたびに風が鳴り、空気がわずかに震えた。


 そんな彼女の後ろで、優しく見守る老人の声が響く。

「そうだ、アリス。焦らず、呼吸を合わせなさい」


 低く穏やかな声。

 春の日差しのような温もりを帯びたその声は、幼い彼女にとって世界のすべてだった。


 声の主――グエン・グレイスラー。

 老いた手に杖を持ち、銀灰の髭をなびかせながらも、その眼光は今も鋭い。

 だがその瞳には、弟子であり孫である少女を見守る慈しみが宿っていた。


「……おじい様……」


 無意識にこぼれた小さな呟きは、今のアリスの唇からも漏れていた。

 眠りの中で夢を見る少女の声は、森の風に溶けて消えていく。


 その呟きに気づいたリナが、そっと視線を向ける。

 陽の光が木々の葉の間を揺らめきながら、アリスの頬に反射する。

 その光景を見つめ、リナは微かに微笑んだ。

「……夢を見ているのね」

 

 声は囁くように優しかった。


 少し離れた場所では、フィルがエルドから借りた魔導銃を分解し、冷却ユニットを丁寧に拭っていた。

 銃身の金属が光を反射し、淡く銀色の線を描く。

 彼は小さく息を吐き、寝息を立てるアリスの方へとちらりと視線を向けた。

「英雄の孫でも、眠っている顔はただの子供だな」


 微笑とともに漏れたその声は、少しの敬意と、どこか兄のような温かさを含んでいた。

 マーヤが首をかしげて尋ねる。

「英雄? ……誰のことです?」


 フィルは驚いたように目を丸くし、少し声をひそめる。

「え、マーヤ知らないのか? アリスの祖父さん、グエン・グレイスラーだぞ」


 マーヤの瞳がさらに大きく開かれた。

 驚きがそのまま呼吸を止め、しばらく言葉が出てこない。

「え……ちょっと待って、あのグエン卿!? 二十年前……ミラージュ国王を救った英雄で……ミラージュ王国でも名誉騎士伯として伝説扱いされている、あの人!?」


 フィルは思わず吹き出し、笑いをこらえながら肩を揺らした。

「知らなかったのか。街の子供でも名前くらいは知ってるぞ」


 マーヤは恥ずかしそうに頬を赤らめ、手元の魔導符を弄びながらうつむいた。

 ちらりとアリスを見つめ、その寝顔に思わず微笑がこぼれる。


 リナが短く補足するように口を開いた。

「ええ。元統合師団団長で、今は名誉騎士伯。他国では将軍級の指導もしていたと言われている人です」


 その声には、軍人としての尊敬と、師を想うような静かな敬意が滲んでいた。

 マーヤがまだ信じられないような表情でいると、エルドが小声で笑った。

「そういえばさ……前から気になってたんだけど、アリスって誰に剣を習ったんだ? まさか自己流じゃないだろ?」


 彼の言葉に、皆が一瞬だけ顔を見合わせた。

 

 レティアがそっと唇を開いた。

「……グエン叔父様の鍛練場で、アリスは幼い頃から剣を習ってたのよ」

 その声には、懐かしさと誇りが混じっていた。


 マーヤは息を呑み、アリスの寝顔をじっと見つめる。

「うそ……そりゃ強いわけですね……」


 フィルは苦笑しながら肩をすくめた。

「剣術だけじゃなくて、魔力の制御もすごいからな」


 マーヤが小声で続ける。

「でも、本人はそんなこと一度も威張らないですよね……いつも真面目で、誰にでも優しいし」


 リナは静かに頷いた。

「それがアリスさんの一番すごいところよ。自分の誇りを驕りにしない。そう育てられたんでしょうね」


 焚き火の光がリナの頬を照らし、瞳に柔らかな光が宿る。

 レティアが真剣な表情で言葉を継いだ。

「……アリスは誰よりも努力している。本当は誰よりも優しくて、誰よりも強い。あの子がいなかったら、私はここにいられなかった」


 マーヤは少し照れたように笑い、肩をすくめた。

「レティア、褒めすぎですよ……?」


 レティアはその言葉に首を横に振り、静かに応じる。

「いいえ、まだ足りません。彼女の剣は誰よりも美しく正確で、魔力の制御も私なんかよりずっと上。……あの実力、本当に信じられない」


 フィルが苦笑を浮かべ、小声でエルドに囁く。

「……あれは完全にファンだな」


 エルドも小さく肩を揺らして笑う。

「だな。ここにいる全員、もう半分ファンみたいなもんだろ」


 焚き火の炎が、皆の表情を照らし出す。

 レティアは微笑を浮かべたまま、静かにアリスを見つめ続けた。

「本当に……剣も精神も、グエン叔父様譲りね。アリスのあの冷静さと決断力、私は真似できないわ」


 エルドが笑いながらフィルの肩を叩く。

「こりゃ俺たちも、アリスに負けてられないな」


 笑い声が岩場の間に反響し、張り詰めた空気を少しずつほぐしていく。

 森の奥では鳥の声が遠く響き、穏やかな風が枝葉を揺らした。


 レティアはまだ真剣な眼差しのまま、アリスの寝顔を見つめていた。

「いつか必ず、あの子は王国を代表する……いいえ、南大陸を代表する英雄になる。……私にとっては、もうすでに英雄です」


 リナは肩を揺らして苦笑する。

「……褒めすぎもどうかと思うけど、まあ事実だから否定できないわね」


 マーヤが水筒を差し出した。

「リナさん。アリスさん、起きたら水分補給させた方がいいです」


「ありがとう、マーヤさん。……もう少しだけ、寝かせてあげましょう」


 アリスはわずかに寝息を立てたまま、静かに夢の中にいた。

 その表情は穏やかで、幼き日のあの鍛練場の光景を追うように、微かに微笑んでいる。


 遠く森の奥では、木が裂けるような小さな音が響いた。

 そのかすかな音が、仲間たちの心の奥に残る緊張を、静かに繋ぎ止めていた――。

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