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第一部 第三章 第3話

 密林の中を黙々と進み始めてから、すでにおよそ四時間が経過していた。

 陽光はとうに高く昇っているはずだったが、森の奥ではほとんど届かない。

 梢の隙間からこぼれる光が、まだらな斑模様を地表に落とすだけ。


 濡れた土と苔に覆われた地面は、ところどころでわずかに靄を吐き出しており、湿気を含んだ空気が肌に張りついて離れない。

 頭上では、濃い緑の葉が風を孕み、しとしとと水滴を落とし続けていた。

 それが兜や肩口に当たるたび、ぱちり、と微かな音を立てて弾ける。


 森の匂いは濃密で、苔と腐葉土、そして湿った樹皮の香りが混じり合い、冷たい青の匂いが肺の奥まで染み込んでいく。


 「……ここで一旦、休憩を取ります」


 先導を務めていたリナが、樹齢数百年はある大樹の根元で足を止め、静かに振り返った。

 息を切らすことはなかったが、その額にはわずかな汗が滲み、頬にかかった髪が湿気で肌に張りついていた。


 アリスとレティアもすぐに歩を止め、無言で頷き合って後続に手信号を送る。

 その合図を受けた他のメンバーたちが、慎重に荷を下ろして腰を下ろしていった。


 ぬかるんだ地面には濡れた落ち葉が幾重にも重なり、膝をつけばすぐに冷気が伝わる。

 各々が敷布やマントを広げ、地面の冷たさを和らげるようにして座り込む。

 装備の金具がかすかに触れ合い、硬い音が森の静けさの中に響いた。


 「助かった……ちょっと足にきてた」


 レティアが幹に背を預けて座り込み、深く息をついた。

 道中の湿地と複雑な地形が、想像以上に脚力を奪っていたのだろう。

 それでも彼女の表情は、疲労の中にどこか晴れやかさを残していた。


 アリスは隣に腰を下ろし、水筒の栓をゆっくりと開けて口に含む。

 ひんやりとした水が喉を潤し、冷たさが胸の奥へと落ちていく。


 そのまま数度呼吸を整え、息を静かに吐き出した。


 「リナさん、道の状態は予想通りですか?」


 アリスの問いかけに、リナはポーチから折り畳み式のマジックビジョンを取り出した。

 薄緑の魔光が手の中でふわりと灯り、彼女の横顔を淡く照らす。


 「順調よ。全体の進度も予定通り」


 画面を見つめながら、リナは落ち着いた声で答える。

 「各パーティーの進路逸脱も検出されていない。……このまま進めば、第二ポイントまでは問題なく到達できるはず。

 休憩が終わったら、指定されたルートへ個別移行。気を抜かないようにね」


 「了解」


 アリスとレティアは顔を見合わせ、小さく頷いた。

 言葉は少なくとも、その表情には信頼が宿っていた。


 森の湿気の中でも、彼女たちの息は穏やかで、互いの呼吸が自然と重なっている。


 遠くでは、他の班員たちが乾燥肉をかじったり、水を分け合ったりと、思い思いに小休止を取っていた。

 中には、草地に背を預けて空を見上げる者もいる。


 見上げた先――樹冠の隙間からのぞくわずかな空は淡く光り、白い靄が流れていた。

 森の奥へ吹き抜ける風が枝を揺らし、ざわりと葉擦れの音を立てる。

 その音が、張り詰めた神経をわずかにほぐしていった。


 レティアがふとアリスのほうへ顔を寄せ、小声で囁く。


 「……こうしてると、ちょっと遠足みたいだね」


 アリスは一瞬驚いたように目を瞬かせ、すぐに小さく笑った。

 「ふふ、確かに。……でも、気を抜いたら――すぐに獣のご飯だから」


 冗談めかして言いながらも、その手は無意識に腰の剣の柄へ伸びていた。

 指先にはわずかな緊張が残り、笑みの奥に戦士としての本能が覗く。


 「もう……そういうこと言う?」


 レティアが唇を尖らせて抗議するように返す。

 その仕草にアリスはくすりと笑い、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。


 リナが視線を二人に向け、穏やかな声をかける。


 「さ、あと十分で再出発しますよ。

  水分補給とストレッチを忘れずに。――この後はパーティー単位行動。

  自分たちのルートは自分たちで守ること。いいですね」


 「了解です、リナさん!」


 二人の声が重なり、森の空気を震わせた。

 その声は木立に吸い込まれ、枝葉が応えるようにざわめいた。


 風が通り抜け、冷たい湿気が頬を撫でていく。


 ほんの束の間の休息――。


 だがそのわずかな時間でさえ、彼女たちは心を整え、次に備えていた。


 再び立ち上がる頃、森の空気はわずかに変わっていた。

 霧が薄れ、光が幹の隙間から筋を描いて差し込む。

 誰も言葉を発さずとも、そこに漂う緊張と覚悟が確かな“出発の気配”を帯びていた。


 短い休憩を終えた一行は、再び三人編成の隊形を整え、湿った小道へと踏み出した。

 森の奥は、まだ朝霧の名残を漂わせていた。


 頭上の枝葉が折り重なり、陽光は細い筋となって地表に落ちる。

 その光が、濡れた土や露を帯びた苔に反射し、淡い銀の斑模様を描いている。


 遠くで鳥の声が一瞬響き、すぐに静寂へと溶けた。


 先頭を進むリナは、右手にマジックビジョン、左手で魔導ライフルのストラップを軽く押さえていた。

 指先の動きは規則正しく、肩の位置も一分の隙なく安定している。

