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第七部 第一章 第2話

 翌日。

 まだ夜明け前の薄明かりが学院の中庭を淡く染め始めた頃、アリスはふいに目を覚ました。

 目蓋の裏に残っていたはずの眠気は、意識が浮上するのと同時に霧散する。

 胸の奥を占めていたのは、ただ一つ――あの剣の存在だった。

 講師棟地下の《特殊保管庫》。

 そこに安置された異形の剣は、作業台を軋ませ、分厚い強化材の表面に細かなひび割れを刻んでいた。

 昨夜、その光景を目にしたときのざらつくような違和感が、いまだ掌の奥に残っている気がする。


 (……本当に、あの状態で大丈夫なの……?)


 不安は一晩で薄れるどころか、むしろ静かに根を張り、意識の底から離れなくなっていた。

 本来なら、レティアに自分が先に帰還していたことを伝え、今朝は一緒に学生食堂で朝食を取るつもりだった。

 顔を合わせ、他愛もない会話を交わし、いつもの朝を迎える。

 そんな当たり前の光景が、前日までは確かに思い描けていた。

 だが今のアリスに、その余裕はない。


 窓から差し込む朝の光が、まだ淡い金色を帯びているうちに、アリスは制服に着替え、足早に学生棟を出た。

 肌を撫でる早朝の空気は冴え冴えと冷たく、胸の奥に渦巻く焦燥をいっそう鮮明にする。

 食堂の扉を押し開けると、内部はまだ静かだった。

 数人の早起きの学院生が小声で談笑しているが、いつもの喧騒には程遠い。


 アリスは無言で列に並び、温かなスープと焼き立てのパン、簡素なサラダを受け取った。

 席に腰を下ろし、深く息を吐いてスプーンを手に取る。

 白い湯気と香ばしいパンの匂いが鼻腔をくすぐるが、心を和ませることはなかった。

 一口、スープを口に含む。

 いつもなら身体の奥まで沁みるはずの滋味も、今日はただの熱と塩気としてしか感じられない。

 パンをちぎって口へ運ぶが、味の輪郭は曖昧なまま喉を通り過ぎた。


 (……全然、味がわからない)


