第五部 第三章 第4話
午後の穏やかな陽光が学院の門前を照らす中、やがて遠くから複数の足音が重なって響いてきた。
砂利を踏みしめる乾いた音、革装備が擦れる低い響き、そこに混じる笑い声や安堵のため息。
門の向こうから徐々に人影が増え、次々と帰還する班の姿が視界に入ってくる。
待機していた学院生たちが顔を上げ、教官たちが自然と姿勢を正す。
門前の空気は、それまでの静けさを一気に破り、ざわめきと熱を帯びていった。
最初に戻ってきたのは第七班だった。
班長はやや誇らしげに胸を張り、汗と泥にまみれた装備のまま教官の前へ進み出る。
その背後では、班員たちが互いに肩を貸し合い、歩調を合わせながら門をくぐっていた。
どうやら道中で魔獣と交戦し、軽傷者が出たらしい。
包帯を巻いた腕、擦り傷の残る頬、それでも誰一人脱落せずに戻ってきた姿には、確かな達成感がにじんでいた。
「途中で魔力狼に出くわしたけど、即席で結界を張って時間を稼いだんだ」
班員の一人が、やや興奮気味に語る。
「正面から当たったら厳しかったけど、囲まれる前に距離を取れた」
別の班員が腕を組み、少し悔しそうに続けた。
「でも、あの時の連携はもう少し改善できるな……」
「声掛けが遅れた。判断が一拍遅れたのは反省点だ」
その言葉に、周囲から小さな感嘆や同意の声が上がる。
「確かに」「次はもっと早く共有しよう」
誰もが、自分たちの経験を咀嚼しながら次へ繋げようとしていた。
少し離れた場所で様子を見ていたアリスたちも、そのやり取りに自然と耳を傾けていた。
ラースが腕を組み、ぽつりと呟く。
「魔力狼か……」
「単体ならまだしも、群れで来たら厄介だよな」
ザックは顎に手を当て、思考を巡らせる。
「即席の結界で時間を稼げたのは冷静な判断だ」
「俺たちも似た状況なら、感知を抑えて退路確保を優先するべきだな」
ミレーネも小さく頷き、柔らかく微笑んだ。
「こうして他班の話を聞けるのは貴重ね」
「互いの成功も失敗も持ち帰る。それ自体が演習の成果だわ」
やがて、次の班が門をくぐる。
第十班だった。
彼らは門を越えた途端、水筒を回し合いながら大声で笑っていた。
緊張の糸が切れたような、開放的な空気をまとっている。
「俺たちは湿地帯で大失敗!」
一人が身振り手振りを交えて声を張り上げる。
「靴が泥に埋まって抜けなくなったやつがいてさ!」
「結局、全員で引っ張って大騒ぎだったな!」
別の班員が腹を抱えて笑う。
「おかげで装備も泥だらけだ」
その話に、周囲からどっと笑いが漏れた。
張り詰めていた門前の空気が、少しずつ柔らいでいく。
ラースもつられて笑いながら言う。
「そりゃ災難だな」
「俺も一度はまったけど、運よくすぐ抜けられた」
十班の班員が肩をすくめ、苦笑しながら返す。
「羨ましいな」
「俺なんか片足丸ごと埋まって、引っこ抜くのに五分はかかったよ」
「あの時は本気で靴を捨てるか悩んだ」
「でも、全員で助け合ったんでしょ?」
アリスが穏やかに声をかける。
「それなら、良い訓練になったはずよ」
十班の班員たちは顔を見合わせ、次第に表情を和らげた。
「まあ……確かに」
「誰も置いていかなかったしな」
その一方で、疲労の色が濃い班もいた。
第九班は門前で荷を下ろしきれず、装備の整理に手間取っている。
教官の低い声が響く。
「基本動作の徹底が甘い」
「帰還時ほど、気を抜くな」
班員たちは俯きながらも真剣に耳を傾けていた。
悔しさを滲ませつつも、その背中からは、次は必ず改善しようという強い意志が感じられる。
アリスたちは焚き火跡の横に腰を下ろし、そうした帰還の光景を静かに見守っていた。
誰かの失敗も、誰かの成功も、すべてが次の糧になる。
午後の陽光の下、門前は次第に人で満ち、
