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第五部 第三章 第10話

 木陰の斜面に腰を下ろしていたアリスは、静かに空を仰いでいた。


 枝葉の隙間から差し込む夕刻の光はやわらかく、淡い橙色を帯びて揺れている。

 戦場の喧騒から少し離れただけで、森は驚くほど穏やかな表情を取り戻していた。


 戦いの余韻がまだ髪に残っている気がして、アリスは無意識に指先を伸ばし、風にそっとすべらせる。

 湿地の泥にまみれた衣服は乾きかけ、重さと冷たさが身体に張りついていた。

 手のひらには、剣を握り続けた痕が熱を残し、指を曲げるたびに微かな痛みが走る。

 その一つ一つが、つい先ほどまで命のやり取りをしていた現実を、否応なく思い出させていた。


「……アリス・グレイスラー」


 鋭くも静かな呼びかけ。

 空気を切り裂くようなその声に、アリスは即座に振り返り、地面に手をついて立ち上がった。


 そこに立っていたのは、魔導装甲の上着をまとい、腰に学院騎士団制式の魔導剣を携えた講師だった。

 金属と魔力繊維を組み合わせた装甲は戦闘用に最適化され、淡い魔力光が縁をなぞっている。

 普段の講義で見せる穏やかな表情とは異なり、引き締まった眼差しは完全に現場の指揮官のものだった。


 講師は落ち着いた足取りで近づいてくる。

 足元の落ち葉や湿った土を踏みしめても、無駄な音一つ立てない。

 背後では、救援に同行した医療班や他の講師たちが慌ただしく動き回り、負傷者の処置や残骸の検分が続いていた。

 魔導器の起動音、短い指示、担架を動かす音が断続的に響き、戦場がまだ完全には終わっていないことを示している。


「現場の記録と処置は、我々がすべて引き継ぐ。ここから先は講師と医療班の仕事だ。君はもう下がって構わない」


 短い言葉。

 だがそこには、上官としての命令と、戦い抜いた者への労いが同時に込められていた。


 講師は一瞬だけ周囲を見渡し、続ける。


「すでに帰還した学院生たちは、学院の待機所で状態を確認した後、順次休養に入っている。今この場に残っているのは、直接戦闘に巻き込まれた班の者と君だけだ。これから魔導車で全員を学院へ送り届ける」


 アリスは唇を噛み、静かに息を整えた。

 胸の奥で、何かがゆっくりと重く沈んでいく。


 ――自分が、どれほど独断に近い形で動いたのか。

 ――そして、その判断に伴う責任を背負う立場にあること。


 講師の声は終始穏やかだったが、その奥には現場を預かる者としての確かな重みがあった。


「……今回は、緊急を要する状況だった。君の判断がなければ、被害はさらに拡大していただろう」


 一拍の間。

 言葉を選ぶような沈黙の後、声は少しだけ低くなる。


「だが次は、必ず報告と許可を通せ。どれほど力があっても、どれほど優れた判断ができても、一人では戦争には勝てない」


 そして、ほんのわずかに声音を和らげて、言葉を継いだ。


「――それでも、今回はよくやった。本当に、よく持ち堪えた」


 その一言に、叱責はなかった。

 戦場を知る者だからこそ発せられる忠告であり、

 同時に、揺るぎない信頼を含んだ賞賛だった。


 アリスは背筋を正し、深く一礼する。


「はい……ご指導、ありがとうございます。次は必ず、規定に従います」


 講師は満足げに一度だけ頷き、踵を返した。

 再び現場の中心へ向かい、指示を飛ばしながら歩いていくその背中は、今も戦場の中にある者のものだった。


 アリスは振り返り、視線を遠くへ向ける。

 担架に慎重に乗せられ、淡い結界に包まれたまま魔導車へと運ばれていくレティアの姿が見えた。

 浮遊式の担架は低い音を立てながら宙に保たれ、医療班の手によって静かに収容されていく。


 (……あとは、任せたわ。先生。レティアを……お願い)


