第一部 第三章 第5話
古びた狩猟小屋を改装した臨時駐屯地に入った演習班は、無言のうちに背負った荷物を下ろすと、息をつく暇もなく、外に設置された調理場へと足を運んだ。
すでに日は落ち、森の奥には夜の帳がゆっくりと降りていた。
空にはかすかに星が滲み始め、西の空に残る橙の残光が、木々の端をわずかに照らしている。
風が吹くたびに、古木の枝葉が静かに鳴り、遠くで小動物の声がひとつ響いては消えた。
鍋の中で煮えたぎるのは、根菜と干し肉を煮込んだ滋養スープ。
ぐつぐつと泡を立てる音とともに、香ばしい肉の香りと、ハーブのさわやかな匂いが夜気に混じって漂っていた。
薪がパチリと音を立て、火の粉が舞い上がる。
湿った土と焦げた木の香りが混ざり合い、疲れた体に染み渡るような温もりを生んでいた。
木製の椀に注がれたスープは、湯気とともに柔らかな光を帯びている。
その隣には、黒パンと薄く切られた干し肉が並べられ、配膳係の手から次々に仲間たちへと渡されていく。
やがて皆が焚き火を囲むように腰を下ろし、思い思いに椀を手にした。
アリスとレティアは、リナの隣に並び、無言のまま木椀を両手で包み込んだ。
白く立ち上る湯気が、夜気と混じりながらゆらゆらと揺れ、光を受けて淡く溶けていく。
冷えた身体にその温かさがじんわりと染み込み、疲労の奥にまで届くようだった。
「……これだけ動いた後のスープは、別格ですね」
アリスがひと口すすると、根菜の甘みと干し肉の旨味が広がり、喉の奥がほっと緩むのを感じた。
火に照らされた横顔には、ようやく安堵の色が浮かぶ。
リナが口元にかすかな笑みを浮かべて頷いた。
「この駐屯地の食事は質素よ。でも、こうして無事に温かいものを口にできる――それだけで、贅沢なの」
焚き火の赤い光が、三人の頬をやわらかく照らしていた。
火の粉が小さく弾けるたびに、その光が揺れ、表情を一瞬だけ淡く染め上げる。
「はい、リナさん」
レティアは控えめに微笑み、パンを噛みしめながら視線を火に落とした。
木の椀を持つ手が小刻みに震えているのは、冷えのせいか、それとも緊張の余韻か。
息を吐くたび、白い蒸気が火の向こうに溶けて消える。
「でも……こうやって焚き火を囲んで、ゆっくり話せるのって、少し不思議ですね。学院じゃ、こんなふうには……」
アリスが言葉を継ぐ前に、焚き火がぱち、と弾けた。
その音が、まるで肯定するように響いた。
「ふふ、そうね。学院じゃ気を抜ける場面なんて、そう多くないから」
リナは少しだけ肩の力を抜き、ゆるやかに息を吐いた。
それでも、その眼差しの奥には緊張の光が消えていない。
焚き火を見つめる瞳には、指揮官としての責任の色が宿っていた。
「でも、油断はしないこと。明日はもっと大変になるわ。アリスさんもレティアさんも、学院の訓練以上のものを期待してるから」
「はい。頑張ります」
アリスがまっすぐに応じる。
その声に、レティアも静かにうなずいた。
小さな火の明かりの中で、三人の影が重なり合う。
それはまるで、ひとつの誓いのように見えた。
再び椀を手に取り、スープを口に運ぶ。
熱い液体が舌を滑り、体の芯まで温めていく。
外では風が木々を揺らし、遠くの方で夜鳥の声が一度だけ響いた。
遠くの焚き火の周囲でも、他の隊員たちが談笑を交わしていた。
笑い声は控えめで、しかし確かな連帯の温もりがあった。
長い行軍の末にようやく訪れた、ほんの束の間の安らぎ――
それを全員が噛みしめるように、静かな夜が更けていった。
やがて、空が漆黒に染まり、森の輪郭が闇に溶けていく頃――。
冷たい夜風が駐屯地を撫で、焚き火の炎が低く揺れた。
星の光はまだ弱く、頭上には薄雲が流れている。
焚き火の赤が土と木の匂いを強め、遠くでは見張りの交代を知らせる鈴の音がかすかに響いた。
その静けさの中で、班長レオの低い声が広場に響いた。
「――各パーティーのリーダーは、これより報告会を行う。小屋内に集合」