演習という一つの時間が、ゆっくりと終わりへ向かって収束していくのだった。
やがて、別の班の学院生が少し逡巡するような足取りで近づいてきた。
第十二班の班員らしく、服や外套にはまだ乾ききらない泥がこびりついている。袖口を整える余裕もなかったのか、歩きながら何度も裾を払っていたが、結局諦めたようにそのまま声をかけてきた。
「なあ……」
視線をアリスたちに向け、半信半疑の色を隠さずに続ける。
「お前たちって、本当にスラッシュ・ボアを倒したんだろ?」
「さっき他の班から聞いた時、正直、半分冗談かと思ったんだが」
突然の直球に、アリスは一瞬だけ言葉を選び、それから苦笑を浮かべて頷いた。
「ええ。突発的な遭遇だったけど……なんとかね」
「正面から戦うつもりはなかったけど、避けられなかったの」
その横で、ラースが待ってましたと言わんばかりに胸を張る。
口元には、疲労の中にも少年らしい得意げな笑みが浮かんでいた。
「俺の剣でトドメを刺したんだぜ」
「真正面から受け止める形になってさ。あれはさすがに骨が折れたな」
「一歩踏み外してたら、泥ごと吹き飛ばされてたと思う」
「はいはい、自慢はほどほどに」
ミレーネが笑いながら軽く肩をすくめ、やんわりと釘を刺す。
「確かに大変だったけど、全員で役割を分けた結果でしょう?」
第十二班の学院生は目を丸くし、何度も視線をラースとアリスの間で行き来させる。
やがて、信じられないものを見るように息を吐いた。
「……本当にやるな」
「俺たちなんて、森ネズミの群れに足止めされたくらいだぞ」
その言葉に、今度はザックが興味深そうに顔を上げた。
「森ネズミ?」
「……あの、動きが早くて集団で撹乱してくるやつか」
「そうだ」
第十二班の学院生は苦笑しながら肩を落とす。
「結界を展開しても、隙間を見つけてすり抜けてくるから大騒ぎだった」
「足元を狙われて、全員で何度も転びそうになった」
少し間を置いてから、照れくさそうに続ける。
「でもな、最終的には焚き火に誘導して追い払ったんだ」
「煙と光が嫌いらしくてさ。完全撃退じゃないけど、道は確保できた」
その話に、アリスはしっかりと頷いた。
表情は真剣で、評価するような落ち着いた眼差しを向ける。
「それも立派な対応よ」
「無理に戦わず、場に応じて方法を変えられたのは大きいわ」
「演習では、勝つことより判断を誤らないことの方が大事だから」
第十二班の学院生は一瞬ぽかんとした後、耳まで赤くなった。
「……そう言われると、ちょっと救われるな」
「ありがとう」
照れ隠しのように頭をかき、仲間の待つ場所へと戻っていった。
背中には、ほんの少し誇らしげな気配が宿っていた。
さらにしばらくして、次に戻ってきたのは第六班だった。
彼らは門をくぐるなり、口々に不満を漏らしながら歩いてくる。
「撤収に手間取って、結局最後の班に近くなっちまった」
「手順を確認しながらやったつもりだったんだけどな……」
「しかもさ」
別の班員が深くため息をつく。
「片付け忘れたペグが一本あって、教官に徹底的に叱られたんだ……」
「地面に埋もれて見えなかったって言い訳したけど、当然通らなかった」
仲間同士で愚痴をこぼし合っているが、その口調にはどこか余裕もある。
本気で落ち込むというより、次への戒めとして噛み締めている様子だった。
ラースが軽く笑いかける。
「でも、それも良い経験になったんじゃないか?」
「次からは絶対忘れないだろ」
「……まあな」
第六班の学院生は肩をすくめ、苦笑する。
「次は撤収担当を二人に分けるさ」
「同じ失敗は繰り返さない」
その目には、悔しさと同時に前向きな光が宿っていた。
こうしているうちに、アリスたちの周囲も次第ににぎやかになっていく。
班同士の垣根は自然と低くなり、気づけばあちこちに小さな輪ができていた。
