第一部 第三章 第8話
血の匂いと獣の呻き声が森に消えていった後、六人は荒く激しい呼吸を整えた。肺の奥にまで湿気が入り込み、鉄錆の味が舌に広がる。
しかし、リナがすぐに声をかける。
「休憩は取らずに行きます。敵が群れている可能性が高いから、気を抜かずに進むわよ」
その言葉に全員が息を飲むように返事をし、湿った獣道に足を踏み出す。
魔導ライフルの銃身は汗と霧で冷たく、指先の皮膚がきゅっと張り付く。腰の魔導剣の柄を握り直すと、革巻きの感触に自分の鼓動が伝わって震えた。
指先に力を込め、次の瞬間に備える。だが、連続する戦闘の疲労は確実に体に蓄積しており、肩の重みが増し、二の腕がじんじんと痺れ、引き金にかけた指の感覚は徐々に鈍っていくのを、誰もがはっきりと感じていた。
深い森の湿気の中から、途切れることのない低い鳴き声が響き渡る。土に沈むような重い足音がかすかに近づき、葉裏を擦る乾いたざわめきに紛れて、暗い木立の陰で何かが嗤う――湿った喉の笑いが、背骨を冷たく撫でた。
――その刹那、一陣の風が梢を揺らすと同時に、森の底から轟音にも似た唸り声が響いた。
「っ……!」
気づいた時には、灰褐色の皮鎧をまとった影が次々に木陰から跳躍し、苔むした幹を蹴って飛び出していた。
獰猛な目つきでこちらを睨みつける《ゴブリンロード》――ただのゴブリンとは一線を画す、獣よりも陰湿で狡猾、知恵と執念を備えた人型魔獣の上位種だ。
粗削りな剣と槍を乱暴に握りしめた彼らの瞳は黄色く爛々と輝き、今にも獲物を貪ろうとする獰猛な光を放っている。
その数は先ほどの倍どころか、二十体を軽く超え、背後の暗がりからはまだ無数の影が這い出してきた。
「……なんなの、この数……!」
マーヤの声がかすれ、息を呑む音が全員の耳を鋭く刺す。
「くっ……全員、迎撃! エルドさん、アリスさん、近接で抑えて!」
リナの指揮が飛ぶ。疲労に揺れる体に鞭を打ち、エルドとアリスは腰の魔導剣を抜き放つ。
柄に刻まれたルーンを叩く。剣身が淡い魔力の光を帯び、湿った空気を裂く鋭い音が森に走った。
「他の皆は銃で援護! 弾を惜しまず、確実に撃って!」
「了解」
リナの声は刃物のように冴え、フィル、マーヤ、レティアの魔導銃から次々に火花が噴き出す。
青白い弾光が木霧を抜け、獣の群れに叩き込み、肉を裂き骨を砕く。
だが、先頭のゴブリンロードが凄まじい咆哮を上げると同時に、低位のゴブリン兵たちが木陰から波のように押し寄せてきた。槍の穂先が一斉にこちらを向き、湿った風が血と油の臭いを運ぶ。
「まだ来るのか……っ!」
フィルが奥歯を噛みしめ、頬の筋肉を強張らせて照準を切り替える。
狙う、撃つ、排莢、呼吸――動作は正確だが、勢いは止まらない。敵の数は減るどころか増え続け、リナが構え直した銃を握りしめる刹那――
「きゃっ――!」
鋭い金属音。横合いから投げ突っ込まれた槍がリナのライフルを強かに弾き飛ばす。銃は湿った茂みに転がり、石に当たって火花を散らした。
「リナさん!」
「私は大丈夫……アリスさん、銃を」
すかさずアリスが背から予備の魔導ライフルを抜き取り、投擲姿勢から真っ直ぐに投げ渡す。
「これを!」
リナは片手で受け止め、即座に魔力コンデンサを叩き込む。指先は震えているのに、装填は一拍も遅れない。
銃口が跳ね上がり、破裂音が三度、四度。胸、肩、喉――撃点は迷いなく、突進の先頭が雪崩を打って倒れる。
それでも、森の陰からは次の一体が低く身を沈めて疾走してくる。
「エルドさん!」
「任せろッ!」