 沈みゆく夕陽が、立ち尽くすアリスの背中を赤く染めていた。

 影は長く伸び、森と戦場の境界を曖昧にしていく。


 数秒の静寂ののち、アリスはゆっくりと足を踏み出した。

 疲労の残る身体に意志を込め、魔導車の方へと向かう。


 戦いは終わった。

 だが、その先へ進むための時間は、まだ続いていく。


 魔導車の扉が、低い駆動音とともに滑らかに開いた。

 内部には淡い灯光がともり、治療魔導具が発する小さな脈動音が、一定のリズムで静かに響いている。

 空気は薬草と魔力安定剤の匂いが混ざり合い、戦場の血と泥の気配をゆっくりと押し流していた。


 アリスが一歩足を踏み入れると、まず視界に入ったのは担架に横たわる重傷者たちの姿だった。

 結界膜に包まれ、微かな魔力光が脈打つたび、胸が上下するのが分かる。

 その周囲には、座席に身を預けるようにして座る軽傷者たち。


 包帯を巻かれた腕を押さえる者。

 額や首筋に汗を浮かべ、荒い呼吸を繰り返している者。

 誰もが疲労困憊だったが、その瞳の奥には――

 確かに“生きて帰れた”という実感の光が宿っていた。


 アリスの姿を認めた瞬間、車内が一瞬、静まり返る。

 視線が集まり、言葉を探すような間が生まれた。


 やがて、第八班の少年が、震える声でぽつりと呟く。


「……ありがとう、アリスさん。本当に……あのままだったら、俺たち……」


 言葉の続きを飲み込み、少年は唇を噛みしめる。


 続いて、別の第八班の女子学院生が、かすれた声で言った。


「本当に……助かったよ。怖くて……足が動かなくなってたのに……」


 肩に包帯を巻かれた少年が、拳を握りしめながら続ける。


「最後のあれ……白銀の光……まるで、英雄みたいだった。あんな戦い、初めて見た……」


 言葉を続ける者もいれば、声を詰まらせ、ただ深く頭を下げる者もいた。

 視線に込められているのは、感謝と安堵、そして畏敬。


 アリスは、その一つひとつの視線を静かに受け止め、わずかに頷き返す。

 だが、言葉は発しなかった。


 その沈黙を破るように、隣の座席で息を整えていたイリーナ・カレストが、力なく笑う。


「……アリス、本当にすごかった。私なんて、氷で足場を作るのがやっとで……途中から、何もできなかった」


 自嘲気味な声に、ヴィクトール・グランハルトが低く言葉を重ねる。


「いや、イリーナがいたから退避が間に合った。俺も……結界を張り直すので精一杯で、正直、何度も破られると思った」


 その声には、仲間を守りきれなかった悔しさと、現実を受け止める重さが滲んでいた。


 リゼット・フローレンスは視線を落とし、指先をぎゅっと握りしめたまま、小さく呟く。


「……干渉源には気づいていたのに、倒すところまで繋げられなかった。結局……最後は、全部アリスに任せてしまった」


 沈んだ声に、第八班の少女が慌てて身を乗り出す。


「違う! そんなことない! みんなが必死に持ちこたえてくれたから、私たちは生きて帰れたんだよ!」


 その言葉に、数人の学院生が涙を浮かべながら、何度も頷いた。


「……あんな魔獣、教本でしか見たことなかったよ」と第八班の少年。

「まさか本当に、あんなのが現れるなんて……夢だと思いたかった」と別の女子学院生。


 包帯を巻いた青年が、震える拳を見つめながら吐き出す。


「レティアさんも……最後まで立ち向かってた。俺……怖くて……何もできなかった……」


 悔しさを吐き出す声。

 涙をこぼしながら、仲間の無事を喜ぶ声。

 車内には、戦いを生き延びた者たちの感情が、静かに満ちていた。


 アリスはそのすべてを言葉を挟まずに受け止め、ゆっくりと窓の外へ視線を向ける。


 低い浮遊音を響かせながら、魔導車は森を抜けていく。

 窓の外では、木々の緑が流れ、夕暮れの光が葉先を朱に染めていた。

 やがて視界が開け、その先に、学院の塔が静かに姿を現し始める。


 胸の奥で、小さな問いが生まれる。


 (……私の選択は、間違っていなかった……よね?)


