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第八部 第二章 第8話

 一日目 夕刻 ― 来賓との懇談会


 日が傾き始め、学院の尖塔の影が長く伸びる頃。

 大講堂に隣接する別室には、再び柔らかな灯がともされた。


 重厚な扉の奥に広がるのは、式典とは趣を異にする社交の場。

 天井から吊るされた幾重ものシャンデリアが温かな金色の光を降らせ、磨き抜かれた床石にはその輝きが波のように映り込んでいた。


 香草と果実酒のほのかな香りが空気に溶け、

 杯が触れ合う澄んだ音と、抑えられた笑い声が幾重にも重なり合う。


 そこでは、各国から訪れた貴族や高官たちと、選抜された学院生たちが小さな輪を作り、言葉を交わしていた。


「おお……君が、アリス・グレイスラー嬢か。

 模擬戦に出なかったのは、正直惜しかったが……

 噂では、出れば模擬戦にならないとまで言われているそうだな?」


 穏やかな笑みと共に向けられる言葉。

 だがその視線は、品位を装いながらも鋭く、確かな値踏みを含んでいた。


 集まった来賓たちの関心は、やはり自然とアリスへと集中していく。


 不慣れな社交の場に、アリスはわずかに肩をすくめるようにして微笑みを返す。

 礼節を欠かさぬ態度は保っていたが、その肩にかかる視線の重さは、時間と共に確実に増していた。


 その時――。


「――ご寛恕を。

 確かに、アリスは頼もしい実力者にございます」


 澄み切った、しかしよく通る声が、場の空気を静かに切り分けた。


 声の主はレティア・エクスバルド。

 エクスバルド伯爵家の令嬢としての気品を自然に纏い、背筋を伸ばして一歩前に出る。


「ですが本日は、彼女ひとりを称える場ではございません。

 模擬戦においては、ラース・エルヴァンをはじめ、多くの学院生がそれぞれの技と研鑽の成果を示しました」


 視線を穏やかに巡らせながら、言葉を重ねる。


「また研究発表においても、学科の垣根を越えた成果が披露され、

 来賓の皆様に学院全体の力をお示しできたことと存じます」


 一言一言に淀みはなく、間の取り方すら計算されていた。


「舞踏祭の栄誉は、誰かひとりのものではなく、

 仲間全員が積み重ねてきた努力の結晶――そのように、私どもは心得ております」


 その言葉に、場の空気がわずかに変わる。


「……おお、さすがはエクスバルド伯爵家のご令嬢だ」


 来賓の一人が、感嘆を込めて頷いた。


「学院でのご活躍は、かねてより耳にしておりましたよ。

 この若さで、これほど整った見識とは」


「光栄に存じます」


 レティアは一礼し、柔らかく微笑む。


「ですが、私ひとりの力ではございません。

 常に学友たちの支えがあり、互いに高め合ってきた結果でございます」


 その堂々とした答えに、来賓たちは一様に頷き、

 自然と視線はアリス一人から、周囲の学院生たちへと散っていく。


 過度に集中していた関心はやわらぎ、

 話題は模擬戦の戦術や研究発表の応用可能性へと移っていった。


 アリスは、少し驚いたようにレティアを見上げる。

 だがすぐに、安堵と照れが混じった笑みを浮かべた。


「……ありがと、レティア。

 正直、ちょっと居心地悪くなってきてたから、助かっちゃった」


「親友をお護りするのは、当然のことですわ」


 レティアは小さく微笑み、声を落とす。


「どうか、胸を張っていてくださいませ。

 今日の舞台に立ったのは、あなただけではありませんのよ」


 その言葉を聞いた瞬間、アリスは目を細め、口元をにやりと歪めた。


「……はいはい、伯爵令嬢様のご高説、ありがたく頂戴いたしますわ」


 わざと貴族風に言い返すと、

 レティアの碧眼が一瞬だけ細まり、すぐに困ったような笑みへと変わる。


「もう……アリスったら」


 周囲には決して聞こえぬ、ごく小さなやり取り。

 だがその一瞬に、互いを気取らず茶化し合える――無二の親友としての確かな絆が、確かに宿っていた。


 少し離れた位置から、その様子を静かに眺めていたのは、学院生会長ユリウスと副会長リヒトであった。


「……見事なものだな」


 ユリウスが低く呟き、手にした杯をゆっくりと傾ける。


「ただの親友同士に見せかけて、互いに不足を補い合い、

 しかも周囲に与える印象は、最大限に整えている」


 リヒトも眼鏡の奥で目を細め、静かに頷いた。


「ああ。

 グレイスラー嬢は天性の華で人を惹きつける。

 一方で、エクスバルド嬢は理知と気品で、その華を過剰にしない」


 少し間を置き、続ける。


「……二人で並び立つからこそ、あの調和が生まれる」


「学院生会にとっても――いや、学院そのものにとっても、大きな財産となるだろうな」


 ユリウスの声音には、普段滅多に見せぬ温かな響きが宿っていた。


 華やかな懇談会のざわめきの中。

 学院生会の眼差しに映る二人の姿は、間違いなく「未来を担う者」として、その輝きを放っていた。




 一日目 夜 ― 舞踏会


 そして夜。

 大講堂には無数の燭台と煌びやかなシャンデリアの光が降り注ぎ、磨き抜かれた床と高い天井に幾重にも反射して、まるで星々そのものが空から降り注いだかのような輝きを放っていた。