 食後の余韻に浸ることもなく、アリスは急ぐように食事を終え、器を空にして立ち上がった。

 トレイを返却口へ滑らせる音が、やけに大きく響いた気がする。

 彼女の歩みには、すでに迷いはなかった。

 目指す場所は、ただ一つ。


 そのまま食堂を後にし、足音もやや荒く講師棟へ向かう。

 頭の中では、昨夜目にした異形の剣の姿が何度も繰り返し浮かんでいた。


 ――どうしても、あの剣の様子を確かめなければ。


 その思いに背中を押されるように、アリスは迷わず歩を進める。

 早朝の学院回廊は人影が少なく、窓から差し込む光が白い石壁を冷たく照らしていた。

 靴音が規則正しく反響するたび、胸の鼓動は早まり、意識は自然と地下へ引き寄せられていく。


 講師棟の地下へ続く階段を下り、重々しい扉の前に立つ。

 そこには、一般学院生では越えられない魔導障壁と認証装置が据え付けられていた。

 アリスは一度息を整え、試すように学生用パスをかざす。


 ――ピィッ。


 甲高い警告音とともに、赤い文字が空中に浮かび上がる。


 《アクセス拒否――認証レベル不足》


「……やっぱり、入れないか」


 小さな吐息がこぼれた。

 わかっていたはずの結果だったが、胸に広がる落胆は思いのほか重い。

 まるで、扉の向こうにある剣そのものが、自分を遠ざけているかのようだった。


 しばらくその場に立ち尽くした後、アリスは決意を固め、階段を上り直す。

 向かう先は三階――クラリスの講師用研究室。

 今頼れるのは、彼女しかいない。


 だが、扉をノックしても反応はなかった。

 耳を澄ましても、室内から気配は感じられない。

 静まり返った廊下に、自分の呼吸音だけが虚しく響く。


「……ちょっと、早すぎたかな」


 肩をすくめ、苦笑混じりに呟く。

 登校前の時間帯だ。

 どうやらクラリスは、まだ学院に到着していないらしい。


 仕方なく、アリスは再び階段を下り、一階のホールへ戻った。

 外に出ようと正面玄関へ向かった、そのとき――。


「アリス? こんな朝早くに、どうしたの?」


 正面扉を押し開けて入ってきた人物と、鉢合わせる。

 クラリスだった。

 肩には資料の入った鞄を提げ、整った制服姿のまま、驚きと柔らかな笑みを浮かべている。


 思わぬ再会に、アリスはわずかに目を見開いた。

 胸の奥で張り詰めていた糸が、ほんの少しだけ緩む。


 朝のひんやりとした空気をそのまま纏ったような静謐な雰囲気で、クラリスは首を傾げる。


「クラリス! よかった……実は、お願いがあって」


 アリスは思わず駆け寄り、昨夜預けた剣のことを矢継ぎ早に説明する。

 その声音には、どうしても確かめたいという焦りと切実さが滲んでいた。


 話を聞き終えたクラリスは、小さく息を吐き、納得したように頷く。


「気になるのは当然ね」

「でも、セキュリティ上、まずは研究室で出勤登録を済ませないといけないの」

「地下保管庫の権限が有効になるのは、その後よ」


「……そっか。わかった。じゃあ、一緒に行く」


 待ちきれない思いをぐっと抑え込み、アリスは頷いた。

 二人は並んで再び階段を上がる。


 三階に着くと、クラリスは慣れた手つきで研究室の扉を開けた。

 室内には整然と並んだ本棚と魔導端末の淡い光があり、朝の冷気を含んだ静かな空気が張り詰めている。


 クラリスは鞄を机に置き、すぐに端末を起動した。

 指先が滑らかに操作盤を走り、魔導セキュリティ解除と出勤認証が次々と進められる。


 《講師権限認証完了――クラリス・ノーザレイン/勤務開始を承認》


 無機質な音声が響いた直後、端末の画面に赤いアラートが点滅し、短い警告音が鳴った。

 クラリスは眉を寄せ、アリスに軽く手を上げて制する。


「少し待ってて」


 数秒の沈黙。

 表示された文字列を追い、必要な確認を終えると、クラリスは画面から視線を離した。


「……ミラージュ王国からの通達ね」

「内容は二件。一つは、王都への中間報告のため、私に一時帰還命令」

「もう一つは、本日午後、学院内でティアナ騎士団と学院関係者による臨時会合が開かれる。私にも出席要請が来てるわ」


「……午後には、また動きがあるってことね」


 アリスの声には、自然と緊張が滲んだ。


「ええ」

「……お待たせ。じゃあ、今から剣の状態を確認しに行きましょう」


 クラリスは端末を閉じ、まっすぐアリスを見て頷く。

 二人は講師棟を出て、地下へ続く階段を降りていった。

 石畳の階段はひんやりと湿り、降りるほどに空気は冷たく、静まり返っていく。


 やがて《特殊保管庫》の前に辿り着く。

 扉一面に刻まれた複雑な魔導紋が淡く輝き、静かな威圧感を放っていた。

