第五部 第三章 第6話
第八班の面々は、湿地帯の踏破ポイントに到達したところで一旦小休止を取っていた。
ぬかるんだ地面から足を引き抜き、水筒の蓋を開ける音がいくつも重なる。湿った空気が肺にまとわりつき、誰もが額や首筋の汗を拭いながら、ほんの数分の休息で体勢を立て直そうとしていた。
そのときだった。
――風に乗って、どこからともなく歌声が流れてきた。
遠いようで近く、耳の奥に直接触れてくるような柔らかな旋律。
人の声にも、自然音にも分類できない、不明瞭で不安を掻き立てる響きだった。
「……今の、聞こえたか?」
班員の一人が声を潜めて周囲を見回す。
「歌……だよな?」
「こんな場所で? 演習区域に他の班はいないはずだろ……」
誰も答えられず、湿地に沈む水音だけが返ってくる。
旋律は続き、どこか懐かしさと不快感が混じった奇妙な感覚を胸に残した。
班長が眉をひそめ、即座に判断を下す。
「全員、立て」
水筒を閉じ、視線を鋭く走らせる。
「休憩は中止だ」
「魔力干渉が急激に強まっている」
「進路を確保する。警戒態勢で移動するぞ」
その声に弛緩しかけていた空気が一気に引き締まる。
学院生たちは無言で武装を整え、足場を確かめながら前へ踏み出した。
――その瞬間。
歌声が、嘘のように途絶えた。
代わりに、空気そのものが沈み込む。
湿地全体が息を詰めたかのような圧迫感。
――ズズ……ズウゥ――……ッ!
低く、腹の底を叩くような振動音が響いた。
足元の地面が揺れ、泥水が波打つ。
「な、なんだ……!?」
次の瞬間、湿地の一角に露出していた岩場が淡く青白く輝き始めた。
地表を走るように、幾何模様の魔方陣が浮かび上がる。線は脈動し、呼吸するかのように明滅を繰り返す。
「魔方陣だ!」
「誰が展開した!? いや、自然発生か……?」
叫び声が重なる中、魔方陣の中心が大きく歪む。
――それは、這い出てきた。
粘ついた泥を引き裂きながら、重く禍々しい影が姿を現す。
湿地の水を滴らせ、腐臭を帯びた空気が一気に広がった。
――バロール・ビースト亜種。
通常種より一回り大きい巨体。
体表には不規則な紫紋が脈打つように浮かび、眼窩には鈍く光る複眼が幾つも並んでいる。
「……でかい……」
「亜種だ……!」
誰かが息を呑む。
だが、すぐに違和感が走った。
「待て……」
「武器が、ない?」
通常なら携えているはずの巨大な包丁型武器が見当たらない。
しかし、それにもかかわらず放たれる魔力圧は、これまでに経験した個体を明らかに上回っていた。
「武器がなくても、この気配……」
「まずい、相当強化されてる!」
その言葉に応えるかのように、バロール・ビースト亜種が低く唸る。
泥を弾き飛ばしながら、巨体の右腕を大きく振りかぶった。
――ドガァッ!!
