プロローグ 第2話
魔国軍の進軍は、もはや誰の目にも止められるものではなかった。
王国ミラージュの滅亡からわずか三年――南大陸に点在する人族国家は、次々とその牙に屈した。
まず消えたのは、国境沿いに広がっていた小王国群だった。
それらは数千の兵を擁し、要塞を築いてはいたが、魔国軍の突進の前には、砦を築き上げる暇すらなかった。
山間に築かれた城砦は、魔導投射兵器《黒き礫》の一撃で、壁ごと崩壊した。
その破片と共に、守備隊の叫びが響く間もなく、魔国軍の突撃隊が瓦礫を踏み越えて突入する。
「――ッ、迎撃部隊、門前に!」
「敵の魔導が速すぎる、詠唱が……っ!」
交差する剣と魔法の閃光。
飛び散る血飛沫と、焼け焦げた硝煙の臭いが空を覆った。
かつて都市国家として名を馳せた独立都市 《リュエル》は、魔国軍の空挺部隊により、一夜にして瓦礫と化した。
精霊術士による都市防壁も、魔人族の連携術による共振破砕の前では脆く、突如として天から降り注いだ雷撃と黒炎により、街全体が火の海となった。
「助けて……誰か……っ!」
「母さん、逃げて……うわああああっ!!」
市民の悲鳴が夜空を裂き、石畳に刻まれた歴史が、次々と紅蓮に消えていく。
その中心に降り立ったのは、“黒翼の軍将”と恐れられる魔人族 《ヴァルド・エズナール》。
圧倒的な空中制圧力と、地形そのものを歪める重力結界により、あらゆる抵抗を無力化し、市街戦という言葉すら存在しない蹂躙を現出させた。
リュエル陥落の報が届いた時、周辺諸侯は震え上がり、白旗を掲げて命乞いをした。
だが魔国は、降伏を赦す代わりに――黒き税吏と監視兵を常駐させ、都市のすべてを統制下に置いた。
さらに、一度は魔国に対抗しようと連携を試みた南方の有力諸侯連合も、組織的抵抗を試みたが――
それは、魔王アズマールの前では、もはや「行進の遅延」に過ぎなかった。
各地で挙兵された軍勢は、総数で五十万を超えたとも言われる。
それは南大陸に残された最後の希望、最後の光と称された“南方連合軍”だった。
草原地帯に集結した彼らは、隊列を整え、伝令を走らせ、陣地を幾重にも巡らせた。
数十の国の旗が翻り、戦鼓が鳴り響いた。
魔国軍に対し、正面から対峙する初の総力戦。
人々は信じた。ここで食い止められるなら、まだ間に合うと。
だが、夜明けと共に始まった戦は――半日も持たなかった。
魔国軍は、空から、地下から、周囲の森から、あらゆる方向から侵攻した。
高度連携を取った魔導投射兵器部隊、地下掘削部隊、飛行魔獣騎兵部隊。
さらに地上には、戦車代わりの魔導駆動装甲獣 《アントラスト》と呼ばれる兵器群が展開。
「……左翼、突破された!? 早すぎる……っ、結界が……!」
「地下? ……馬鹿な、我々の後方から敵が……!?」
「上空から炎弾接近! 防壁出力が……間に合わないッ!!」
――まるで、戦術のすべてが読まれていたかのように、各戦線は一気に瓦解した。
士気の高かった最精鋭の重騎兵師団が、魔導結界に包まれた黒騎兵の槍突撃によって壊滅。
中軍の魔術師団は、詠唱前に位置を特定され、《反魔結界槍》により壊滅。
指令本部は空からの一撃で焼かれ、指揮系統は崩壊。
兵たちは逃げた。
だが、魔国軍は“逃げる者”にこそ容赦しなかった。
逃走経路には伏兵が待ち受け、術式地雷が設置され、森の中から狙撃魔法が降り注いだ。
――夕暮れまでには、草原は真紅に染まり、炎に包まれていた。
魔国軍の旗だけが、整然とその中心に立ち続けていた。
こうして、“南方連合軍”は壊滅。
人類が希望と呼んだ最大戦力は、一日で霧と消えた。
