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第六部 第一章 第1話

 翌日、学院の医療棟

 ――白亜の壁と磨かれた床が、まるで外界の喧騒を遮断するかのように静けさを湛えていた。


 廊下には薬草と消毒液の混じり合った淡い香りが漂い、規則正しい足音と紙をめくる音が低く重なり合って響いている。

 その一角にある特別室のベッドに、レティアは静かに横たわっていた。

 大きな窓からは午後の柔らかな陽射しが差し込み、白いカーテンが微かに風を孕んで揺れるたび、光の粒が床に滲むように踊る。


「……入っても、いいかしら」

 アリスは扉の前で深く一呼吸してから、静かにノブを回した。


「アリス……来てくれたのね」

 ベッドに身を預けたまま、レティアは弱々しくも穏やかな笑みを見せる。

 顔色はまだ完全ではなかったが、昨日の戦場での蒼白な姿を思えば、十分に血の気は戻っていた。


「無茶しすぎよ、あなた……あのとき、魔力ほとんど残ってなかったでしょう」

 アリスはベッド脇に歩み寄り、心配を隠しきれない声音で言葉を落とす。

 眉間にはわずかな皺が刻まれ、胸中にあった恐怖と安堵がにじんでいた。


 レティアは肩をすくめ、小さな笑みを浮かべる。

「でも……私が止まらなければ、誰かが倒れてた。あの瞬間は、それしか考えられなかったの」


「……そうね。あなただから、分かるわ」

 短く応じたアリスの声に、叱責の色はない。

 そこにあったのは理解と共感だけだった。

 二人の間に落ちた沈黙は、重苦しさを持たぬ、互いを信じ合う者同士だからこその柔らかな空白だった。


「もう少し休んだら、また魔導講義に付き合ってもらうから。覚悟してて」

 わざと軽く言うと、レティアは目を細めて微笑む。


「……うん、楽しみにしてる」

 アリスはベッド脇の椅子に腰を下ろし、両手を膝の上で組んだ。

「……でも、怖かったのよ」

 その声には、わずかな震えが混じっている。

「あなたがもう目を覚まさないんじゃないかって、一瞬でも思ってしまった自分がいた」


 レティアは静かに首を振り、アリスの指先へそっと自分の手を重ねた。

「私は、あのとき確かに限界だった。でも――最後に浮かんだのは、不思議とあなたの顔だったのよ」


「えっ……」

 アリスは思わず目を見開く。


「あなたが来てくれる気がしてた。だから、信じて……安心して倒れたの」

 照れくさそうに笑う声には、言葉以上に深い安堵が滲んでいた。


 アリスは手を握り返し、そっと目を伏せる。

「私も……ほんの少しだけ、自分の力と向き合えた気がする。誰かの力を借りたんじゃなくて、私自身として」


 レティアはその言葉を受け止めるように、穏やかに微笑んだ。

「それでいいのよ、アリス。過去がどうであれ、あなたが歩んでいるのは“今のあなた”の道なんだから」


 アリスはわずかに唇を緩め、静かに呟く。

「……ありがとう」


 レティアはふと遠い記憶を思い出すように、少し目を細めた。

「――そういえば、あのときのあなたも同じだったわね」


「……え?」

 小さく首を傾げるアリスに、レティアは続ける。


「ミラージュの古代遺跡で。あなた、魔力を限界まで使い切って、最後には暴走寸前で倒れたでしょう? ……あのときの私、どれだけ怖かったか」

 その声音に責める色はなく、むしろ優しいからかいが滲んでいた。


「ふふ……今なら、私の気持ちがわかってくれたでしょ?」


 アリスは瞬きをし、それから小さく笑う。

「ええ、まったくその通りね。……ごめんなさい、あのときは」


「おあいこよ」

 レティアはふわりと笑い、もう一度そっとアリスの手を握り返した。


 病室には柔らかな沈黙が落ちる。

 窓の外で鳥のさえずりが響き、風がカーテンを揺らして光を乱反射させる。

 その光が、二人を包み込むように静かに差し込んでいた。


 やがて、アリスは真剣な面持ちに戻り、声を落とした。

 柔らいでいた空気をそっと引き締めるように、視線をレティアへ戻す。


「そうそう……大事なことも伝えに来たの。昨日の報告会の後、学院から正式な通達が出たわ」


「通達?」

 レティアが反射的に身を起こそうとすると、アリスはすぐに手を差し出し、やさしく肩口を制した。

「無理しないで。まだ完全じゃないでしょう」

 その一言に、レティアは苦笑して体を預け直す。


「……ありがとう。それで、その通達って?」


「《探索者育成部》の実地訓練は、しばらく臨時休校。あの場所――《シュトラードの丘陵地帯》は全面封鎖されて、王国騎士団と魔術師団が合同で調査に入る予定よ」

 淡々と告げながらも、アリスの瞳には隠しきれない緊張が宿っていた。


「……やっぱり、そうなったのね」

 レティアは深く息を吐いた。

 その声音には驚きよりも、胸の奥で予感していた答えが静かに形を取ったような響きがあった。


「歌声、魔力干渉、それにバロールの亜種……。不明な点が多すぎるわ。クラリスも講師陣も、相当危険視していた。王国が本格的に動くってことは、事態は学院の管轄を超え始めてる」


