第六部 第一章 第2話
病室を後にしたアリスは、医療棟の白磁の廊下をゆっくりと歩いていた。
白く磨き上げられた壁と床は、どこまでも清潔で、まるで外界のざわめきや不安を拒む結界のように静まり返っている。
外から差し込む昼下がりの光が、高い位置の窓から斜めに射し込み、磨き込まれた床に反射して淡い光を散らしていた。
光の帯は歩みに合わせてわずかに形を変え、足元を滑るように伸び縮みする。
窓際に並ぶ観葉植物の葉が、どこからか流れ込む微風を受けてかすかに揺れ、その影が壁に柔らかな輪郭を描いていた。
人の気配はほとんどない。
聞こえるのは、遠くの病室からかすかに伝わる器具の音と、アリス自身の靴音だけだった。
コツ、コツ、と一定の間隔で響く足音が、静謐な空間に規則正しいリズムを刻む。
消毒薬の清冽な匂いが鼻腔を満たし、その冷たさが、かえって思考を研ぎ澄ませていく。
歩きながらも、アリスの脳裏には、先ほどまでの光景が何度も蘇っていた。
ベッドに横たわるレティアの穏やかな微笑み。
弱さを隠すようでいて、決して折れてはいない、その瞳の光。
そして――。
戦場で燃え立つ魔力の奔流。
泥と血に塗れた地面。
魔力干渉が渦巻く中で、なおも立ち上がり、仲間を守ろうと剣を振るったレティアの姿。
意識の奥で、それらが絡み合い、重く胸を締め付けてくる。
「……無茶、しすぎよ」
誰に向けた言葉でもない。
それでも、はっきりとした声で、アリスはそう呟いていた。
足を止めることなく、視線だけを床へ落とす。
「分かってる。あの場で、立ち止まる選択肢なんてなかった」
自分自身に言い聞かせるように、静かに続ける。
「それでも……限界を越えるまでやる必要があったのかって、考えてしまう」
靴音が、一拍だけわずかに遅れる。
胸の奥に沈んだ重みが、歩調にまで影を落としていた。
「もし、私が……もう少し早く辿り着いていたら」
言葉は、自然と低くなった。
「あなたに、あそこまで背負わせなくて済んだのかもしれない」
だが、すぐに首を振る。
「……違うわね」
小さく、けれどはっきりと否定する。
「それを選んだのは、レティア自身」
そして、
「同じ状況なら、私もきっと、同じことをした」
廊下の突き当たりが見え始める。
白い壁の向こうに、学院の日常が続いていることを、光の強さが静かに告げていた。
アリスは深く息を吸い、ゆっくりと吐く。
「……だからこそ、守らなきゃいけないのよね」
声はごく小さく、しかし確かな決意を帯びていた。
「次は、誰かが倒れる前に」
歩みを止めずに、前を見据える。
「次は、ちゃんと――全員で帰る」
白磁の廊下に、再び靴音だけが規則正しく響き始める。
その背中には、先ほどよりもわずかに強い意志が宿っていた。
廊下の先、曲がり角に差しかかろうとしたとき――
「アリス」
その名を呼ぶ声が、静かな空気をわずかに震わせた。
はっとして足を止め、振り返る。
そこに立っていたのは、クラリス・ノーザレインだった。
研究用の白衣を身にまとい、胸元のポケットからは小型の魔導計測具がのぞいている。戦闘服のような緊張感はなく、あくまで研究者としての柔らかな佇まいだった。
その腕には、淡い青と白を基調とした花束が抱えられている。白百合と小さな青いリュシオン草。清らかさと癒しを象徴する花々は、誰のために用意されたものか一目でわかった。
クラリスは花束に視線を落とし、わずかに肩をすくめる。
「……面会、もう終わってたみたいね。完全に出遅れたわ。時間はちゃんと確認してきたつもりだったんだけど」
アリスは小さく目を細め、穏やかに答えた。
「レティアなら大丈夫よ。さっき顔を見てきた。まだ安静は必要だけど、だいぶ落ち着いてたわ。これを見たら、きっと喜ぶと思う」
クラリスの表情がふっと緩み、瞳に安堵の色が宿る。
だがすぐに花束を抱え直し、白衣の裾を整えながら一歩近づいた。
「……少し、話せる?」
「もちろん。どうしたの?」
アリスが応じると、クラリスは周囲に人影がないことを確かめ、声を落とす。
「正直に言うわ。あなたのこと、ずっと心配してた。連絡くらい入れてくれてもよかったのに。無事だって分かってても、あの現場の記録を見たら……黙っていられなかった」
叱責めいた口調の奥に、隠しきれない安堵が滲んでいた。
「ごめん」
アリスは苦笑しながら、素直に頭を下げる。
クラリスは花束を胸に抱え、真剣な眼差しでアリスを見据えた。
「……あの戦いで、あなたが“レティシアの力”を使ったこと、私には分かってた。オーバーロードしても、本当に大丈夫だったの? 無理をした自覚はあるでしょう」
アリスは一瞬だけ視線を伏せ、それから静かに頷いた。
「……心配かけてごめん。でも今回は、流されてじゃない。自分で選んで、自覚して使った。あの場で止めなければ、誰かが確実に命を落としてたから」
クラリスの指先が、花束の茎をきゅっと握りしめる。
「……自覚して使ったのなら、それはあなたの選択。でも忘れないで。あの力は単なる強化術じゃない。偏重共鳴の危険性を孕んでいる。無茶を正義にしてしまったら、いずれ取り返しがつかなくなる」
アリスが小さく息を吐くと、クラリスは表情を和らげ、花束を軽く揺らした。
「……それでも、そう言ってくれたのは嬉しい。あなたが“自分の意思”で向き合ったって知れただけで、私は救われた」
