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第五部 第三章 第2話

 晴天の下、アリスたちは整列したまま、学院へ向けて歩き始めた。


 夜の冷えをわずかに残した朝の空気は澄みきっており、呼吸のたびに肺の奥まで洗われるようだった。

 森を覆う木々は、朝日を受けて葉の一枚一枚が淡く透け、幹の影を地面に長く落としている。

 木々の隙間から射し込む光は斑模様を描き、露に濡れた草が足元で柔らかくきらめいた。


 土は一昨日の夕立の名残か、まだ湿り気を帯びており、歩を進めるたびに靴底にしっとりとした感触が伝わってくる。乾いた場所と柔らかい場所が交互に現れ、無意識のうちに足運びが慎重になった。


 アリスは隊列の先頭を保ったまま、歩調を崩さずに振り返った。

 仲間たちの間隔、呼吸の乱れ、足取りの重さを一瞬で見て取る。

 「踏破ポイントまでは、あと十五分くらいね」

 声は落ち着いているが、森の中ではよく通る。

 「無理に速度は上げないで。足場が湿ってるから、慎重に行こう」


 ミレーネも後方へ視線を送り、隊列全体を包み込むように声を重ねる。

 「特に湿地帯は注意して。踏み外すと、体勢を立て直すのが難しいわ」

 「前の人との間隔も、今のまま維持して」


 やがて隊列は、最初の踏破ポイントである湿地帯の入口に差し掛かった。

 ぬかるんだ泥の上に大小の水たまりが点在し、ところどころに苔むした石や倒木が半ば沈んでいる。

 水面は薄く揺れ、わずかな振動にも反応して波紋を広げる。

 足を置く位置を誤れば、膝まで沈み込み、動きを封じられかねない地形だった。


 アリスは足を止め、魔導杖に静かに魔力を流す。

 杖先が淡く光り、その光が地表から土中へと染み込むように広がっていった。

 地面の硬さ、水の深さ、下に隠れた石の感触が、断片的な情報として意識に返ってくる。


 「……やっぱり、表面より下が柔らかいわね」

 わずかに眉を寄せ、感覚を整理する。

 「深いところは避けた方がいい」


 彼女は一歩前へ出た。

 「安全なルートを先に確認するわ」

 「私が前に立って印をつけるから、間隔を崩さずについてきて」


 小石や倒木の端に、淡く光る印が刻まれていく。

 それは派手ではないが、霧や泥の中でも見失わない程度の確かな光だった。

 仲間たちは一歩ずつ、泥を踏みしめる音を最小限に抑えながら、その印を追って進む。


 しかし、湿地帯特有の魔力干渉が、徐々に感覚を鈍らせていく。

 魔力の流れが微妙に揺らぎ、把握したはずの地形情報が、わずかにずれて感じられた。

 まるで薄い霧が思考の周囲にまとわりつくような感覚だった。


 ザックが足を止め、腕の魔導具を凝視した。

 「……おかしいな」

 指で数値をなぞり、表示を切り替える。

 「感知魔術の反応が、微妙にずれてる」


 再確認するように、操作盤を見つめる。

 「方角と距離が……合わない」


 アリスが即座に振り向く。

 「干渉?」


 「ええ」

 ザックは低く息を吐いた。

 「魔力の流れが乱されてる。地形も複雑で、感覚だけに頼ると判断を誤りそうだ」


 ミレーネが一歩前に出る。

 視線は湿地全体を広く捉えている。

 「こういう場所では、単独感知は危険ね」

 「私が補助感知を重ねるわ」


 ラースへ視線を向ける。

