第一部 第三章 第6話
夜半に聞こえた謎の歌声は、結局その正体を明かすこともなく、夜明けとともに完全に消え去っていた。
霧が薄く立ちこめる湿った空気の中、空は鈍い灰色の雲に覆われている。
それでも雲の裂け目からは、かすかに朝の光が滲み出し、森の上空を淡く照らし始めていた。
その光はまだ弱々しく、木々の梢を銀色に濡らしながら、夜の名残を少しずつ押し退けていく。
駐屯地では、すでに動きが始まっていた。
地面の泥は夜露を吸ってぬかるみ、歩くたびに靴底がしっとりと音を立てる。
眠気を引きずった班員たちが、重たい目をこすりながら各自の装備を点検していた。
革のベルトが軋み、金具がかすかに鳴る。
冷え切った指先で魔力伝導線を確かめ、符術盤の起動を試す者もいる。
あちこちで、かすかな魔導音と器具の作動音が交じり合い、静かな朝に機械的なリズムを刻んでいた。
焚き火跡には、鉄製の湯沸かしポットが据えられていた。
その中で湯が細やかに泡立ち、ふつふつと鳴る音が湿った空気に響く。
湯気が淡く上り、白い霧と混ざり合って、地表すれすれにたなびいていく。
配給された簡易食――硬い黒パンと乾燥スープ、少量の燻製肉――が木箱に整然と並べられ、配膳係の手で次々に隊員へと渡されていく。
その一連の動きの中に、誰もが昨夜の出来事を引きずっていた。
笑い声も、軽口も、ひとつもなかった。
アリス、レティア、そしてリナの三人は焚き火の傍に腰を下ろしていた。
火はすでに消えかけており、灰の下に残るわずかな熱が、赤く脈打っている。
彼女たちはまだ温もりを残す携帯食の包みを開き、静かに食事を取っていた。
冷えた空気が頬を撫で、木々の隙間から吹き抜ける風が、時折彼女たちの髪を揺らす。
「……結局、誰も正体を突き止められなかったんですね」
レティアが呟いた声は、湯気と一緒に吐息に溶けて消えていった。
その顔には疲労と、わずかな怯えの色が残っている。
彼女の指先はパンを千切りながら、わずかに震えていた。
その横で、リナが苦笑ともつかない表情を浮かべる。
器を両手で包み、湯気を吸い込むようにして息を吐いた。
「見張りの子たちと森の縁まで確認したけど……痕跡も気配もなかったわ」
「ただ静かで、逆に気味が悪いくらい」
その言葉に、アリスとレティアは顔を見合わせる。
確かにあの夜、歌声は確かに聞こえた――けれど、まるで霧そのものが声を出していたかのように、何も残っていなかった。
その虚しさが、かえって胸の奥に重く沈んでいた。
アリスは、黙って手元の小型マジックビジョンを起動させた。
画面には夜間記録の映像が再生されている。
薄暗い森、霧が漂う中で、遠くに淡い影のような揺らぎが見えた。
しかしそれは、焦点を合わせる前にすっと掻き消える。
解析補助をかけても、光量が足りず形を判別できない。
「……森の奥で何かが蠢いてるのは間違いないわ」
アリスの声は落ち着いていたが、その奥には警戒の色が宿っていた。
「昨日の魔獣も多かったし……これ以上の深入りは控えた方がいい」
静かにそう言い切ると、二人は無言で頷いた。
リナはゆっくりと視線を森へ向ける。
朝霧の奥で、木々の影が重なり合い、ひどく静まり返っている。
それはまるで――何かが、まだそこに潜んでいるかのようだった。
そのとき――鋭く張りのある声が、静寂を破るように響いた。
「全員、集合だ!」
班長レオの指示が朝の霧を震わせ、駐屯地の空気が一気に引き締まった。
湿った地面を踏みしめる音が次々に広がり、隊員たちが寝具を畳み、武具を手にして中央へと集まっていく。
まだ白い霧が立ちこめ、吐息もすぐに霞へと溶けた。
森の上空には淡い光が滲み始めているが、地表には夜の冷たさがまだ残っていた。
リナとアリスも立ち上がり、手際よく食器を片付ける。
スープの器を重ね、木箱に戻すと、霧に濡れた外套の裾を払って列へ加わった。
小さな湯気が三人の背後に漂い、すぐに朝靄の中へと消えていく。
駐屯地中央――。
木製の掲示板の前に、班長レオが立っていた。
外套の肩にはまだ露が残り、冷たい光を鈍く反射している。
彼はマントの隙間からマジックビジョンを取り出し、慣れた手つきで術式を起動した。
淡い青光が霧を透かし、隊員たちの顔を照らす。
レオの眼差しはいつも以上に鋭かった。