 白石の柱に映る光は淡く揺らぎ、天井画に描かれた紋様が金色の縁取りを得て浮かび上がる。


 楽団の奏でる優雅な旋律がゆるやかに広がり、弦の滑らかな響きと管の澄んだ音色が溶け合いながら、広間全体を包み込んでいく。


 音はただ耳に届くだけではなく、床を伝い、空気を震わせ、胸の奥へと静かに染み渡っていた。


 ドレスや礼装に身を包んだ学院生たちが次々とペアを組み、円を描くように舞踏の輪へと溶け込んでいく。


 裾が翻るたびに光が弾け、絹やサテンの布地が幾層にも重なり合って、まるで色とりどりの花弁が咲き誇るかのようだった。 


 普段は鍛錬と規律に満ちた学び舎が、この夜だけは社交と青春の舞台へと姿を変え、若き日の高揚がそこかしこに満ちていた。


「アリス、せっかくだから踊らない?」


 柔らかな声とともに、レティアが手を差し伸べた。


 淡い色合いのドレスに身を包みながらも、立ち居振る舞いに気負いはなく、微笑みはいつものまま自然だった。


 それは貴族として外に向ける顔ではなく、幼い頃から共に過ごしてきた親友に向ける、飾り気のない表情だった。


「え、えっと……でも私、舞踏はあんまり得意じゃないし……」


 アリスは視線を泳がせ、わずかに肩をすくめる。


 戦場や演習では揺るぎない判断を下す彼女も、この華やかな場では少しだけ気恥ずかしそうだった。


「大丈夫。ほら……昔みたいにやればいいだけ」


 レティアは小さく笑い、差し出した指先にほんの少しだけ力を込める。


「それに――覚えてるでしょう。私のレッスン、いつも相手してくれたの」


 その一言で、アリスの記憶が自然と引き出される。


 幼い頃、貴族として舞踏を学ばされていたレティアの隣で、半ば強引に男性役を任されていた日々。


 剣の構えよりも先に、背筋の伸ばし方、歩幅の測り方、相手を導く手の位置や重心移動を身体に刻み込まれた時間。


 何度も踏み直し、何度も注意され、それでも逃げ場がなく付き合わされた、少し苦くも懐かしい記憶。


「……ああ、あれか。逃げようとすると捕まってたやつ」


「ひどい言い方。でもちゃんと最後まで付き合ってくれたでしょう?」


 レティアは楽しそうに目を細める。


「だから、男性役は昔からアリスのほうが上手。今さら遠慮する必要ないよ」


 その確信に満ちた言葉に、アリスは一瞬だけ目を瞬かせ、やがて小さく息を吐いて笑った。


「……わかった。じゃあ、リードするよ」


 二人は指先を絡め、そのまま舞踏の輪の中へと進み出る。


 最初の一歩。

 アリスはほんの一瞬だけ間を取り、背筋を伸ばす。

 肩の力が抜け、視線が定まり、足裏に確かな感触が戻る。


 次の瞬間、彼女の立ち姿は一変した。

 足運びは静かで確か、踏み込みは無駄がなく、肩と腰の位置は一切ぶれない。


 自然とレティアを導く位置へと収まり、その動きには迷いがなかった。


 レティアは何の躊躇もなく、そのリードに身を預ける。

 スカートが円を描いて広がり、布地が光を掬い上げる。


 アリスの手は強すぎず、弱すぎず、常に最適な距離を保ちながら彼女を支え、導いていく。


 その所作は訓練された騎士のように正確で、同時に舞踏としての優雅さを失っていなかった。


 ――その瞬間、周囲の視線が一斉に二人へと注がれた。


「おお……」


「なんて優雅なんだ……」


 学院生や来賓たちが、思わず息を呑む。

 力強さとしなやかさ。

 男性役を務めるアリスと、女性役を務めるレティア。


 その舞は、互いの信頼と、長い時間を共に積み重ねてきた絆があってこそ成立するものだった。


 曲が盛り上がりを迎える。

 アリスは一歩踏み込み、重心を預け、くるりとレティアを回転させる。

 スカートの裾が光を掬い、花が咲くように大きく広がる。


 動きに一分の淀みもなく、呼吸、歩幅、視線、鼓動までもが噛み合い、二人の動きはまるでひとつの生き物のように連なっていた。


「……ほんとに、あなたったら」


 レティアが小さく囁く。


「何が?」


「舞踏は苦手だって言ってたのに。これじゃ……」


 一瞬だけ言葉を切り、くすりと笑う。


「まるで、騎士と姫君みたい」


 アリスは照れ隠しのように笑い、ほんの少しだけ力強くステップを踏んだ。

 その姿は、確かに守り導く者のそれだった。


 その光景を見守る仲間たちも、来賓たちも、皆が驚きと賞賛の眼差しを送っていた。

 誰もが心の中で、同じ言葉を浮かべる。


 ――学院の双璧。


 そう呼ばずにはいられないほどに、二人の舞踏は鮮やかで、気高く、そして美しかった。


 やがて曲が終わり、割れるような拍手が広がる。

 二人は自然な動作で互いに一礼を交わし、そっと手を離した。


 ――こうして舞踏祭の一日目は、

 開会式の衝撃と、学び舎らしい賑わい、そして華やかな社交の夜とともに、静かにその幕を閉じていった。

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