魔王アズマールは、焼け焦げた戦場の中央に立ち、振り返ることなく、次の標的を見据える。
「次だ――残るは、ひとつ」
彼の声が届いた先――それは、南大陸最後の大国。
魔導学術と帝政制度を有し、いまだに独立を維持するザンスガード帝国。
だが、その帝国も、最早風前の灯火だった。
焦土と化した北東部の平野。
延々と続く破壊の痕跡の向こうに、ついに魔国軍の先鋒が姿を現した。
黒い軍旗が翻り、地には黒鎧の騎兵が並ぶ。
帝国軍の前哨陣地が蹂躙され、後退したその果て――ザンスガード帝都の外壁が、ついに包囲された。
空は曇天。
人々は息をひそめ、鐘楼には戦時警報が鳴り響き続ける。
“最後の灯”が試されるときが、刻一刻と近づいていた。
帝都ザンスガード――それは、古代より幾度もの戦乱と災厄を乗り越えながら築き上げられてきた、魔導学術の粋を結集した人類最後の壁であった。
天空を貫くように聳える魔導塔群と、幾重にも張り巡らされた結界と障壁が、無数の魔国兵の侵攻を拒み続けている。
石畳の街路には今もなお、戦火を逃れて集まった民の影があり、恐怖を押し殺しながらも、この都が落ちれば人族の未来は尽きると誰もが知っていた。
帝都の中心に座す大魔導学術院は、かつては叡智の殿堂として各国の秀才を集めてきたが、今は学び舎であった教室も、避難民の収容所と兵の集結所に変わり果てた。
街そのものが幾重もの巨大な魔導障壁と聖紋結界によって厳重に包まれており、その内側で人族最後の軍勢が必死の覚悟で防衛線を維持していた。
学園都市としての誇りを背負い、かつて筆を執った学徒や魔術師たちまでもが、今や剣と槍を手に取り、護符と呪文を胸に刻みながら戦列に加わっていた。
子ども同然の若き学徒すら、もう書物のページを捲る代わりに、戦場で血と魔力を振り絞っていた。
帝都ザンスガード――知と理を最後の砦と信じる人々の祈りを背に、その壁は今もなお崩れ落ちずに在り続けている。
何度目の攻撃か、もはや誰にも正確にはわからなかった。
またしても帝都の空に、魔国軍の咆哮が響き渡り、戦火が再び幕を開けたのは、まだ夜の気配が残る冷たい早朝のことだった。
戦闘開始からすでに数時間が経過していたが、戦況は明らかに劣勢だった。
防衛線の崩壊は目前に迫り、砦の外郭はすでに三度目の突破を受けている。
前線から運ばれてくる報告には、ひとつとして希望がなかった。
兵の消耗、結界のひび割れ、魔力切れ、そして戦死。
それらの言葉が、呪詛のように防衛会議室の壁にまとわりついていた。
その部屋には、絶望を煮詰めたような重苦しい空気が漂っていた。
場を満たすのは沈黙と、机を叩く音、誰かの舌打ち。
何も打つ手がない現実に、誰もが心の奥で怯えていた。
結界の崩壊は時間の問題であり、それを口に出せば即座に士気が崩れることを、誰もが理解していた。
それでも、貴族出身の将校たちは焦燥に駆られ、撤退か、あるいは降伏かを声高に叫ぶばかりだった。
その声には戦略も誇りもなく、ただ生への執着と責任逃れの色だけがあった。
隣接する士官たちが控える別室では、レティシア・ファーレンナイトと一緒に入室した従者が、台車に載せて運び込んだ古びた木箱をいくつも机の上に並べていた。
彼女の傍らには、学院時代からの親友であり、成り行きで学徒防衛責任者に担ぎ上げられてしまった少女が、心細げに立っている。
レティシアは、従者が運んできた木箱の蓋を開けると、その中に収められた一つ一つの棒状の武具やその補助装置とおもわれるものを丁寧に並べていった。
