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第六部 第二章 第5話

 調査出発の前日夕刻。

 学院内の一角――中庭に面した旧講義棟の会議室に、調査隊の主要メンバーが静かに集められていた。


 長い年月を経た石造りの建物は、外観こそ古びているものの、内部は丁寧に手入れが行き届いている。

 高い天井と厚い壁が音を吸い、わずかな足音や衣擦れすら、過剰に響くことはない。


 窓の外では夕陽が落ちかけていた。

 赤と橙が混ざり合った斜光が、カーテンの隙間から差し込み、長机の上に淡い影を落とす。

 その光は、まるで刻限を告げる合図のように、ゆっくりと会議室を染め上げていた。


 室内には、緊張感を孕んだ沈黙が張り詰めている。

 誰もが無意識に背筋を伸ばし、椅子に深く腰掛けながらも、いつでも立ち上がれる姿勢を崩していなかった。


 視線の先。

 隊長席に立つのは、今回の臨時合同調査隊における現地指揮官――セシリア・グレオール准尉。


 金褐色の髪をきっちりと一つに束ね、無駄のない所作で立つその姿は、軍人としての規律そのものだった。

 軍服の肩章には、ファーレンナイト王国第三騎士団・第二独立師団――通称「ティアナ騎士団」の正式な紋章が刻まれ、夕陽を受けて鋭く光っている。


 彼女の立ち姿は、まるで研ぎ澄まされた剣のようだった。

 言葉を発する前から、場に居合わせた全員の注意が、自然とそこに集まっている。


「これより、学院演習地跡における合同調査隊の事前顔合わせを行います。全員、簡潔に自己紹介をお願いします」


 静かな声だった。

 だが、その響きは明瞭で、会議室の壁に吸い込まれることなく、確かに全員の耳へと届く。


 最初に立ち上がったのは、ミラージュ王国からの特別協力者。

 クラリス・ノーザレインだった。


 白衣の裾を整え、椅子から立ち上がる動作は落ち着いている。

 一歩前へ出てから、周囲を軽く見渡し、柔らかさの中に芯を感じさせる声音で名を告げた。


「クラリス・ノーザレイン。ミラージュ王国魔導技術開発局・第二研究室所属、兼・王立魔術学院特別出向講師です。本件では術式構造の解析、および調査補佐を担当いたします。どうぞ、よろしくお願いいたします」