 その背には、実戦を知る者の“緊張ではなく、確信”の空気があった。


 アリスとレティアは、リナの後方五メートルの位置で歩調を合わせる。

 どちらも無言――だが、足の運びと呼吸のリズムは完璧に揃っていた。


 泥濘を踏む音、枝葉の軋む音、衣擦れの音。

 それらが三人の間で一定の間隔を保ち、静かな連携の鼓動となっていた。


 この先は完全な分隊行動。

 各パーティーがそれぞれのルートを進み、通信以外の連携は断たれる。

 味方の姿すら、すぐに森の陰に隠れる。


 頼れるのは互いの気配と、マジックビジョンに浮かぶ微かな信号のみ――。


 「……ここからは私たちだけ。慎重に」


 リナの声は低く、だが凛としていた。

 その音が湿った空気を震わせると、アリスとレティアは無言のまま頷き返した。


 その時だった。


 ――森の空気が、変わった。


 生ぬるい風が頬を撫で、空気の密度が一瞬で変わる。

 湿り気の中に、獣の体温に似たぬめりが混ざり込んだ。


 低い唸り声が、茂みの向こうでくぐもるように響く。

 直後、低木が不自然に揺れ、背後にいた小鳥が一斉に飛び立った。


 「……止まって」


 リナの声に、アリスとレティアは即座に反応した。

 三人は滑らかな動きで停止し、ほとんど同時にライフルを肩に構える。


 金属が擦れるわずかな音さえ、森に吸い込まれていくようだった。


 魔力安全装置を指先で解除。

 銃身に組み込まれた冷却プレートが低く唸り、照準補助装置が起動音を立てる。

 彼女たちの呼吸が、ほんの少しだけ浅くなった。


 次の瞬間――


 木々の隙間から、灰色の影が姿を現す。

 背に岩のような瘤を持つ獣。


 《ストーンバック・ウルフ》。


 魔力が結晶化した瘤が光を鈍く反射し、体毛の間からは微かな魔気が滲み出していた。

 その爪は鋼のように光り、牙は濡れた刃物のように光を呑み込む。


 唸りとともに、土を掻く音――そして現れたのは、三体。


 「ストーンバック・ウルフ! 三体……配置、戦闘!」


 リナの叫びが合図だった。

 同時に三人がそれぞれの位置に散り、遮蔽物と角度を確保する。


 リナは片膝をつき、ライフルを構えて照準を合わせた。

 その瞬間――茂みの奥から、風を裂くような音。


 一体の狼が跳躍し、一直線にリナへと襲いかかる。


 「くッ!」


 リナはわずかに肩をひねり、銃を引き上げる。

 狙うは喉元。

 トリガーを引いた瞬間、魔力弾が青白い閃光を描いた。


 ――ドンッ!


 衝撃とともに弾が獣の喉を貫く。

 骨の砕ける音、血煙、衝突音。


 獣は空中で体勢を崩し、木の幹に叩きつけられて沈黙した。


 だが、次が来る。


 「左右、くるよ!」


 アリスの叫びと同時に、左右の茂みが激しく揺れた。

 二体目、三体目が同時に飛び出し、一直線に突進してくる。

 地面の苔が弾け、湿った土が跳ね上がった。


 「右、取るわ!」


 レティアが素早く腰を落とし、狙いを右側の獣へ向ける。

 指が引き金を絞ると、魔力弾が放たれ――


 ――バシュッ!


 弾は獣の右目を貫通した。

 しかし、止まらない。

 痛みに狂ったように突進し、爪が空気を裂く。


 「レティア、下がって!」


 アリスの声。

 ほぼ同時に二発の魔力弾が飛んだ。

 一本目は肩を削り、二本目が心臓を正確に貫く。


 衝撃で獣の体が揺らいだ瞬間――


 「まだっ!」


 レティアがとどめの一撃を放つ。

 弾丸が頭部を撃ち抜き、黒い血が飛沫のように散った。


 地を抉る轟音。

 左側――最後の一体が、リナを狙って回り込んでいた。


 「く……速い!」


 リナが横へ跳ぶと、爪が目前を切り裂く。

 風圧だけで頬をかすめ、背後の幹が爆ぜる。

 木片が散り、湿った土が舞い上がる。


 「リナさん、左へ! 私が押さえます!」


 アリスが倒木を踏み越えて前へ出た。

 その動きはしなやかで無駄がない。


 右腕で銃を構え、左手で銃身を支えながら、呼吸を整える。


 (速い……でも、止める!)


 「――はあッ!」


 引き金を引く瞬間、銃口の魔力コンデンサが白く輝く。

 放たれた弾丸が一直線に飛び、獣の額へ突き刺さった。


 硬い結晶の外殻を貫き、衝撃で顔面が沈む。


 「ガアァッ……!」


 悲鳴が漏れた刹那、アリスは二発目を撃ち込む。

 今度は首筋。

 衝撃音とともに、獣の身体が崩れ落ちた。


 一瞬――世界が静止した。


 ただ、枝を揺らす風の音だけが残る。


 湿った匂いの中で、倒れた三体の魔物が徐々に魔気へと溶けていく。

 淡い靄のような魔素が、陽光を受けて白銀に光りながら消えていった。


 「……制圧完了。全員、無傷。さすが、学院の精鋭ですね」


 リナがライフルを下ろし、額の汗を拭いながら微笑む。

 息は少し上がっていたが、声には確かな安堵があった。


 アリスとレティアも無言で頷く。


 視線の先、戦闘の痕跡だけが静かに残り、風がそれを攫っていく。


 倒れた魔獣たちの体から立ち上る淡い蒼光が、霧のように森の奥へ消えた。


 それはまるで――この森が、戦いの痕跡を呑み込み、静寂へと戻っていくかのようだった。

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