「俺らの班は食糧の管理が甘くてな」
別の班の学院生が笑い混じりに語る。
「干し肉を全部一度に煮込んじまったんだ」
「はは、それは大失敗だな」
誰かが即座に突っ込む。
「二日目はどうしたんだ?」
「結局、キノコを探して食べたさ」
「まあまあ旨かったけど、教官には“計画性がなってない”って叱られた」
その会話に周囲がどっと笑い、場の空気はさらに和らいでいく。
緊張と疲労が、笑いと共有によって少しずつほどけていった。
ミレーネはその光景を静かに眺めながら、柔らかく微笑んだ。
「こうして話してみると……」
「どの班も、それぞれの課題を持ち帰ってるのね」
「そうだな」
ザックが応じ、真剣な表情で頷く。
「俺たちも他人事じゃない」
そう言いながら、ザックは記録札を取り出し、細かく文字を書き留め始めた。
行軍、戦闘、他班の失敗例や工夫――一つ一つを逃さぬよう、丁寧に。
「帰ったら報告書をまとめる時に役立つ」
「成功例だけじゃなく、こういう失敗例も含めて残しておいた方がいいだろ」
その姿を見て、アリスは目を細めた。
胸の奥に、静かだが確かなものが込み上げてくる。
(今日の演習は……)
(どの班にとっても、ただの課題じゃない)
(試練であり、学びであり、次へ進むための一歩だったんだ)
門前に集う学院生たちの声が、午後の空に溶けていく。
それぞれが得たものを胸に、次の段階へ進む準備は、確実に整いつつあった。
時間が経つにつれ、待機していたアリス班の疲労も、じわじわと表に出はじめていた。
長時間同じ場所に腰を下ろし、緊張と安堵を行き来する中で、集中力は確実に削られていく。
木陰を抜ける風は心地よいはずなのに、身体の重さだけが際立って感じられた。
「……ううん、寝ちゃってたみたい」
ミレーネが小さく声を上げ、慌てたように目をこすった。
自分でも驚いたのか、軽く首を振って意識をはっきりさせ、乱れた髪を指で整える。
「少しうとうとしてたわ……恥ずかしい」
「気を張ってた反動ね。身体が正直すぎるわ」
「この待ち時間じゃ仕方ないよな」
ザックも肩を大きく回し、固まっていた筋肉をほぐす。
果実水を一口含み、ゆっくりと息を吐いた。
「緊張が切れたところで、急に疲れが出る」
「それに、情報も動きもない状態が一番消耗するんだ」
ラースも石造りのベンチに背を預け、空を見上げる。
「俺も正直、脚が重くなってきた」
「戦ってる時より、こうして待ってる方がきついな」
その様子を見ながら、アリスは小さく息を整えた。
自分も同じ感覚を抱いていることを、否定できなかった。
「でも……もうすぐ、残りの班も戻ってくるはずよ」
「今は休めるだけ休んで、戻ってきた時にすぐ対応できるようにしておきましょう」
「気を抜きすぎないようにね」
三人はその言葉に頷き、再び門の方へと視線を向けた。
やがて、残る班の数が少なくなっていくのが、教官たちの動きからも分かるようになった。
記録板に残る空白は、あとわずか。
「……残り、あと三組ね」
アリスは門の奥を見つめながら、思わず声を落とした。
その三組の中に、レティアが班長を務める班が含まれている。
「レティアの班……」
「大丈夫、よね……?」
その小さな呟きに、ミレーネがすぐ反応する。
「……心配になるわよね」
「でも、レティアなら冷静に判断するはずよ」
ザックも腕を組み、低く言う。
「彼女の性格を考えれば、無理はしない」
「だからこそ、遅れている理由が気になるんだ」
門前で待機していた他の学院生たちも、次第に落ち着かない様子を見せ始めていた。
さきほどまでの和やかさは薄れ、ざわめきの質が変わっていく。
「もうだいぶ経ったよな……」
「普通なら、そろそろ着いてもいい頃じゃないか?」
そんな声が、あちこちから漏れ聞こえてくる。