 だが、その問いに明確な答えは返ってこない。


 それでも。


 ただ一つ確かなのは――

 守るために動いたという事実だけだった。


 アリスは、静かに息を吐き、流れていく景色を見つめ続けていた。


 やがて、魔導車は学院の正門前へ、浮遊音を落としながら滑り込むように停止した。

 結界制御が解除され、車体を包んでいた淡い魔力膜がゆっくりと霧散していく。


 午後の陽光はすでに傾き始め、白亜の校舎群は茜色の光を受けて静かに輝いていた。

 高い尖塔の影が広場へと長く伸び、石畳には温もりと冷えが混じった夕刻特有の空気が満ちている。


「降車開始! 怪我人から優先しろ! 足元注意、無理に動くな!」


 講師の張りのある声が広場に響く。

 その合図とともに、学院生たちは一人ずつ、慎重に車外へと降りていった。


 広場にはすでに待機していたスタッフと医療係が整列している。

 担架を受け取る者、治療魔導具を展開する者、名前を確認する者。

 無駄のない動きで、負傷者は次々と治療棟の方へと運ばれていった。


 降車した学院生たちの間には、戦闘を終えた直後特有の空気が漂っていた。

 張り詰めていた緊張がほどけたことによる高揚。

 生き延びたという実感に伴う安堵。

 そして、それらを一気に押し流す深い疲労。


 第八班の男子が、隣に立つ仲間の肩を支えながら、ぽつりと漏らす。


「……本当に、生きて帰ってこれたんだな。

 さっきまで、あそこで……死ぬかもしれないって思ってた」


 女子学院生が小さく頷き、涙をこらえながら答える。


「うん……私、途中で……もう駄目だって思った。

 でも……みんなが必死に耐えて、支えてくれたから……」


 イリーナ・カレストは杖を肩に担ぎ、少し疲れた微笑みを浮かべる。


「耐えたのは、全員よ。

 誰か一人でも欠けてたら、きっと戻って来られなかった」


 その言葉に、第八班の学院生たちは顔を見合わせる。

 そして、言葉を交わすことなく、静かに頷き合った。


 ヴィクトール・グランハルトは、まだ蒼白な顔のまま、それでも背筋を伸ばして呟く。


「次は……もっと強くなってみせる。

 守られる側じゃなくて、守る側に立てるくらいに」


 リゼット・フローレンスは疲れた目を閉じ、呼吸を整えながら短く言葉を添えた。


「……全員が生き残った。

 今日は、それで十分」


 その静かな声は、集まった者たちの胸にゆっくりと染み渡り、

 高ぶっていた感情を少しずつ落ち着かせていった。


 やがて、最後にアリスも一歩を踏み出し、学院の敷地へと足を戻す。

 石畳を踏みしめる感触は確かで、安定している。


 空気は穏やかで、遠くから鳥のさえずりすら耳に届く。

 だが――

 あの湿地の戦場を知る自分にとって、ここはまるで別の世界のようだった。


 アリスは無言のまま、学院の塔を見上げる。

 斜陽を受けた尖塔は赤金の輝きを帯び、空へとまっすぐに伸びていた。


 (……戻ってきた。でも)


 白銀の余韻が、まだ髪に残っている気がする。

 夕風がそっとそれを揺らし、光の記憶を撫でていく。


 胸の奥に残る熱は、戦いの名残であり、

 同時に――これから歩む道を照らす灯火のようでもあった。


 その温もりを胸に抱いたまま、

 アリスは静かに、学院の中へと歩みを進めていった。

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