彼女の目が一つ一つの武器に触れる度に、微かにその瞳に熱い光が宿る。
「……ご苦労さま」
優しく声をかけたレティシアは、従者に微笑みかけると、続けて静かな声で言った。
「あなたは急いで避難しなさい。ここに残る必要はありません」
従者は立ち止まり、深く頭を下げた後、口を開いた。
「承知いたしました。お嬢様のご武運をお祈りいたしております」
その言葉に、レティシアは一瞬顔を上げ、従者を見つめた。
「ありがとう」
その優しい表情に、従者は少しだけ安堵の息をつき、再び頭を下げると、静かに部屋を退出していった。
レティシアは静かに箱の蓋を開くと、整然と収められた棒状の筒を指で示した。
見たこともない形状の手製魔導銃――実弾仕様が五十五丁、魔力弾仕様が九十五丁。
異世界、かつての現代日本での技術を取り入れ、この大陸のどの兵器庫にも存在しない、彼女だけの試作品だった。
「これを預かって。魔力量が多い子に優先して持たせて。使い方は、これを見ればすぐにわかるわ」
差し出された取扱い図を受け取りながら、親友は箱を見つめ、かすかに肩を震わせた。
「……これが、噂の……。でも、レティシア……君はどうするの? こんなもの渡して、自分の武器がなくなるじゃない!」
心配に滲んだ声を、レティシアは小さく笑って受け止めた。
そして背中に背負った、巨大な白銀の鐘状の盾のような装置を、こつんと叩く。
金属の鐘のような低い響きが、密閉された室内に柔らかく広がった。
「大丈夫。私にはこいつがあるから」
誰も見たことのない、試作の魔導神器――その存在感が、部屋の空気をわずかに震わせる。
「……ほんとに……死ぬなよ、レティシア」
親友の顔には、泣き笑いがにじんでいた。
レティシアは無言で親指を立てると、箱から一丁の魔導銃を抜き出し、友の胸元へ強く押し付けた。
「必ず生きて戻る。――約束」
静かな声でそう告げると、白銀の盾を携えた少女は踵を返し、重い扉を開けていった。
その背は、もはや誰にも止められなかった。
結界門が破れたのは、夜半を回った頃だった。
帝都最終城塞都市の外壁は、すでに魔国軍の咆哮と絶叫に飲まれ、石造りの大路を大地震のように揺らしていた。
瓦礫と化した学術地区の街路には、崩れ落ちた石材や散乱した書物を積み上げた即席の防衛線が築かれている。
父母を失い、学び舎すら奪われた少年少女たちが、震える指で剣を握り、槍を構え、弓を引き絞り、そして新たに手にした魔導銃を固く抱え込んだ。
未熟な魔術士は、震える声で呪文を何度も繰り返し、痩せた剣士は喉を枯らして陣形を整えようと叫んだ。
泣きそうな顔の小さな学徒の肩を、血の気の失せた年長の学徒が必死に叱咤して立たせる。
誰もが、この一線が崩れればすべてが終わると知っていた――それでも、逃げる者はいなかった。
街路の奥からは、地鳴りのような殺戮者たちの足音が近づいてくる。
黒煙を裂いて先陣を切るのは、魔国軍の先遣部隊だ。
血に飢えた獣人亜種、全身に刃を隠した影の刺客、巨躯を鎧で覆った重装兵が瓦礫を踏み越え、息を潜めて殺意だけを先に放つ。
空気は鉄と血の匂いに満ち、足元を揺らす振動が学徒たちの膝を容赦なく竦ませた。
「魔国兵だ! 魔国兵が来るぞ――構えッ!!」
防衛線最前列に立つ、まだ幼さの残る学徒長の声が、か細い喉を裂いて響き渡った。
少年少女たちは涙を隠し、魔導銃を持つ者は引き金に指をかけ、呪文を刻む魔術師は両手を合わせ、剣士や弓兵は血の気のない指で武器を固く握りしめる。
迫り来る絶望と、耳鳴りのような殺意の轟音が街を支配する。
誰かが目を閉じ、誰かが小さく嗚咽した。