「……私たちが巻き込まれてるんじゃなくて、向こうから何かが“寄ってきてる”。そんな気がするの」


 レティアの言葉に、アリスは思わず視線を合わせた。

 蒼い瞳の奥に、同じ感覚が宿っているのを感じ取る。


「……ええ。私も、そう思ってる」


 一瞬の沈黙。

 だがそれは、不安ではなく、互いの覚悟を確かめるための間だった。


「それでも――戦う覚悟はできてる。今度こそ、最初から」


「一緒に立つ。ええ、私もよ」


 二人の声が、ほとんど同時に重なった。

 その瞬間、窓辺を抜けた風が再びカーテンを揺らし、やわらかな光が二人の横顔を照らす。


 静けさの中で、言葉にしなくても伝わる誓いだけが、確かに結ばれていた。


 ――何が起ころうとも。

 共に立ち、共に進む。


 その思いを胸に抱いたまま、二人はしばらく互いの手を握り続けていた。

 やがて、レティアが小さく息を吐き、少しだけ肩の力を抜く。


「……ねぇ、アリス」


「なに?」


「この部屋ね、窓から見える景色が、ちょっと変わってて面白いの」


 レティアはゆっくりと腕を伸ばし、窓の外を指さした。

 中庭には整えられた花壇が広がり、薬草や色とりどりの花々が丁寧に植えられている。

「ほら、あの花壇。遠くから見ると、円の模様に見えるでしょ?」


 アリスは身を乗り出し、視線を外へ向ける。

「……本当だ。あれ、偶然にしては綺麗に揃ってるわね」


「園芸部の子たちが、こっそり図案を組んで植えてるらしいの。授業の合間に少しずつ手を入れてるんですって」

 レティアの頬に、小さな笑みが浮かぶ。

 それは戦場で見せた凛とした表情とは違う、年相応の、やわらかな少女のものだった。


「私ね、こういうの、なんだか好き。何も言わずに続けてるところとか……静かに残る感じが」


「……わかる気がするわ」


 少しの間を置いて、今度はアリスがふと思い出したように口を開いた。

「そういえば……授業の課題、まだ終わってないわよね?」


「……あ」

 レティアの表情が一瞬固まり、次の瞬間、困ったような笑みに変わる。


「ほら、やっぱり」


「戦闘訓練ばかりで、つい後回しにしてたのよ……」


「後回しって、提出期限、もうすぐでしょう?」

 アリスは半ば呆れたように、半ば冗談めかして言った。


「代筆してあげようか?」


「だめ! それじゃ意味ないでしょ」

 慌てて首を振ったあと、レティアは少しだけ声を落とす。


「……でも、付き合ってくれるなら、正直助かる」


「仕方ないわね」

 そう言って肩をすくめたアリスに、レティアはくすりと笑う。


 二人の間に、軽やかな笑い声が生まれた。

 それは戦場を越えて戻ってきた日常の、確かな手触りだった。


 さらに話題は、いつしか戦いや通達から離れ、ささやかな日常のことへと移っていった。

 張り詰めていた空気が、ゆっくりとほどけていくのがわかる。


「そういえば、この前の食堂の新しい献立、もう食べた?」


「新しい献立?」


「《森茸のシチュー》よ。最近始まったばかりなんだけど、結構人気みたいで、すぐになくなっちゃうの」


「……ああ、それなら昨日、食堂の前に長い列ができてるのを見たわ」