 知性と自信が自然と滲む紹介だった。

 決して誇示することなく、しかし自らの立場と役割を明確に示す言葉。


 それを受け、数名の王国魔術師が小さく頷く。

 ミラージュ第二研究室の名は、この場にいる誰もが知っていた。


 続いて、クラリスの隣に立ったのはアリス・グレイスラー。


 彼女は一瞬だけ深く息を吸い、背筋を伸ばす。

 僅かな緊張を漂わせながらも、その瞳は澄み切っていた。


「アリス・グレイスラー。王立魔術学院、探索者育成部五年です。学院演習における現地体験者として、術式干渉の再現、および感知支援を担当します」


 透き通った声が、はっきりと会議室に響く。


 その言葉に、数人の視線が彼女へと集中した。

 “実際に体験した当事者”――その肩書きは、この調査において極めて重い意味を持つ。


 彼女を見つめる視線の中には、期待と警戒、そしてわずかな好奇が入り混じっていた。

 アリスはそれを真正面から受け止め、視線を逸らすことはなかった。


 続いて、王国魔術師団所属の分析官と記録士たちが、順に立ち上がる。


「魔術師団第三分析室所属、術式構造解析担当のマーロ・ディルヴィン中尉です。主に術式の層構造および残留干渉の解析を担当いたします」


「同じく、波動記録処理担当のエルネア・カース中尉です。魔力波形の記録と即時解析を行います」


「感知補佐と精神干渉記録補佐を兼任する、フィレル・ロス少尉です。精神系干渉の兆候検出と記録を担当します」


「補助記録士のエミリア・カリードです。調査中の記録整理、速報処理、各班への情報共有を担当いたします」


 声の調子、立ち方、仕草。

 その一つ一つから、彼らが緻密な役割を担う専門家であることが、はっきりと伝わってきた。


 そして最後に、ティアナ騎士団より派遣された護衛騎士五名が、順に名乗りを上げる。


 制服の上から軽装の魔導兵装を着込み、剣帯の留め具には王国騎士の誇りが刻まれている。

 その佇まいは、研究者たちとは明確に異なる“前線の空気”を纏っていた。


「護衛任務担当、レナ・ヴァルシュ少尉。要人警護および調査補佐任務を担当します。以後、よろしくお願いいたします」


「同じく、セラ・グラウネス軍曹。現地記録の護衛、および精神干渉に対する防護支援を担当いたします」


 二人の声音は揺るぎなく、簡潔だった。

 そこには、クラリスとアリスを“守る対象”としてではなく、“共に任務を遂行する仲間”として捉えている意志が感じられる。


 さらに三名が続く。


「近隣警備担当、ナディア・フェルグリッド中尉。魔導兵装《G-M19タイプ》装備。広域防衛および術式遮断任務を担います」


「同じく、ミリエル・オストン准士官。対潜在魔力反応の迎撃支援を担当いたします」


「接近戦特化班、フロリア・カンタール軍曹。近接防衛区域の制圧、および前衛展開を担当いたします」


 鎧の擦れる低い音とともに頭を下げる。

 その所作からは、戦場を幾度も潜り抜けてきた者特有の重みが漂っていた。


 こうして、調査隊の全員が名を明かした。


 会議室に流れる空気は、先ほどまでの張り詰めた緊張から、静かな覚悟へと変わっていく。

 それぞれが役割を理解し、互いの存在を確認した今。


 この場に集った者たちは、すでに一つの“隊”として、歩み始めていた。


  全員が一礼して席に戻ると、会議室には再び静寂が訪れた。

 椅子がわずかに軋む音が消え、誰もが自然と呼吸を整える。


 その沈黙を破るように、後方に控えていたティアナ・レイス・ロアウが静かに立ち上がった。

 軍靴が床に触れる音すら抑えられ、動作は滑らかで無駄がない。


 金の瞳が、会議室に集う全員をゆっくりと見渡す。

 王代家第一公女としての威厳と、騎士団長としての確固たる風格。

 その二つを併せ持つ存在感に、場の空気がさらに一段、引き締まった。


「今回の調査は、私たちファーレンナイト王国とミラージュ王国――両王国の連携において、極めて重要な意味を持ちます」


 低く澄んだ声が、静かな会議室に確かに響く。


「未解明の術式に触れる以上、理論の範疇を超えた現象が起きる可能性も否定できません。予測不能な事態、記録に残されていない反応、あるいは……過去の遺志が干渉する可能性すら考慮すべきでしょう」


 一瞬の間。

 誰もが、その言葉の重みを噛み締める。


「だからこそ」


 ティアナは、わずかに声を強めた。


「各々が持てる知識、技術、判断力――そのすべてを、余すことなく発揮していただきたい。立場や役割の違いはありますが、この調査においては、全員が同じ目的を共有する“隊”です」