そして、白衣の袖を揺らしながら手を差し出す。
「だから私も、支える覚悟を決める。研究者としてじゃない。あなたの友達として、ね」
アリスは胸の奥にじんわりと広がる温もりを感じ、静かに頷いた。
クラリスは表情を引き締め、さらに声を落とす。
「学院の調査はこれから本格化する。でも私は別の角度からも調べるつもり。《あの歌声》、魔方陣、魔力干渉の正体……あなたも、協力してくれる?」
「ええ。私にできることなら、何でも」
「ありがとう」
クラリスは小さく微笑み、花束を見下ろした。
「次は、ちゃんとこの子を直接渡してあげないとね」
そう言ってナースステーションへ向かい、書類を整理していた看護師に花束を差し出す。
「これを……レティア・エクスバルドさんの病室に届けていただけますか。面会時間を過ぎてしまって」
「承りました。きっと喜ばれますよ」
クラリスは軽く会釈し、花束が託されたのを見届けてから廊下へ戻った。
少し離れた場所で待っていたアリスと視線が合い、二人は並んで出口へと歩き出す。
扉の前でクラリスが足を止め、振り返る。
「じゃあ、今日はここまでにしましょう。私は研究室に戻るわ」
「ええ……ありがとう、クラリス」
一瞬交わされた視線の中に、確かな信頼と、言葉にしない不安が混じっていた。
クラリスは背を向け、白衣の裾を揺らしながら去っていく。
アリスはその背を見送り、胸の奥でそっと呟いた。
(……ありがとう)
窓から差し込む光が長い影を落とし、遠くで鳥のさえずりが響いていた。
二人はそれぞれの道へ、静かに歩を進めていった。
クラリスは学院本館の研究棟に戻ると、自室兼研究室の扉を静かに閉めた。
重厚な木扉が軋みを立てずに収まると同時に、外界の気配が遮断され、室内に独特の静けさが満ちる。
昼の光が差し込む窓辺には、年代も系統も異なる魔導書が高さを揃えて積み重ねられ、実験器具は用途ごとに正確な位置へと配置されていた。
几帳面さと実用性が同居するその空間には、紙とインクの乾いた匂い、金属器具の冷たい気配、そして微量の薬品が混じり合った、研究室特有の空気が漂っている。
白衣の袖を軽く整えようとした、その瞬間――
ふと、柔らかな香りが鼻先をかすめた。
花束の残り香だった。
白百合の澄んだ清廉さと、青いリュシオン草の爽やかな青気。
すでに花そのものは手元になく、それでもなお、布地に淡く染み込んだ香りが、確かにそこに残っていた。
クラリスは指先で袖口をなぞり、わずかに目を細める。
「……きちんと届けられたはず。あの子が少しでも気持ちを緩めてくれるなら、それで十分よ」
言葉は独り言のように静かにこぼれ落ちた。
だが、その声音には研究者の冷静さとは異なる、個人的な安堵と、ほのかな温もりが滲んでいた。
それでも――胸の奥には、別の感情が確かに渦を巻いている。
――アリスが語らなかった“沈黙の部分”。
――戦闘報告として整えられた言葉の裏に、あえて伏せられた選択。
――そして今も白衣に残る、花の香り。
クラリスは小さく息を吐き、机へと歩み寄った。
革装丁の研究ノートを開くと、すでに走り書きされた項目が視界に入る。
《歌声》
《転移陣》
《干渉波》
いずれも、偶然では片付けられない要素ばかりだった。
羽ペンを取り、しばし逡巡したのち、静かに書き足す。
《――彼女の選択》
文字を記した瞬間、インクが紙に染み込む音が、やけに大きく感じられた。
クラリスは羽ペンを置き、そっと研究ノートを閉じる。
紙の擦れる音が、静かな研究室に短く響いて、すぐに消えた。
椅子にもたれたまま目を閉じ、深く、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
白衣の袖口からは、まだ花束の香りがほのかに漂っていた。
やがて彼女は椅子を押しのけ、窓辺へと歩み寄る。
午後の陽射しが斜めに差し込み、淡い金色の光が床を照らしている。
外には学院の庭園が広がり、手入れの行き届いた木々が風に揺れ、鳥の影が一瞬だけ視界を横切った。
――そのとき。
背筋に、かすかなざわめきが走る。
誰かに見られているような感覚。
あるいは、風の流れの中に“異質なもの”が混じっているような、説明のつかない違和感。
窓の外を見渡しても、人影はない。
魔力感知を広げても、明確な反応は返ってこなかった。
それでも胸の奥で、何かが囁いている。
(……歌声の残響? それとも、私自身が引きずっているだけ?)
自問しながら、小さく首を振る。
理性では否定できても、感覚だけは完全に消えなかった。
クラリスは窓枠にそっと手を置き、遠くの空を見上げる。
淡い雲が、ゆっくりと形を変えながら流れていく。
その向こうに広がるのは、まだ名も定まらない不安と、これから必ず明らかにしなければならない真実。
「……こちらへ寄ってきている、そう考える方が自然かもしれないわね。偶然が、少し多すぎるもの」
小さく、誰にともなく呟く。
そして踵を返し、再び机へと戻ると、研究用の灯りをともした。
柔らかな光が書類と器具を照らし、室内に現実の輪郭を取り戻させる。
白衣に残る花の香りは、まだ静かに彼女を包んでいた。
それは慰めであると同時に、これから向き合うべきものを思い出させる、ささやかな標だった。




