第一部 第二章 第8話
駐屯地の奥まった場所にある士官専用ラウンジは、夜更けの静寂に包まれていた。
分厚い扉を閉めれば、外の喧騒は嘘のように消える。
魔導灯の柔らかな明かりが木目のカウンターを照らし、棚に並んだ古い酒瓶が琥珀の光を反射している。
静まり返った空間に、グラスの澄んだ音と、暖炉の薪が時折弾ける小さな音だけが響いた。
レオとエルネスト団長は、並んでカウンターに腰を下ろしていた。
それぞれの前には、淡く揺れる琥珀色の酒。
若い騎士たちの話がひと段落したあと、二人の間に残るのは、長年戦場を知る者だけが持つ静かな間合いだった。
「……はは。あの子たちには、本当に驚かされっぱなしだな」
レオがグラスを指先で回し、軽く息を吐きながら笑う。
その表情には、指導者としての誇りと、どこか親心にも似た温かさがにじんでいた。
エルネストも、くっと喉を鳴らしてグラスを置く。
「まったくだ。だが……君とて、まだまだ若いだろう」
彼は静かに笑みを浮かべ、レオの肩を軽く叩いた。
「こうして新しい力に背中を押されるなら、まだ若いままでいたいものだな」
レオは照れくさそうに鼻を鳴らす。
「ははっ、そいつは同感だ、団長殿」
グラスの縁を軽く叩き、笑みを交わす二人の間に、穏やかな友情の空気が流れた。
やがてレオが姿勢を少し正し、真面目な声色で続けた。
「やっぱりリナは我が王国の自慢だ。あの可動標的のパーフェクト、見たろ
あいつ、狙撃だけじゃなくて状況判断も完璧だった。……まるで空気の流れまで読んでるみたいだったな」
エルネストがゆっくりと頷き、目を細める。
「確かに。あの集中力は常人の域を超えていた。冷静で、迷いがない。まさに職人の眼だ」
「だろ。あいつは努力の塊だよ」
レオが嬉しそうに笑う。
「それに――アリスも、学生ってのが信じられん。あの剣筋、完全に実戦仕様だ」
エルネストはグラスの中の琥珀を見つめ、静かに呟いた。
「彼女の一撃には、理屈を超えたものがある。剣が理論じゃなく、“生き物のように動く”。……あれは経験と感性が噛み合った者の剣だ」
「まったくだ」
レオが頷きながら笑う。
「剣を交えた者なら誰でも分かるさ。あれは本能的に“負けたくない”と思わせる剣だ」
エルネストは感心したように息を漏らし、酒を一口含んだ。
「それにしても、君の言う通り、我が団の若い者たちも悪くない。カイルやヴェイル……あれだけの動きができれば、数年もすれば一線級の主力になる」
レオは口角を上げ、グラスを掲げる。
「おお、あれは見事だった。だがな、団長――あんたのところのライフル競技の連中も忘れちゃいけない
リナ以外のベスト5、全部ミラージュの若手じゃないか。あれは鍛え方が違う。地力がある」
エルネストは目を細め、柔らかく笑った。
「――ありがたい言葉だ。彼らはまだ粗削りだが、伸び代がある。戦場を知るほど、若さの価値が分かるものだ」
「ほんとにな」
レオが頷き、グラスを重ねる。
その音は乾いた金属音ではなく、どこか温もりを含んで響いた。
「君の班と私の団が一緒に動くのは、今回が初めてだが……良い演習になる」
エルネストの声には、責任を背負う者の静かな覚悟があった。
「全員、無事に帰す。それだけは約束だ」
レオは短く息を吐き、真剣な眼差しで団長を見返した。
「言われなくても分かってるさ。……俺たちが守るのは、あいつらの未来だ」
グラスが小さく鳴り、二人の胸に静かな決意が宿った。
窓の外には深い森が闇に沈み、見張り塔の魔導灯が、まるで若き剣と魔の担い手たちを見守るように瞬いていた。
少しの沈黙の後、レオがふと笑みを含んで呟いた。
「ところで、団長……あのアリスのことだが」
エルネストが眉をわずかに動かす。
「うむ」
レオは酒をひと口あおり、軽く息を吐いた。
「もし我が王国の“ブラッディ・ローズ”――レイラ・アスコットとやり合ったら、かなり互角の戦いになるんじゃないかと思うんだ」
その名が出た瞬間、エルネストの表情にわずかな驚きが走る。