 クラリスが講師用パスを翳すと、低い音とともに紋章が反応し、光が波紋のように広がる。


 《認証完了――クラリス・ノーザレイン、入室を許可》


 次の瞬間、重厚な金属扉が鈍い音を立てながら、ゆっくりと開いた。

 冷気が吹き抜け、足元に絡みつく。

 二人は思わず身を引き締めながらも、慎重に保管庫の内部へと足を踏み入れた。


 クラリスが端末を操作し、壁面に埋め込まれた水晶へと手を伸ばす。

 指先が触れた瞬間、ぱちり、と乾いた音が響き、青白い照明が天井から落ちた。

 淡い光は一気に広がるのではなく、ゆっくりと波紋のように満ち、冷えた空気とともに保管庫の全貌を照らし出していく。


 そして――。


「……えっ!?」

「……これは……!」


 二人は同時に息を呑み、思わず足を止めた。

 昨日まで剣を安置していたはずの作業台は、もはや原形を留めていない。

 厚い強化素材で組まれていた台は中央から叩き割られ、鋭利な破片の山と化して床に散乱していた。

 破片の一つ一つが床石に突き刺さり、踏み込めば容易に皮膚を裂きそうな凶器と化している。

 床一面には放射状に走る裂け目と、黒く焼け焦げた痕が幾重にも重なり、単なる破損では済まされない“暴れ回った痕跡”をはっきりと刻み込んでいた。


 壁へ視線を向ければ、斜めに走る深い斬撃痕が複数刻まれている。

 石材の内部まで食い込んだ傷口には、まだ微細な粉塵が残り、わずかに空気中を漂っていた。

 保管庫全体が、静まり返っているにもかかわらず、直前まで激しい力が振るわれていたことを雄弁に物語っている。


 そして視線を奥へ向けると――。


 そこに、剣はあった。

 保管庫の隅、まるで自ら選んだかのような位置に、異形の剣が突き立つように立てかけられている。

 昨日とは違い、その刀身は仄かな青白い光を静かに放ち、呼吸するかのように淡く明滅していた。

 ただ存在しているだけなのに、周囲の空気が重く沈み、見ているだけで背筋が冷えるほどの威圧感を放っている。


「……勝手に……移動したの?」


 クラリスの声は、わずかに震えていた。

 理性ではあり得ないと理解しているはずなのに、目の前の光景がそれを否定している。

 誰も触れていないはずの剣が、作業台を粉砕し、まるで“自分の居場所”を選ぶかのように移動していたのだ。


「封印も、固定術式も……完全に維持されていたはずよ」

「それなのに、この破壊……自律行動としか考えられない……」


 アリスは息を詰めたまま、散乱した破片と抉られた床をゆっくりと見渡す。

 視界に映るすべてが、剣の異常性を無言で突きつけていた。


 (……まるで、剣自身が拒絶して、暴れたみたい……)


 静まり返った保管庫に、自分の心臓の鼓動だけがやけに大きく響いているような錯覚を覚える。

 冷えた空気の中で、呼吸の音さえも過剰に意識され、時間が引き伸ばされたかのように感じられた。


 それでも、アリスは一歩を踏み出した。

 瓦礫を避け、慎重に、しかし迷いなく剣へと近づく。


 その瞬間だった。

 異形の剣が、応えるかのように、放っていた光をわずかに弱める。

 脈打っていた青白い輝きは次第に静まり、空間を満たしていた荒々しい圧力が、潮が引くように後退していった。


「……反応してる……?」


 クラリスが息を潜め、低く呟く。

 まるで“持ち主の接近”を感知し、剣自身が緊張を解いているかのようだった。


 やがてアリスは剣の前に立ち、両手をゆっくりと伸ばす。

 柄に触れた瞬間、掌に伝わったのは冷たい鋼の感触――しかし、それだけではなかった。

 同時に、どこか懐かしく、胸の奥を静かに満たすような脈動が、確かに感じられた。


「……やっぱり……あなたは……」


 かすかな声で呟き、アリスは柄をしっかりと握りしめる。

 そのまま持ち上げると、異形の剣は一切の抵抗を見せず、素直に応じた。


 重々しい巨剣の輪郭が淡く揺らぎ、金属音にも似た低い響きを伴って、ゆっくりと縮んでいく。

 刀身は引き締まり、過剰だった存在感が嘘のように収束していく。

 圧迫感は霧散し、やがて剣は、手に馴染むロングソードの姿へと落ち着いた。


 アリスの掌の中で、剣はまるで最初からそうあるべきだったかのように静かに輝き、安定した存在感を放っている。

 保管庫に満ちていた異様な気配は消え去り、代わりに、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。


 クラリスはその光景を、言葉を失ったまま見つめていた。

 異形の剣は、確かに――アリスの手の中でだけ、完全に“落ち着いて”いた。

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