その一言に、焚き火の周りにいた指揮者たちがすぐに立ち上がり、無言のまま木造の小屋へと歩みを進める。
外套が擦れ、土を踏む音が規則的に続いた。
小屋の内部は、木の香りと火の熱を帯びた空気で満たされていた。
粗削りの梁には魔導灯が吊るされ、天井の低さがかえって閉塞感を強調している。
中央には簡易の作戦卓――分厚い木板の上に、魔力投影式のマジックビジョンがいくつも浮かび、淡い光を放っていた。
地図上には光の軌跡が交差しており、各隊が辿った通過ルートと交戦地点が赤と青のマーカーで示されている。
点滅する光が壁に反射し、隊員たちの顔を青白く照らした。
椅子代わりの木箱がいくつか並べられ、リーダーたちは順に腰を下ろしていく。
レオは卓の正面に立ち、ゆっくりと全員を見渡した。
その目には疲労の影が見えるものの、声は揺らがない。
「まず、全員……今日一日、ご苦労だった」
その言葉に、場のざわめきがすっと消える。
静寂の中、薪の爆ぜる音だけが外から微かに聞こえてきた。
「……怪我人ゼロで初日を終えられた。これは、誇っていい結果だ」
その声には、わずかに張り詰めた緊張と、抑えきれない安堵が入り混じっていた。
顔を見合わせるリーダーたちの表情にも、ようやく安堵の色が浮かぶ。
リナは一歩前に出て、静かに姿勢を正した。
焚き火に焼けた外套の匂いがまだ残る。
整った声音で、彼女は淡々と報告を始めた。
「リナパーティー、指定ルート踏破。遭遇したストーンバック・ウルフ、およびスレイトフォックス群、ブランチサーペントを撃退。全員健在。物資残量も予定通りです」
言葉のひとつひとつが明確で、無駄がなかった。
報告が終わると、レオは短く頷き、記録役がそれをマジックビジョン上に記録する。
続いて他のパーティーからも順に報告が続く。
ルートを若干外れたことで戦闘回数が増えた班もあり、疲労の色を隠せぬ者もいた。
だが誰もが致命的な損害を出さず、全体の進行は順調といえる結果だった。
――そのはず、だった。
会議の後半、空気がわずかに変わる。
誰もが油断しかけたその時、報告に立った青年が、躊躇いながら口を開いた。
「……午後、東斜面沿いを移動中。ルートから逸れてはおりませんが……森の奥から、女の声……歌のようなものが聞こえました。隊員全員が確認していますが、姿は確認できず」
その言葉に、場の空気が一瞬止まる。
数名が顔を上げ、互いに視線を交わした。
「歌……?」
誰かが小さく呟く。
続いて、別のリーダーが同調するように口を開いた。
「我々も、夕刻近くに。同様の歌声を確認。加えて、霧の奥に……人影のようなものを目撃したとの証言が」
ざわ……と小さな息が卓の周囲を揺らした。
火の光が揺れ、顔の陰影が深くなる。
誰もが言葉を飲み込み、次の反応を待った。
レオは眉をひとつ寄せ、無言でマジックビジョンを操作した。
投影地図が拡大され、淡い光の線が東の斜面付近を照らし出す。
指先でなぞられた部分が淡く脈動し、周囲の目を引いた。
「……いずれも、調査対象である古代遺跡の外縁部に近い地点だな」
低く静かな声が落ちる。
その声には、ただならぬ重みがあった。
「環境異常、あるいは感応型の魔獣の影響も考えられる。明日以降は各パーティーの行動距離を詰め、警戒体制を上げる。……異常を感じたら即座に報告しろ」
「了解」
リナを含むリーダーたちは、一斉に頷いた。
誰も冗談を言わず、軽口も交わさない。
沈黙だけが、夜の小屋を包み込んでいた。
外では、風が森を通り抜け、木々がざわめいた。
遠くで梟の声が響く。
その声がやけに近く聞こえ、会議の終わりを告げる鐘のように静かに消えていった。
報告会が終わり、小屋の灯りが落とされると、駐屯地は再び静寂の帳に包まれた。
焚き火の赤い残光が、時折、木々の影をゆらりと揺らす。
虫の声と葉擦れの音が混ざり、森はいつものように、ただ夜の深みに沈み込んでいく――はずだった。
――その夜。
