第一部 第三章 第4話
倒れたストーンバック・ウルフの巨体を木陰に引きずり、簡易的な痕跡消去を終えると、リナは肩越しに静かに合図を送った。
アリスとレティアも頷き、再び列を組み直して歩を進める。
湿った土の匂い。鉄と血の混ざり合った生臭さが、まだ空気の奥に残っていた。
葉の先からは、ぽたり、と血の滴が落ち、苔の上で淡く弾ける。
それでも、三人の呼吸は乱れていなかった。
静かな決意が、整然とした足音の間に漂っていた。
――だが、森の沈黙は長くは続かなかった。
およそ十分後。
密生する低木の隙間を、影が走った。
獣特有の気配――生温い空気のうねりが皮膚を撫でる。
「左右、飛び出し注意!」
リナの声が鋭く響いた瞬間、影は形を変え、飛びかかってきた。
《スレイトフォックス》。
灰褐色の体毛を持つ小型魔獣。動きは電光石火、牙と爪には微弱な魔毒を帯びる。
群れで襲い、音もなく殺す――森の暗殺者とも呼ばれる存在だった。
「来る!」
アリスが反射的に魔導ライフルを跳ね上げ、引き金を絞る。
轟音と閃光。
先頭の一体が宙に弾け、霧のような血飛沫を撒き散らした。
だが、二体目は地面を滑るように突っ込み、影のように足元を掠めた。
レティアが素早く狙撃姿勢に入る。
しかし、背後の茂みから別の個体が跳び出す。
その気配に気づいた瞬間には、すでに遅い。
「レティアさん、伏せて!」
リナの怒号が先に届いた。
反射で身を伏せるレティア。
同時に、リナの射撃が彼女の頭上を掠めて走り抜ける。
――バシュッ!
撃ち抜かれた獣の体が空中でねじれ、血と毛皮が弧を描いて飛んだ。
レティアの頬をかすめる熱い滴。
彼女は驚きと同時に息を呑んだ。
「っ……ありがとう!」
礼を言うよりも先に、もう次が迫る。
アリスの背後で土が盛り上がり、三体目が跳躍する。
その瞬間、アリスは振り返りざまに銃身を反転。
迷いなく引き金を引いた。
――ドンッ!
炸裂音とともに、獣が空中で砕け散る。
霧のような血が陽光を反射し、赤い弧を描いて消えた。
残りの個体たちは逃げる間もなく、三人の射線に捕らえられる。
リナの照準が左。アリスは中央。レティアは右。
「撃て!」
同時射撃。
重なった銃声が森を揺らした。
閃光の雨が放たれ、衝撃波が落ち葉を舞い上げる。
木の幹に弾かれた音が幾重にもこだまし、空気が震えた。
三十秒も経たぬうちに、すべての動く影が消えた。
「数が増えてる……ここ、通り道ね」
リナが低く呟く。
その声に応えるように、上空の枝葉がかすかに揺れた。
風が一度止まり、木々のざわめきが途絶える。
「頭上、次来るわ」
リナの警告とほぼ同時。
葉の隙間から、長い緑の影が滑り落ちてきた。
――《ブランチサーペント》。
木々と共生する蛇型魔獣。
しなる胴体が光を裂き、音もなく降下する。
空気がねじれるような気配。
「散開!」
三人がほぼ同時に飛び退く。
直後、地面を叩く衝撃音――。
サーペントの尾が鞭のように薙ぎ払い、木の幹が音を立てて裂けた。
リナの足元に土柱が立ち、アリスの背後で木屑が飛散する。
「くっ……!」
リナは転がりながら銃を構え、牽制射撃を浴びせた。
連射の衝撃が腕に響く。
青白い閃光が獣の鱗を弾き、サーペントの動きが一瞬止まる。
「アリスさん、今!」
リナの声。
アリスは即座に魔力核の反応を探知し、視線を定めた。
わずかに輝く中心――そこが弱点。
「レティア、右前から威嚇して!」
「了解っ!」
レティアが右脚を踏み込み、側面へと滑り込む。
肩越しに放った魔力弾が、サーペントの目前で炸裂した。
閃光と爆風。
獣が怒りのように首を振り上げる。
「今だ……!」
アリスの銃口がわずかに上向く。
光を溜め込んだ魔力弾が撃ち出され、一直線に飛ぶ。
――閃光。
弾丸が魔力核を貫いた。
内部から青白い光が漏れ、サーペントの長い身体が一瞬硬直する。
次の瞬間、咆哮もなく、地面に崩れ落ちた。
「……三戦目、これで終わり」
リナが額の汗を拭い、息を整える。
吐き出した息が白く霧となり、湿った空気に溶けた。
「助かったわ……今のは危なかった……」
レティアは頬の泥を拭い、微かに震えた指で髪を押さえる。
その眼差しにはまだ恐怖の余韻があったが、同時に戦い抜いた確信の光もあった。