 金の瞳が、クラリス、アリス、そして騎士たち一人一人を捉えていく。


「無理な英雄行為は不要です。しかし、ためらいも不要です。互いを信じ、互いを支え、この調査を成し遂げましょう」


 短い言葉だった。

 だが、その一言一言には、背筋を自然と正させるだけの重みがあった。


 ティアナは深く一礼し、静かに席へと戻る。


 その動作を合図とするかのように、今度はセシリア・グレオール准尉が前へ進み出た。


 姿勢を正し、手元の資料を一度だけ確認してから顔を上げる。


「それでは、最後に明日の調査日程と装備の再確認を行います」


 落ち着いた声が、場を実務の空気へと切り替えた。


「《第八暦月二十六日》の朝六時、王立魔術学院正門前に集合してください。その後、特別装甲魔導車両にて現地へ移動します」


 魔術師たちは即座に筆を走らせ、騎士たちは無言のまま頷く。


「調査期間は二泊三日を予定しています」


 淡々と、しかし明確に。


「初日は、演習地外縁部の地形および術式痕跡の再確認、ならびに事前観測機器の設置を行います」


 セシリアは資料から顔を上げ、アリスに一瞬だけ視線を向ける。


「《人魔大戦終結記念碑》においては、アリス殿の体験記録を基に、再調査を実施予定です」


 アリスは小さく頷き、真剣な表情でその言葉を受け止めた。


「二日目は、演習地内部へ踏み込み、術式痕跡の重点調査と魔力反応解析に集中します」


「三日目には、解析結果と現場状況を踏まえたうえで、中心区画への踏査を試みます」


 セシリアは壁際の地図を指し示しながら、説明を続ける。


「宿営については、一泊目を石碑ポイント、二泊目を魔力反応の交戦ポイント付近とします。夜間は輪番警護体制を取り、休息中も警戒を緩めません」


「各班の詳細な割り振りと配置は、出発前に改めて最終確認を行います」


 続いて、補助装備について言及した。


「生活支援物資として、予備を含めた食料五日分、簡易テント、防寒着、睡眠用具をすでに準備済みです」


 机上に置かれた一つのバックを、軽く示す。


 黒革に銀糸で紋章が刻まれたそれは、実用性と美しさを兼ね備えた造形だった。


「全隊員に《騎士団用魔導バック》を配布します。このバックには重力軽減術式と耐術式加工が施されており、携行負荷を最小限に抑えつつ、内部を干渉から保護します」


「加えて、簡易結界展開機能も内蔵されていますので、調査時や緊急時に非常に有効です」


 その説明に、エミリアが思わず感心したように息を漏らし、クラリスも静かに頷いた。


「以上を踏まえ、追加装備や個別調整が必要な場合は、本日中に申請してください」


 セシリアの言葉が締めくくられる。


 会議室には、規律正しい緊張とともに、わずかな安堵の気配が広がった。

 

 だがそこで、ティアナがふっと口元を緩めた。

 先ほどまでの厳格な指揮官の表情が、ほんの一瞬だけ和らぐ。


「さて――以上で本日の調整は終了です。皆さん、本当にお疲れさまでした」


 会議室に、わずかな空気の変化が生まれる。


「出発を前に、ささやかではありますが、軽食とお茶を用意しております。緊張を解き、英気を養う意味も込めて――どうぞ、少しお付き合いください」


 思いがけない言葉に、張り詰めていた空気が一瞬でほどけた。


 長机の向こう側、隣室へと続く扉が静かに開け放たれる。

 そこには簡素ながら整えられた長卓が置かれ、数種の軽食と、湯気を立てるハーブティーのポットが並んでいた。


「簡単なもので恐縮ですが、栄養補給と情報交換も兼ねています。肩の力を抜いて、どうぞ気軽に」


 ティアナの声音は、先ほどまでの指揮命令口調とは異なり、柔らかく穏やかだった。


 隊員たちは顔を見合わせ、やがて少しずつ席を立つ。

 椅子を引く音や、軍靴が床を踏む音が、先ほどまでとは違う軽やかさを帯びて響いた。


 隣室に足を踏み入れた瞬間、焼き立ての黒パンの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。

 燻製肉の薄切り、野菜のマリネ、小さな果実菓子。

 素朴だが温かみのある品々が、規則正しく並べられていた。


 エルネア中尉は茶を受け取り、ほっと息をついて微笑んだ。


「ありがたいですね。こういう心配りがあると、気持ちが随分違います」


 フィレル少尉もカップを手に取り、肩の力を抜いたように笑う。


「ええ。出発前に、こうして一息つける場があるのは助かります」


 記録士のエミリアは果実菓子を見て目を丸くし、小さく声を上げた。


「……思っていたより、ずっと豪華ですね」


 それを聞いた誰かが、くすりと笑う。

 張り詰めていた心が、少しずつ解けていくのが分かった。


 アリスは温かなカップを両手で包み込み、湯気越しに揺れる液面を見つめる。

 指先に伝わる熱が、胸の奥に残っていた緊張を静かに溶かしていった。


(……明日、出発なんだ)


 そう思うと、不安も覚悟も、すべてが一つに混ざり合って胸に満ちる。


 クラリスは少し離れた位置から、仲間たちの表情を眺めていた。

 緊張の中にも笑みが戻り、言葉を交わすその様子に、わずかに目を細める。


(この雰囲気が、現地でも続けばいいのだけれど)


 心の中で、そう静かに呟いた。


 そして――

 ティアナ・レイス・ロアウは、部屋の端からその光景を見守っていた。


 柔らかな表情を浮かべながらも、その金の瞳は鋭さを失っていない。

 一人一人の動き、声色、表情を無意識のうちに観察し、把握している。


 ――この隊を率い、未知へと踏み出す責務を負う者として。


 こうして、学院を発つ前夜。

 調査隊の面々は、それぞれの胸に決意を抱きながら、束の間の静かな時間を共有するのだった。

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