駐屯地を包む風が、ひときわ冷たくなった。
木々のざわめきが途切れ、焚き火の残り火がぱちり、と音を立てる。
その静寂の向こうから――それは、まるで夜気とともに忍び込むようにして、聞こえてきた。
最初は風の音かと思った。
けれど、すぐにそれが人の声だと分かった。
――透き通った、ひとすじのソプラノ。
澄み渡るような旋律が、夜の森を漂い、闇を震わせる。
あまりに美しく、同時にどこか冷たく、聴く者の背筋をすっとなぞるような響きだった。
アリスは、ふっと目を覚ました。
胸の奥に、得体の知れない寒気が広がる。
すぐ傍らで寝ていたレティアが、すでに上体を起こしていた。
月明かりの差さぬ暗がりで、彼女の瞳が静かに光る。
「……聞こえる?」
アリスが囁くと、レティアはわずかに頷いた。
「……ええ。確かに……女の人の声……」
布の擦れる音。寝具の影から、リナも身を起こす。
短く息を吐き、耳を澄ませた。
「……この時間に誰かが……歌ってる……?」
旋律は途切れず、風に乗って揺れながら、駐屯地全体を包み込んでいく。
寝具の外は、ひどく冷え込んでいた。
三人は目配せを交わし、音を立てぬよう扉を開ける。
外に出た瞬間、夜気が肌を刺した。
吐息が白く立ちのぼり、焚き火の赤が頼りなく揺れる。
その光に照らされて、他の隊員たちの姿が浮かび上がった。
皆、半ば寝ぼけたような顔で空を仰ぎ、互いに不安げに囁き合っている。
「おい、あの声……聞こえたか?」
「どこからだ? 森の奥か……?」
「見張り塔、何か見えるか!」
見張り塔の上では、兵士が慌ただしく魔導灯を掲げていた。
青白い光が樹々の影を照らす。だが、光の先に人影はない。
森は深く、風が葉を鳴らすだけだった。
歌声は――まるで、こちらの反応を見透かすかのように距離を保っていた。
近いようで、遠い。
右から聞こえたと思えば、今度は左。
風に溶け、霧のように漂いながら、駐屯地の外周を円を描くように巡っていく。
「……不気味だな。あれ、本当に人か?」
「いや……でも、魔物の鳴き声とも違う」
その場に立ち尽くしたアリスは、火の揺らぎに照らされた仲間の横顔を見た。
リナの眉間には深い皺が寄り、レティアは唇を噛み締めていた。
「……どうしますか、リナさん」
アリスの問いに、リナは長く息を吐いた。
火の粉が夜空に舞い上がり、闇の中へと消える。
沈黙ののち、彼女は首を横に振った。
「……今、森に入るのは危険すぎる。何かあるとしても、明日確認する。見張りを倍にして、全員は交代制で休む」
隊員の一人が頷き、小屋へ駆け出す。
その背を追うように、焚き火の炎が低く揺れた。
歌声はなおも続いていた。
しかし誰がどの方向へ向かっても、その声の源は掴めない。
まるで駐屯地の外を、円を描くように回りながら、決して中心へは近づかない。
「……あれは、私たちを“試している”みたい」
レティアがぽつりと呟く。
その声は、震えていた。
リナは返さず、ただ拳を握ったまま、視線を森の闇へと向けていた。
風が枝を鳴らし、歌声が遠ざかる。
そして――夜半を越えたころ。
何の前触れもなく、その旋律は途絶えた。
霧のように、跡形もなく。
耳を澄ませても、もう何も聞こえない。
虫の声すら止み、ただ風の擦れる音だけが残っていた。
まるで最初から、何もなかったかのように。
――そのまま謎は解けぬまま、二日目の朝が訪れた。
夜明けの空はまだ灰色がかっていたが、森の上空にはやわらかな光がゆっくりと広がりつつあった。
冷たい空気の中、鳥のさえずりが遠くから届き、凍っていた世界が少しずつ動き始める。
湿った地面が朝露を吸い、焚き火の灰が白く煙を上げる。
隊員たちは誰も言葉を交わさず、それぞれの準備を始めた。
だが――あの夜の旋律は、確かに耳の奥に残っていた。
静けさの中、風が吹くたび、誰もがほんの一瞬、耳を澄ませてしまう。
まるであの歌が、まだ森のどこかで続いているかのように。