その視線が一人ひとりを確かめるように巡り、息を呑む音があちこちから聞こえる。
「昨夜の異常音――あれは本部でも重大事案として扱われている」
低く、重い声。
空気の震えに合わせ、霧がわずかに流れる。
「現時点で敵の干渉か、あるいは未知の現象かは判断されていないが……調査隊の追加派遣が決定した。俺たちの報告も正式に上がっている」
誰も声を出さなかった。
ただ、互いに息を殺し、レオの言葉を聞き逃すまいとする。
昨夜の歌声――あの不気味な旋律が頭をかすめ、再び冷気が背を這う。
「だが我々、演習班の行動方針に変更はない」
レオは言葉を切り、静かに息を吸った。
「予定通り、遺跡へ向かって南西方面の探索を続行する。今日も長距離の踏破になる。無理をせず、しかし連携は怠るな」
淡い光がマジックビジョンに反射し、彼の瞳が一瞬だけ光った。
その指先が画面を滑り、地形図の上に新たなルートが描かれていく。
そして、視線を下ろしたまま、静かに続けた。
「もう一つ、編成について変更を伝える」
一瞬、空気がざわついた。
霧の向こうで、数名の隊員が思わず顔を見合わせる。
「今後の安全確保のため、一番パーティーと三番パーティーを合同で行動させる。小隊としてまとめて運用することになった」
レオは小さく頷き、言葉を強める。
「小隊名は――『リナ小隊』。リーダーは、リナ・フローレンスだ」
その名が告げられた瞬間、広場にどよめきが走った。
湿った空気がざわりと揺れ、誰かの息が鋭く吸い込まれる音がした。
リナは一瞬だけ眉を上げ、わずかに目を見開く。
だが驚きの色をすぐに消し、迷いのない足取りで前へ進んだ。
マントの裾が霧を払うように揺れ、朝の光を掠める。
「……了解しました、班長。指揮、責任を持って務めさせていただきます」
その声は静かでありながら、しっかりと響いた。
レオは短く頷き、視線を移す。
「エルド」
呼ばれた青年が一歩前に出た。
背筋を伸ばし、敬礼の姿勢で答える。
「お前は副官としてリナの補佐につけ。火力支援と三番パーティーの統率は引き続き任せる」
「了解です!」
エルドの声は力強く、霧の向こうへ抜けるように響いた。
彼はリナの前まで進み、自然な動作で敬礼を送る。
「リナさん、一緒に動けるのは心強いです。昨日は別行動で助けられなかった分、今日はしっかり支えます」
リナは短く笑い、目を細めた。
「ありがとう、エルドさん。私も、あなたを信頼しています」
その短いやり取りの中に、確かな信頼と覚悟が宿っていた。
沈んでいた空気に、わずかな光が差し込んだようだった。
エルドの背後から、二人の隊員が前に進み出る。
「こちら、副官のフィル・レイノルズ。狙撃が専門で、霧でもブレません」
「……近接は少し苦手ですけど、後方は任せてください」
フィルは控えめに肩をすくめながらも、手にしたライフルを胸の前に構えた。
その動作には確かな安定感があり、周囲の視線が自然と集まる。
続いて、隣に立った少女が一歩前へ出て胸を張る。
「マーヤ・スティードです! 罠と索敵、得意です! 見えない敵がいたら、私が全部引っかけて先に吠えますから!」
その明るい声が静まり返った広場に響き、思わず数人の口元が緩んだ。
「冗談に聞こえないところが頼もしいわ」
レティアが肩を揺らし、アリスも小さく笑みを漏らした。
霧の中に漂う重苦しさが、わずかにほぐれていく。
リナは全員の顔をゆっくりと見渡し、最後にマジックビジョンを掲げた。
青い光が霧の中を切り裂き、彼女の声が響く。
「これより、リナ小隊として出発する!」
凛とした声に、全員の背筋が伸びる。
「今日のルートは昨日よりも起伏が激しく、魔獣の出現率も高いと予測されてる。霧と地形で視界が悪くなる場所では、フィルさんとマーヤさんの支援に頼る。異常があれば即時報告、全員――気を抜かないで!」
「はいっ!」
声が揃い、霧の中に鋭く響いた。
それはまるで、森の静寂を突き破る狼煙のようだった。
リナは最後に小さく息を吸い、目を細めた。
朝の光がその頬を照らし、彼女の金茶の瞳に決意の色を宿す。
こうして、二つのパーティーは一つの小隊として統合された。
新たに生まれた《リナ小隊》が、湿った大地を踏みしめる。
白み始めた森の中――。
まだ夜の気配を引きずるその奥では、
彼らの想像を超える“何か”が、じっと息を潜めて待っていた。