 「体勢を崩す人が出たら、すぐフォローをお願い」


 「了解」

 ラースは短く答え、剣の柄に手を添えた。

 その姿勢には、いつでも踏み込める緊張が宿っている。


 ――その瞬間だった。


 ぬかるみの奥で、ばしゃりと水音が跳ねた。

 水面が大きく乱れ、泥が弾ける。


 「……来る!」

 ラースが即座に声を上げる。


 次の瞬間、泥水を蹴り上げながら、小型の獣型魔獣が二体飛び出した。

 灰色の体毛に泥をまとい、鋭い牙を剥き出しにして一直線に突進してくる。

 湿地に棲む《マッド・ウルフ》――狭い地形では、驚くほどの瞬発力を発揮する。


 アリスが即断する。

 「敵! 二体、正面!」

 声に迷いはない。

 「ラース、迎撃!」

 「ザック、右を封じて!」

 「ミレーネ、結界!」


 「任せろ!」

 ラースは前へ躍り出た。

 泥を蹴り飛ばすように踏み込み、迫る一体の顎を剣で受け止める。


 「――っ!」

 牙と刃がぶつかり、火花が散る。

 低い唸り声が湿地に響いた。


 ザックは即座に魔導具を展開する。

 「拘束、行く!」

 雷光を帯びた陣が地面を走り、右側の魔獣の足元を絡め取った。


 「動き、止めた!」


 「今よ!」

 アリスは詠唱を最短で切り上げる。

 「《フレア・ショット》!」


 炎の矢が湿った空気を切り裂き、拘束された魔獣の胴を貫いた。

 焼け焦げた匂いが立ち上り、獣が苦悶の声を上げて倒れ込む。


 一方、ラースの相手はなお抵抗していた。

 剣を押し返し、泥を跳ね上げて跳び退く。


 「……来るぞ!」

 ラースが身構える。


 その背後で、ミレーネの詠唱が完成していた。

 「《シールド・ウェーブ》!」


 透明な結界が波紋のように広がり、突進の勢いを削ぐ。

 体勢を崩した一瞬を逃さず、ラースが踏み込む。


 「もらった!」

 鋭い一閃が走り、魔獣はその場に崩れ落ちた。


 泥飛沫が収まり、湿地に再び静けさが戻る。

 獣の残骸はやがて魔力に溶け、淡い残滓を水面に残して消えていった。


 ラースが剣を振り、付着した泥を払う。

 「ふぅ……」

 「小型でも、不意打ちはやっぱり厄介だな」


 アリスが即座に声をかける。

 「怪我は?」


 全員が首を横に振った。


 「大丈夫、無傷だ」

 ザックが答える。

 「感知のズレはあったけど、対応は間に合った」


 ミレーネも頷く。

 「結界の消耗はあるけど、支障はないわ」


 アリスは胸をなで下ろし、仲間を見渡した。

 「よし」

 「油断はできないけど……今の連携は完璧だった」


 小さく息を整え、前を向く。

 「このまま行こう。次の区画までは、同じ警戒レベルで」


 再び隊列を整え、四人は湿地の奥へと進んでいった。


 その後、一行は視界の悪い低木の丘陵地へと足を踏み入れた。

 木々は背丈ほどの高さで密集し、細い枝が複雑に交差して進路を覆い隠している。葉は広く、重なり合って光を遮り、ところどころで枝先が垂れ下がって肩や髪に触れた。

 道と呼べるほどの明確な踏み跡はなく、曲がりくねった獣道の名残が迷路のように錯綜している。


 足を踏み出すたび、靴底の下で枯葉が湿り気を含んだ音を立てた。

 地面には一昨日の夕立の名残がまだ残っているのか、見た目には乾いている場所でも、踏み込むとぬかるみが潜んでいる箇所がある。油断すれば足を取られ、体勢を崩しかねない。