エルドの魔導剣が空気を裂き、粗剣の刃を叩き落として柄ごと弾く。
踏み込み一歩、切っ先が喉元を穿つ。赤い霧が夜の冷気に溶け、体温の蒸気が白く立ち上る。
「ハァッ!」
アリスの剣が閃光の軌跡を描き、横移動から滑り込むように胸骨の合わせ目へ。
刃が骨を割る鈍い手応え、そのまま抜き打ちの返しで心臓部を刺し貫く。獣の断末魔が森の闇に吸い込まれた。
視界の隅。槍影――
「囲まれるわ! マーヤさん、右を!」
「分かってる!」
マーヤの弾が短い三連で走り、二体のこめかみを正確に撃ち抜く。
フィルは膝関節を優先して撃ち、転倒した個体の後頭部へ止めの一発。
抜き撃ちのリズムが美しく噛み合い、空薬莢が湿った土に沈む音すら音楽の拍に見えた。
「レティア、前列の脚を鈍らせて」
「任せて」
レティアの短詠唱。足元に符術陣が咲き、薄い靄のような放電が地表を這う。
踏み込んできた個体の足首が痺れ、突進の勢いがわずかに鈍る。そこへリナの三点バーストが吸い込まれた。
「アリスさん――後ろ!」
「……!」
背面に鈍器。振り返るには遅い――
「アリス!」
エルドの刃が横合いから割り込み、上腕を肘下から断ち落とす。骨が砕ける乾いた音。
「ありがとう、エルド」
返す刃でアリスは目前の個体の心臓を貫く。
鮮血が頬をかすめ、まぶたに生温かさが残ったが、表情は微動だにしない。
「リナさん、右側!」
「取る!」
リナの魔導ライフルが二発、間髪入れずに鳴り、続くゴブリン兵の頭を粉砕する。
銃身の熱が手袋越しに痛い。汗が顎先から落ち、黒土に暗い染みを作った。
「……ハァ、まだ来る……?!」
マーヤの呼吸が震え、肩が上下する。
握った銃床が汗で滑り、掌で握り直した。
それでも六人は足を止めない。
深い森の奥からなおも蠢く気配を背に、血と硝煙の匂いを纏いながら、前を凝視し続ける。
足運びは崩れず、隊形は維持されたまま、刃と弾の壁が一歩ずつ押し返していく。
……だが、まだ終わりではない。
乾いた空撃ちの音。マーヤの薬室が空を告げ、彼女は小さく舌打ちをした。
「くそっ……まだ残ってる……! あと何体いるんだ……!」
「フィルさん、カバー。マーヤさん、予備コンデンサ。レティアさん、左後方の警戒続けて」
「了解」
「今、交換する」
「はい」
リナが息を荒げながら銃口を握り直す。
その背後で、アリスとエルドの魔導剣が交錯し、重なり合うように閃光を放ち、迫る魔獣の喉元と胸郭を次々と斬り裂く。
刃が骨を断つ鈍い振動が手首から肘へ伝わり、肩甲骨が熱でじりじりと痛む。
「ハァッ……ハァッ……!」
アリスの肩がわずかに上下し、剣の根元に灯る魔力の光が微かに揺らぐ。
呼吸を整え、踏み込みの角度を一段浅く――それだけで脚の負担がわずかに減った。
「アリス、無理するな! 俺が前に出る!」
「いえ……まだいけます!」
叫び声と獣の呻き声が混ざり合い、銃撃の火花が散る。
最後の一体が獣じみた声で吠え、低く身を滑らせるようにアリスへ――
「アリス、下がれ!」
エルドの踏み込み。
一閃でその首が跳ね、回転しながら落ちた頭部から、温い血飛沫が霧の粒子になって夜気に溶ける。
刃を払う音だけが、ひどく澄んで聞こえた。
……残響が止む。
木立の奥には、もはや敵の気配はなかった。
六人は荒い息を吐き、血と土の匂いをまといながら森の中で膝をつく。
指先が震え、手袋の内側で汗が冷たくなっていく。
「……終わった、か……」
マーヤが震える声で漏らした。
レティアが素早く視線を巡らせ、短い詠唱で表層の治癒を施す。