仲間同士で顔を見合わせ、不安を共有する姿も増えていた。
やがて――。
一つの班が、ようやく門をくぐった。
服や外套は泥に汚れ、肩で息をしながら歩いてくる様子から、道中で相当な苦戦を強いられたことが伝わってくる。
「ふぅ……ようやく戻れた……」
「正直、途中で引き返すかと思った」
班員の一人が力なく笑い、別の者が水筒に口をつける。
「湿地帯で足を取られて、完全に時間を食ったんだ」
「結界の維持にも魔力を使いすぎて……最後はほとんど空だった」
班長が教官へ報告する声は疲労ににじみ、それでも責任を果たそうとする必死さがあった。
手続きを終えた彼らは、同じように待機している学院生たちへ声を落として話し始める。
「にしても……」
「まだ、レティアの班、戻ってないんだな」
「おかしいよな」
「だって、俺たちより早く野営地を出発してたはずだぞ」
「そうそう」
「荷も軽かったし、正直、先に門に着いてるもんだと思ってたんだが……」
その言葉が広がるにつれ、門前のざわめきは明確な不安へと変わっていった。
アリスの胸も、どくりと強く脈打つ。
(……やっぱり、何かあったの?)
門前の空気は再び重く沈み、残る二班――その帰還を待つ緊張が、じわじわと全員を包み込んでいった。
そう思った矢先だった。
門の向こう、学院へ続く石畳の奥から――ひとつの影が、必死な勢いで駆けてくるのが見えた。
隊列でもなく、仲間に挟まれることもない。単独で、よろめくように走る一人の学院生。
その異様な光景に、待機していた学院生たちの視線が一斉に集まった。
ざわり、と空気が揺れる。
「……ひとり?」
「どういうことだ……?」
小さな囁きが、瞬く間に連なって広がっていく。
学院スタッフのひとりが即座に反応し、足を止めた。
別のスタッフは状況を察したように、医療用の道具箱を抱え、門前へと駆け出す。
教官もまた、表情を一変させた。
それまで保っていた落ち着きをかなぐり捨て、歩幅を速めて門の前へと進み出る。
「落ち着け」
「周囲は静かに――まずは状況確認だ」
低く抑えた声。
しかし、その奥ににじむ緊迫と焦燥は、誰の耳にもはっきりと伝わっていた。
アリスは、思わずその学院生の姿を凝視した。
制服の色、装備の構成、走り方――。
(……違う)
(あの子は……レティアの班じゃない)
胸に、ほんの一瞬だけ安堵が走る。
だが、それはすぐに、別の緊張に塗り替えられた。
(じゃあ、何があったの……?)
駆け込んできた学院生は、門前でついに力尽きたように足を止めた。
泥にまみれた制服の裾を引きずり、膝をつき、ほとんど倒れ込むような体勢になる。
「水だ!」
「早く、水を!」
スタッフのひとりが水筒を差し出し、別の者が即座に肩を支えた。
学院生の身体は小刻みに震え、荒い呼吸が胸を大きく上下させている。
「しっかりしろ」
「深呼吸だ。ゆっくりでいい」
水を口に含ませながら、教官が正面に立つ。
その視線は鋭く、しかし決して威圧的ではなかった。
「どこで何があった」
「誰の班だ」
「負傷者はいるのか」
矢継ぎ早の問いかけ。
だが、学院生はすぐには答えられない。
喉を鳴らし、肩で息をしながら、必死に言葉を探している。
門前に集まった学院生たちは、誰ひとり声を発さなかった。
先ほどまでのざわめきは嘘のように消え、張り詰めた沈黙が場を支配する。
(……何が起きたの)
(まさか……本当に、何か――)
アリスは唇をきゅっと噛みしめた。
胸の奥が、嫌な予感で締め付けられていく。
学院生は、もう一度大きく息を吸い込み、ようやく顔を上げた。
その目には、恐怖と焦り、そして責任感が入り混じっている。
門前は、まるで戦場の直前のような緊迫感に包まれていた。
次に放たれる言葉が、状況を一変させる――。
誰もが、それを直感していた。