地鳴りのような衝撃。
湿地が爆ぜ、泥水が高く舞い上がる。
「避け――」
叫びが間に合わなかった。
前列にいた学院生の一人が直撃を受け、巨腕に弾き飛ばされる。
身体は宙を舞い、そのまま泥の中へ叩きつけられた。
「リオン!!」
名前を呼ぶ声が悲鳴に変わる。
倒れた彼は呻き声を上げたきり、動かない。
「くそっ……応戦しろ!」
「距離を取れ! 散開だ!」
学院生たちは必死に攻撃魔術を展開する。
だが――。
術式が形成された瞬間、魔力が乱され、光が歪む。
「発動しない!?」
「いや、出た……けど――!」
放たれた魔術は、途中で霧散するように消えた。
わずかに通った攻撃も、巨体の表皮に触れた瞬間、弾かれる。
「魔力が安定しない!」
「干渉がひどすぎる……!」
攻撃は通らず、逆に敵意だけを刺激していく。
「まともに……効かない……!」
誰かの声が震える。
泥水が靴に染み込み、足を重くする。
冷や汗と湿気が混じり、視界が狭まっていく。
恐怖。
焦燥。
魔力の乱れ。
すべてが、戦況を急速に不利へと傾けていった。
その頃、帰還ルートを進んでいたレティアの班も、同じ歌声を耳にしていた。
「……今の、聞こえた?」
イリーナ・カレストが足を止め、眉をひそめる。湿った風に耳を澄ませると、遠くから届く旋律は一見穏やかでありながら、どこか不協和音を孕み、胸の奥をざわつかせた。理屈ではなく、本能が危険を告げている。
「魔力量の急激な上昇を感知しました……」
リゼット・フローレンスが静かに告げる。声は落ち着いていたが、その瞳はわずかに揺れていた。
「波が乱れています。通常の魔物反応ではありません」
彼女の指先から伸びる感知の魔力が、湿地帯の空気をなぞるように震えている。
「前方だ」
ヴィクトール・グランハルトが低く息を吐き、即座に防御結界を展開する。淡い光膜が班を包み込み、空気がきしむ音が走った。
「湿地の奥で戦闘反応を確認。数は……一つだが、異様に強い」
レティアは一瞬だけ足を止め、仲間の顔を順に見渡した。
イリーナの額を伝う汗。
リゼットの唇に浮かぶ、抑えきれない緊張。
ヴィクトールの結界が、外部干渉を受けて微かに揺れる感触。
胸の奥が冷たく締め付けられる感覚を覚えながらも、レティアは杖を握り直し、迷いなく言い切った。
「強敵の可能性が高いわ」
「進路を反転、救援に向かう」
三人は一拍の迷いもなく頷いた。
言葉を交わす必要すらない。学院で積み重ねてきた訓練が、そのまま動きに変わる。
足音が泥を踏むたび、水飛沫が跳ね上がる。
湿地の重たい空気を切り裂くように、班は全力で引き返した。
やがて、視界が開けた瞬間――。
目に飛び込んできたのは、崩れかけた第八班の防衛線だった。
泥に倒れ伏す学院生。
血と泥に濡れ、必死に呼吸を整えながら立つ者たち。
結界が砕ける乾いた音が耳を打ち、湿地特有の腐臭と血の匂いが鼻を突いた。
その中心で、紫紋を脈打たせた異形の巨獣――バロール・ビースト亜種が咆哮を上げていた。
振動が地面を揺らし、肺の奥まで圧迫する。
「……あれが……」
イリーナの声から、いつもの快活さは消えていた。蒼白な顔で、ただその異形を見据える。
「第八班、持ちこたえられない……!」
ヴィクトールが叫ぶ。結界を維持しながらも、額には冷や汗がにじんでいた。
リゼットは震える指で魔力感知を続け、低く呟く。
「……重傷者を確認」
「魔力反応も乱れています。このままでは……」
レティアは胸の奥が凍り付く感覚を押し殺し、杖を高く掲げた。
声を張り上げる。
「後退しながら耐えて!」
「すぐ援護する!」
その声は湿地全体に響き渡り、第八班の耳に確かに届いた。
「……助けが……来た……!」
「レティア班だ……!」
「まだ……戦える……!」
倒れかけていた学院生が、血に濡れた顔を上げる。
折れそうな杖を、もう一度握りしめる。
足を引きずりながらも、泥に沈み込むことを拒み、必死に踏みとどまる。
彼らの瞳に宿ったのは、勝利への確信ではない。
死線の中でようやく見えた、わずかな光明に縋る――生きるための意志だった。
湿地帯の中央で、レティアの号令と同時に戦場が動いた。
「私が足場を固める!」
イリーナが杖を高く掲げ、ほとんど噛みつくような早口で詠唱を紡ぐ。足元の泥がきしりと音を立て、冷気が一気に地表へと流れ込んだ。
《フリーズ・マット》が展開され、ぬかるんでいた地面は瞬く間に凍結する。粘つく泥は硬質な氷床へと変わり、沈み込んでいた足場が確かな支持力を持ち始めた。
「これで……足を取られずに動けるはず!」
氷のきしむ音が戦場に響く。イリーナの額には汗が滲み、呼吸は浅い。
決して高位術式ではないが、広範囲を瞬時に凍結させるには、極めて精密な魔力制御が求められる。その負荷は確実に彼女の身体を削っていた。
「防御は任せろ!」
ヴィクトール・グランハルトが低く、腹の底から声を叩きつけるように唱える。
両腕を前に突き出すと、青白い光が奔流となって噴き上がった。《バリア・リフレクト》が前方に展開され、巨大な盾のように空間を歪ませる。
――バヂィィンッ!