擦過傷に薄緑の光が走り、ひりつく痛みがじわりと和らいだ。
「全員、負傷軽微。呼吸整えて――三十数えて立つ」
リナの声はかすれているのに、芯は折れていない。
フィルが魔導ライフルの残量ゲージに視線を落とし、低く息を吐いた。
銃身の先から立ちのぼる薄い蒸気が、湿った空気に溶けていく。
「おいおい……大森林に《ゴブリンロード》が群れでいるなんて、初耳だぞ……」
苦い声が漏れた。いつもの皮肉まじりの口調も、今だけは乾いている。
マガジンの魔力残量はわずか三割を切っており、再装填用のコンデンサもあと二つしかない。
エルドが剣先を軽く払って血を落とし、ゆっくりと鞘へ納めた。
金属が擦れる音が、森の静寂にやけに響く。
「それにしても……この数は異常だ。普通、こんなにまとまって行動しないはずだ」
疲労と汗で濡れた額に前髪が張り付き、吐く息が白く揺れる。
彼の足元にはまだ温い血溜まりが残り、腐葉土の匂いに鉄の臭気が混じって鼻を刺した。
リナは頷き、冷ややかな視線で森の奥を見据える。
周囲の木々は霧に包まれ、先の見通しがほとんど利かない。
枝の隙間を通る風がかすかに葉を揺らし、その音が妙に人の吐息に似ていた。
「……こんな場所で立ち止まるのは危険よ。今の私たちじゃ、不意を突かれたらひとたまりもない」
その声音には冷静さと焦燥が混じっていた。
肩越しに見える仲間たちも、疲弊の色を隠せない。
魔力消耗による鈍痛が指先に残り、誰もが無意識に肩を回したり、息を深く吐いたりしている。
アリスは濡れた髪を耳にかけながら、荒い呼吸を整えた。
「移動しましょう。安全そうな場所を探して……一度、休憩を」
声は柔らかくも、決意を帯びていた。
森の湿気が彼女の頬をなぞり、汗と血の境目を曖昧にする。
「賛成だ」
フィルが短く答える。銃身を肩に戻す手は確実だが、手首の震えは止まっていない。
マーヤも無言で頷き、肩のライフルを握り直す。
その指先には赤黒い血がこびりついていた。袖でそれを拭うが、湿った血は簡単には落ちない。
「……よし、みんな! 列を組み直すわ。少しでも森の奥へ入って、敵が追えないところまで移動してから休みます!」
リナの声が、静寂を切り裂くように響いた。
その声に全員が短く呼応する。
「了解!」
アリスが先頭に立ち、エルドが前衛を固める。
後方にフィルとマーヤ、中央にリナとレティアが並び、戦闘時と同じ陣形を維持したまま歩き出す。
足元の腐葉土がじゅくりと鳴り、血に濡れた獣道に新たな足跡が刻まれていく。
夜の帳が降り始め、木々の隙間から射す光は薄闇に溶けていった。
耳を澄ませば、どこか遠くで水の滴る音。――あるいは、まだ息絶えていない何かの呻き。
レティアが小声で呟く。
「……静かすぎますね」
「静かな方が怖い」
フィルが答え、短く笑った。だがその笑みには、疲労と緊張が濃く滲んでいる。
リナは前を見据えたまま言う。
「油断しないで。これだけの群れを動かす何かがいるなら……まだ近くにいるかもしれない」
誰も返事をしなかった。
ただ、踏みしめる足音と、装備の金具が微かに触れ合う音だけが続いた。
――血と硝煙の匂いがまだ肌に残る。
それを洗い流すように、森の湿った風が六人の頬を撫でていく。
やがて霧の向こうに、倒木と岩が入り組んだ小さな高台が見えた。
そこは風の流れが変わり、獣道の匂いが薄れる場所だった。
「……あそこなら一息つけそうね」
リナが指を差し、仲間たちは黙って頷いた。
血に濡れた獣道を、疲労と緊張を抱えた六人の足音が、再び静かな森に溶けていった――。