「……レイラ・アスコットか」
グラスを傾けながら、低く唸るように続けた。
「彼女は、我が国でも名を轟かせている。剣速と判断力、どれを取っても超一流だ。まさか、そこまでの比較が出るとはな」
レオは誇らしげに微笑み、ゆっくりとうなずく。
「第三騎士団でも指折りの剣士だ。俺が見てきた中でも、戦場で彼女に並ぶ者はほとんどいない
だが――アリス・グレイスラーなら、互角にやれる。いや、もしかすると……勝つかもしれない」
エルネストは息を呑み、やがて静かに笑った。
「なるほど……君がそう言うなら、間違いないだろう」
そして少し目を細め、続ける。
「若くしてあれだけの剣を振るうなら、いずれ必ず、歴史に名を残す。……そう感じさせるものがあった」
レオは満足そうに頷き、グラスを高く掲げた。
「これからの演習、そしてこれからの戦い――楽しみが増えたぜ、団長殿」
エルネストも笑みを返し、グラスを合わせる。
「その通りだ。新しい世代の戦士たちが、我々の未来を切り開く。……願わくば、彼らが剣を掲げる世界が平和であることを」
グラスの音が、夜の静寂の中で心地よく響く。
しばしの間、言葉が途切れた。
やがてレオが再び口を開く。
「それにして――アリスは、やっはり学生ってのが信じられん。どう考えても実動部隊の精鋭だ、我が王国の、第三騎士団の騎士が名を隠して参加してましたって言っても驚かんよ」
エルネストはグラスの中の琥珀を見つめ、静かに呟いた。
「ああ。また繰り返しになるが、彼女の一撃は剣術理論だけ
じゃなく、“生き物のように動く”。……膨大な鍛錬と経験、そして感性が噛み合った者の剣」
レオは興味深そうに顔を向ける。
「団長、あんた――あの動きに、何か見覚えがあったんじゃないのか」
エルネストは一瞬、目を細めたまま黙り込んだ。
そして静かに、琥珀の酒をもう一口含んでから、低い声で続けた。
「……そうだな。見覚えがある。二十年前、私がまだ新兵だった頃のことだ」
レオが驚いたように眉を上げる。
「二十年前」
「うむ。当時、ファーレンナイトとミラージュの合同演習があった。場所は北方の砦跡地――まだ雪が残る季節だった」
エルネストの声音が懐かしげに揺れる。
「その演習を率いていたのが、グエン・グレイスラー卿だ。君の言う“アリスの祖父”だよ」
レオは静かにうなずき、耳を傾けた。
「……ほう。やはり、あの剣鬼グエン卿と面識が」
「面識というより、“叩き込まれた”というべきだな」
エルネストが小さく笑う。
「当時の私はまだ、己の腕を過信していた。剣速には自信があったが、卿の前ではまるで子供だったよ」
彼の視線が遠くへ向かう。
「風のない雪原で、卿はこう言った――“剣は力じゃない、呼吸だ。心が凪げば、刃は止まらん”
それから私の突きを一度だけ受け止め、逆に剣を突きつけてきた。……動きが見えなかった」
静かなラウンジに、薪のはぜる音が一瞬強く響く。
「アリス・グレイスラーの剣を見た時、まるであの時の卿を見ているようだった
無駄がなく、力まず、そして“勝ちを焦らない”。……あれは血筋というより、魂の継承だろう」
レオはゆっくりと息を吐いた。
「なるほどな。さすがはあのグエン卿の孫だ。……あいつ、剣を構えた瞬間、場の空気が変わるんだよ」
エルネストは微笑しながら頷いた。
「うむ。剣気というより、“意志の重さ”がある。戦いに生まれた者が持つ静かな威圧……まるで祖父譲りだ」
「へぇ……そりゃ、血筋の話を抜きにしても納得だな」
レオが感心したようにグラスを掲げる。
「あの子は、まだ自分の力を測りきれていない。けど――いずれ、その剣で時代を動かす気がする」
エルネストも静かに頷き、目を細めた。
「……それならば、私たちは見届ける側として恥じぬ生き方をせねばならんな」
窓の外には深い森が闇に沈み、見張り塔の魔導灯が、まるで若き剣と魔の担い手たちを見守るように瞬いていた。
夜の士官ラウンジには、静かな決意と、時を越えた“剣の系譜”が、深く染み渡っていた。