 アリスは思い出すように首を傾げ、すぐに小さく笑った。


「あなた、やっぱり並んで食べたのね」


 レティアは少し得意げに胸を張り、こくりと頷く。

「ええ。ちゃんと最後尾から並んだわよ」

 そして少し声を潜め、内緒話をするように続ける。

「すごく美味しかったの。森茸の香りが濃くて、身体がじんわり温まる感じで……あれ、また食べたいな」


「……元気になったら、今度は一緒に行きましょう」

 アリスは指を一本立て、軽く釘を刺す。


「今度はちゃんと、無理しないで並ぶのよ」


「ふふ、大丈夫よ」

 レティアはくすっと笑い、視線を和らげる。


「アリスと一緒なら、並ぶ時間も退屈しないと思うし」


 そんな他愛ないやり取りの中で、会話は少しずつ途切れていった。

 病室には再び静かな空気が戻る。


 けれど今の沈黙は、戦場の緊張を思い出させるものではなかった。

 互いの心を寄せ合い、無事を確かめ合ったあとの、心地よい休息の沈黙だった。


 窓の外では、風に揺れる木々がゆっくりと影を作り、夕陽が白亜の壁を淡く染めていく。

 時間の流れが、視覚として静かに感じ取れるほど穏やかだった。


 アリスはその光景を眺めながら、小さく息を吐く。


 (……こういう時間が、これからも続いてほしい)


 そう願うように、胸の奥でそっと呟いた、そのときだった。


 病室の扉が、控えめにノックされる。


「――失礼します。面会時間は、まもなく終了です」

 白衣をまとった医療班の職員が、柔らかな声音で告げる。


「分かりました」

 レティアは小さく頷き、穏やかに応じた。


 アリスはそのやり取りを聞いて、わずかに肩を落とす。

「もう、そんな時間なのね……」

 名残惜しそうに呟きながら、椅子から立ち上がる。


 そしてベッドのそばへ歩み寄り、そっと微笑んだ。


「今日は顔を見れてよかったわ。思ってたより元気そうで、だいぶ安心した」


「私も」

 レティアは視線を上げ、素直な声音で答える。


「……来てくれてありがとう、アリス。本当に心強かった」


「また明日、時間を見つけて来るから」

 アリスは優しく言い添える。


「だから今日は、ちゃんと休んで。無理は絶対にしないでね」


 レティアは柔らかな笑みを浮かべ、その瞳に小さな希望の光を宿した。

「うん……待ってる」


 アリスはその表情を胸に刻み込むように、一瞬だけじっと見つめる。

 それから名残惜しそうに視線を外し、小さく手を振った。


 静かに踵を返し、扉へと歩く。


 ――カチャリ、と取っ手を回し、廊下へ一歩を踏み出す。


 白亜の壁が続く長い廊下には、大きな窓からやわらかな陽光が差し込み、磨かれた床に明るい光の帯を描き出していた。

 風に揺れるカーテンの隙間から、澄んだ青空がのぞく。

 小鳥のさえずりが遠くから届き、昼下がりの学院の穏やかさを静かに告げていた。


 (……大丈夫。きっと、すぐに戻ってこれる)


 そう心の中で呟き、アリスは背後の扉をそっと閉じる。


 ――時計の針が昼下がりを指し、静かな医療棟に、変わらぬ時の流れを告げていた。

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