 この区域は湿地帯ほど露骨ではないものの、確かに魔力干渉が漂っていた。

 空気はどこか重く、結界や感知に使う微細な魔力の糸が、流した瞬間にぶつりと鈍る感触がある。

 魔力が弾かれるというより、絡め取られて薄まるような、嫌な感覚だった。


 「……感知が不安定」

 ミレーネが声を落として注意を促す。

 「みんな、気を付けて。魔力が途切れやすいわ」


 その声音には、いつもの冷静さの奥に、わずかな緊張が滲んでいた。


 「了解」

 アリスも小さく頷き、歩調を落とす。

 杖の先端から淡い光を広げ、慎重に魔力を流した。


 波紋のような光が足元から周囲へと広がり、木々の陰影や地形を淡く浮かび上がらせる。

 だが、その輪郭はすぐに揺らぎ、霧に包まれるようにぼやけてしまった。


 「……やっぱり、長くは保てないわね」

 アリスは低く呟き、感知を断続的に切り替える。


 一行は自然と言葉少なになり、誰もが枝葉をかき分けながら慎重に足場を確かめて進んでいた。

 ラースは前方で身をかがめ、剣をすぐ抜ける位置に構え、視線を低く保っている。

 ザックは手元の魔導具を操作し、短い間隔で感知を試みながら、数値の変化を記録していた。


 ――その時。


 茂みの奥から、ぱさり、と葉が擦れる音がした。

 続いて枝葉が揺れ、細い影が素早く駆け抜ける。


 全員の足が同時に止まる。

 心臓が一瞬、強く脈打った。


 空気が張り詰め、わずかな音さえも過剰に響く。


 耳を澄ますと、甲高い鳴き声が遠くから返ってきた。

 短い鳴き交わしが複数重なり、丘陵の奥で反響している。


 「……っ」

 ラースが反射的に剣をわずかに引き抜きかける。


 だが、アリスがすぐに手を上げて制した。

 「待って」

 視線を巡らせ、気配を探る。

 「小動物ね。魔力反応も弱い。危険はなさそう」


 警戒は解かず、そのまま進もうとした――次の瞬間。


 近くの茂みが、がさり、と大きく揺れた。

 数匹のウサギやリスが飛び出し、驚いたように跳ねる。


 「わあっ!」

 思わずラースが身を引く。


 動物たちはこちらの存在に怯え、一直線に森の奥へと駆け去っていった。

 枝が揺れ、落ち葉が舞い、やがて再び静けさが戻る。


 「……びっくりした」

 ミレーネが胸元に手を当てる。

 「ほっとしたけど、やっぱり自然の中は予測できないことがあるわね」


 ザックも小さく息を吐いた。

 「音だけで判断すると、紛らわしい場所だ。感知が乱れてる分、なおさらだね」


 アリスは周囲を一度見回し、改めて声をかける。

 「でも、こういう経験こそが大事よ」

 「最後まで集中を切らさないで」


 仲間たちは短く頷き、姿勢を正した。


 しかし、森の奥は依然として薄暗く、不穏な気配が完全に消えることはなかった。

 アリスは杖を強く握り直し、声を潜めて言う。


 「気を緩めないで」

 「自然の中では、些細な動きが次の兆候になることもある」


 その言葉に、全員の表情が引き締まる。

 足並みを整え、再び進行を再開した。


 丘陵地はまだ続いていた。


 枝葉をかき分けるたび、湿った葉が服に触れて冷たさを残す。

 ぬかるみを避けて踏み出す足音は重く、時折、小石や枯れ枝が崩れて乾いた音を立てた。

 緊張の糸を切らさぬよう、誰も余計な言葉を発しなかった。


 やがて斜面は徐々に傾斜を増し、足場はさらに不安定になる。

 ラースは剣を杖代わりにして前を切り開き、

 ザックは背の高い茂みを押し分けながら後衛を守る。

 ミレーネは後方から感知魔術を繰り返し流し、途切れがちな魔力の波を拾い上げようと集中していた。

 アリスは先頭で杖を光らせ、一歩一歩が確実に安全であることを示し続ける。


 緊張に包まれた行軍の末――。


 丘を登りきった瞬間、視界が一気に開けた。

 重く垂れ下がっていた枝葉が途切れ、朝の光が降り注ぐ。


 肌をなでる風は涼やかで、閉ざされた空間から解放されたように胸いっぱいに空気が広がった。


 その先に見えたのは、森の向こうにそびえ立つ学院の敷地だった。

 高く伸びる尖塔と堅牢な城壁が、朝日に照らされて輝いている。


 「……見えた!」

 最初に声を上げたのはラースだった。

 険しかった表情が一瞬でほころび、肩から力が抜ける。


 「学院……」

 ミレーネも安堵の息をつく。

 「戻ってこれたんだね」


 ザックは淡々と前を見つめたまま言う。

 「思ったより、時間もかからなかったな」

 その声には、わずかな安堵が滲んでいた。


 アリスは仲間たちを振り返り、小さく微笑んで頷く。

 「うん……」

 「もうすぐ帰れるわ。でも、最後まで気を抜かずに行きましょう」


 その言葉に全員が頷き、

 安堵の中にも緊張を残したまま、学院へと続く最後の道を踏み出した。


 こうしてアリスたちは、大きなトラブルもなく無事に学院へ帰還することができた。

 足には疲労が残り、靴も泥に汚れていたが、その表情には確かな達成感と充実感が刻まれていた。

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