アリスは無言のままライフルを点検し、銃身の熱を確かめる。
金属の匂いと微かな焦げの臭いが鼻を刺す。
手の甲で額の汗を拭いながら、静かに息を整えた。
――その時、風が変わる。
葉擦れの音が一瞬だけ止み、次に吹いた風は冷たかった。
緊張の糸が緩んだわけではない。
むしろその反対に、三人の感覚はさらに鋭く、静かに研ぎ澄まされていった。
森が息を潜め、彼女たちを試すように沈黙した。
そして――。
「……見えました。人工構造物、古い狩猟小屋。臨時駐屯地です」
リナが先頭で立ち止まり、声を潜めて報告する。
その声は、湿った森の空気の中でかすかに響き、葉擦れに紛れて消えた。
木立の隙間を縫うようにして、淡い夕日が差し込んでいた。
金色の光が斜面をなぞり、苔むした岩肌と樹皮の上で柔らかく揺れる。
その先――樹々の陰に覆われた空間に、木材と布地で組まれた即席の施設が姿を現した。
屋根には幾重にも布が掛けられ、雨除けの補強が施されている。
木枠の隙間からは灯火の光が漏れ、外周には淡く揺らめく結界の波紋が走っていた。
まるで光の帳が、駐屯地全体を包み込んで守っているようだった。
「……ようやく……」
レティアが小さく息を吐く。
その声には、張り詰めた緊張がわずかに解けた音色が混じっていた。
頬にかかる髪が汗で貼りつき、彼女は指でそっとそれを払う。
「意外としっかりしてますね……小屋というより“砦”に近いです」
アリスが周囲を見回し、目を細めて笑った。
疲労の色を隠しきれない顔に、それでもわずかな誇らしさが浮かぶ。
森の奥で見つけた灯火――それは、生存と帰還を象徴する光だった。
駐屯地の結界の外では、警戒のために展開していた先着の班員が、三人の姿を見つけて手を振った。
その仕草に宿る安堵が、ようやく戦場の冷たさを和らげる。
「リナさん! アリスさん! レティアさん! お疲れさまです!」
「お疲れさま。異常は?」
「はい、森の外縁は今のところ問題ありません!」
短いやり取り。
だが、その一言一言が胸に沁みる。
緊張に包まれた一日の終わりを、ようやく実感させる瞬間だった。
木立の奥からは、他の班の気配が続々と近づいてくる。
枝葉が揺れ、踏みしめる足音が重なり、仲間たちの声が次第に増えていった。
誰もが疲労の色を見せながらも、互いの無事を確かめ合う笑みを浮かべていた。
やがて、簡易施設の中央から班長のレオが姿を現した。
革手袋を直し、落ち着いた足取りでリナたちの前に立つ。
彼の目は疲れていながらも鋭く、隊全体を見渡す指揮官のものだった。
「第一パーティー、報告を」
「第一パーティー、指定ルート踏破。魔物の群れと三度交戦、すべて撃退。負傷者なし、残弾・魔力共に適正維持中」
リナの報告は、簡潔で淀みがない。
その背筋はまっすぐに伸び、泥に汚れた靴の先まで気が張り詰めていた。
「……上出来だ。中で休め。他のパーティーも順次到着中だ」
レオの短い言葉に、リナは直立のまま一礼し、アリスとレティアもぴたりと倣う。
三人の動作はまるで一つの意志を共有しているようだった。
空気がわずかに落ち着く。
アリスはようやく銃を背から外し、銃床を地に立てて深く息を吐いた。
重みが腕を通じて伝わる。その感覚が、ようやく「戦いの終わり」を実感させる。
「……一日目にして、全身に重さを感じます」
息に疲労が混じる。
だが、声はまだ張りを失っていなかった。
「でも……なんだろう。こういう感覚、悪くないわ」
レティアが冗談めかして微笑む。
その頬に、夕日の金色がやわらかく差した。
戦いの余熱と夕暮れの光が、静かに彼女の表情を染めていく。
「今日はしっかり休んで、明日に備えましょう。明日も――絶対に油断できない」
リナの言葉は、穏やかでありながら確かな力を持っていた。
その声に、アリスとレティアは無言で頷く。
森の風が、三人の間をすり抜けていった。
夕日の光が次第に赤みを帯び、森の影が長く伸びていく。
駐屯地の灯りがひとつ、またひとつと灯り始め、夜の帳がゆっくりと降りる。
誰かが遠くで湯を沸かす音がした。
焚き火の煙が立ちのぼり、木の香りと焦げた匂いが混ざる。
こうして、連戦を繰り返しながら進んだ演習初日の行軍は――
三人と仲間たちの確かな連携のもと、静かに、しかし確かに終わりを迎えたのだった。