耳を劈く衝突音。
振り下ろされたバロール・ビースト亜種の巨腕が、正面から結界に叩きつけられた。凄まじい衝撃波が湿地を揺らし、氷床に細かな亀裂が走る。
だがヴィクトールは歯を食いしばり、衝撃を真正面で受け止めることなく、斜めに滑らせるように制御した。力の奔流は逸らされ、泥水と氷片が四散する。
「まだ押し返せる」
「結界は……崩させん!」
その落ち着いた声に、第八班の学院生たちの背筋がわずかに伸びた。絶望に沈みかけていた心に、確かな支えが生まれる。
「干渉源を確認……!」
リゼットが一歩前に出る。両手を胸元で組み、複雑な結界陣を展開しながら魔力解析を進めた。
瞳が淡く光を帯び、視界には魔力の流れが立体的に映し出されていく。
「魔力干渉の源は……魔獣の背部」
「魔核周辺です……!」
彼女の声は低いが、はっきりとしていた。
「そこから、歌のような共鳴波が発せられています」
その情報に、第八班の学院生たちが一斉に顔を上げる。
恐怖の中で掴んだ、初めての明確な突破口だった。
「背部を狙う!」
レティアが即座に指揮を執る。迷いのない声が、戦場を貫いた。
「前衛は囮、後衛は回り込んで!」
氷床が足場を守り、結界が正面からの圧力を受け止め、感知が攻撃の要を導く。
役割が噛み合い、戦線が再構築されていく。
第八班も呼応した。
矢が放たれ、物質召喚型の魔術が次々と展開され、攻撃は一点へと集中していく。
「いけぇぇぇっ!」
一人の学院生が、喉を裂くような叫びとともに渾身の炎槍を放った。
赤い閃光が湿地を照らし、魔核付近へと一直線に突き刺さる。
――グォオオオオオッ!!
バロール・ビースト亜種が凄まじい咆哮を上げる。
紫紋が不規則に明滅し、衝撃波が空気を震わせ、肺を圧迫した。
学院生たちは耳を塞ぎながらも、決して視線を逸らさなかった。
「……効いてる!」
「今なら……押せる!」
恐怖に塗り潰されていた表情に、わずかな闘志が戻り始める。
だが戦況は依然として危うい。
巨獣の力は衰えず、咆哮の余波だけで体勢を崩されそうになる。
それでも――。
「全員、私の指示に従って!」
レティアの声が重なり、戦場をまとめ上げる。
「攻撃魔術は不安定」
「でも、物質召喚型なら干渉を受けにくい!」
「土と氷を中心に!」
彼女は息を整える間もなく、即座に魔術式を構築した。
杖先に魔力が収束し、地面へと叩き込まれる。
「《ストーンバインド》――発動!」
轟音とともに、湿地の地面が裂ける。
巨獣の足元から岩塊が突き出し、鋭い岩の鎖となってうねりながら絡み合い、巨体を縛りつけていった。
「ギギギィィ……ッ!」
異形の咆哮が響き渡る。巨獣は暴れ、拘束を引き剥がそうとするが、岩鎖は軋む音を立てながら、さらに食い込んでいく。
「今のうちに陣形を立て直して!」
レティアは叫ぶ。
「交代で魔力を循環!」
「攻撃を……止めないで!」
学院生たちは必死に頷いた。
震える手で魔術を再構築し、乱れた呼吸を整え、再び矢を番え、詠唱を続ける。
「よし……」
「まだ戦える……!」
「俺たちも……」
「まだ、終わってない!」
戦場に立つレティアの姿は、冷静かつ迅速に采配を下す指揮官そのものだった。
その声に背中を押され、学院生たちの瞳には再び確かな光が宿り始めていた。




