第五部 第三章 第1話
そして、演習二日目の朝。
夜明けの気配とともに空が少しずつ白みはじめ、やがて東の地平線から朝日が顔を出す。赤と金の光が森を染め、露に濡れた草木がきらきらと輝きを返した。
アリスは静かに目を開き、寝袋の中で一度だけ深く息を吸ってから体を起こす。
まだ冷えた空気が肌に刺さるようだったが、肺に入る酸素は澄み切っていて心地よい。
寝返りを打つ仲間たちを振り返り、声を抑えて呼びかける。
「おはよう、みんな」
「今日は朝食の準備、私とザックがやるわ」
「ラースとミレーネは、撤収前に装備確認をお願い」
ラースが寝袋の中で顔をしかめ、片目だけを開けた。
「りょーかい……」
「正直、まだ眠いけど……やるよー」
頭をかきながら、のそりと寝袋から這い出してくる。
ミレーネも小さなあくびを漏らしながら身を起こした。
「もう少し寝かせてって言いたいところだけど……」
「初日でだらけるわけにもいかないわね」
「任せて」
テントの外に出たアリスとザックは、ひんやりとした朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。
白い息が一瞬だけ宙に溶け、すぐに消えた。
「昨日より冷えるね」
ザックが肩をすくめる。
「ええ。でも、空気は気持ちいいわ」
アリスはそう言って保存食と野菜を取り出し、簡易コンロと魔導加熱具を設置する。
「手早く作りましょう。撤収もあるもの」
包丁で野菜を切る音、金属器具が触れ合う音が、まだ眠りを残した静かなキャンプ地に響いた。
一方で、ラースとミレーネは装備の確認に取りかかっていた。
ラースは剣を軽く引き抜き、刃を傾けて朝日を反射させる。
「よし、刃こぼれなし」
「鞘の固定も問題ねぇな」
革鎧の留め具を確かめ、肩当ての位置を微調整する。
「昨日より体が軽い」
「これなら斜面でも踏ん張りが効きそうだ」
ミレーネは小さな手鏡を取り出し、胸元の魔導具や装飾の欠損を確認していた。
「魔力の流れは安定」
「補助結界用の触媒も揃ってるし、昨日消費した分は全部補充済み」
ふとラースの腰元に視線を向ける。
「……ラース、薬草袋の口紐、緩んでるわ」
ラースがぎょっとして手を伸ばす。
「おっと」
「ありがと。危うく道中で落とすところだった」
「こういうの、意外と見落としがちだから」
ミレーネは淡々と言い、再び確認に戻った。
二人のやり取りは短いが確実で、互いの役割が自然に噛み合っているのがわかる。
鍋を覗き込んだザックが声を上げる。
「スープ、もう少し塩足してもいい?」
アリスは味を確かめ、頷いた。
「うん、それくらいでちょうどいいと思う」
干し肉を薄切りにしてパンに挟み、香草を散らして軽く焼く。
焼き面から立ち上る香ばしい匂いが、朝の空気に溶け込んでいく。
「朝から手際いいな、アリス」
ザックが感心したように言う。
「慣れてるだけよ」
アリスは小さく肩をすくめる。
「昔は野営なんて、ほとんど日常だったから」
香りに誘われ、装備点検を終えたラースとミレーネが顔を覗かせた。
「……うわ、いい匂いしてきた」
「これは、朝から元気出るわね」
二人の表情に活力が戻っているのを見て、アリスは内心ほっとする。
やがてスープが出来上がり、四人は簡単な食器を手に焚き火を囲んだ。
「いただきます!」
朝の冷たい空気の中で、湯気の立ち上るスープと温かいパンは格別だった。
「スープ、ほんと絶妙だな」
ラースが頬張りながら言う。
「朝からありがたい」
「ありがとう」
アリスは笑う。
「でも、味付けはザックよ」
「いや……」
ザックは照れたように視線を逸らす。
「素材が良かっただけだよ」
「これなら多少の湿地帯も乗り越えられそうだ」
ラースが冗談めかす。
「……油断すると、靴が泥だらけよ」
ミレーネが苦笑しつつ返す。
食後はすぐに片付けに入り、全員で撤収作業に移った。
昨日はぎこちなさが残っていた工程も、この朝は驚くほど滑らかに進む。
ラースはロープの結び目を迷いなく解き、ミレーネは荷物を的確に仕分ける。
ザックは地面を念入りに清掃し、使用痕が残らないよう土を整えた。
その光景を見ながら、アリスは自然と笑みを浮かべる。
「……すごいわ」
「昨日よりずっとスムーズね」
「もう立派な野営班って感じ」
「ふふ、リーダーがいいからかな?」
ミレーネが少し照れたように言う。
「だな」
ラースが頷く。
「ちゃんと教わったから、身についたってことだ」
最後に焚き火の跡を土で覆い、地面を整える。
周囲を見回し、忘れ物がないことを確認してから、アリスは頷いた。
「忘れ物、なし」
「テントの結び目も解いた」
「……よし、準備完了」
「簡易結界、解除完了」
ザックが続ける。
「周囲も異常なし」
全員の報告を受け、アリスは班をまとめるように声を上げた。
「それじゃあ、教官に撤収完了を報告しましょう」
四人は荷を背負い、整列して教官のもとへ向かう。
既に他の班も続々と撤収を終え、教官の周囲には小さな列ができていた。
アリスが一歩前に出る。
「第十五班、撤収完了を報告します」
教官は記録板を手に頷いた。
「よし、確認する」
焚き火跡、土の覆い方、周囲の清掃、結び目の始末まで、鋭い目で点検していく。
「……ふむ。焚き火跡、処理良好」
「装備の撤収も迅速だ」
「周囲への配慮も行き届いているな」
記録板に書き込み、アリスたちを振り返る。
「第十五班、撤収作業――合格だ」
張り詰めていた空気が緩み、四人は小さく息を吐いた。
教官の声が全体に響く。
「では各班、撤収完了をもって帰還行程に入る」
「正午までに学院へ戻ること」
「最後まで気を抜くな」
生徒たちが一斉に応じる。
「了解!」
アリスは仲間に振り返り、力強く言った。
「それじゃあ、最後の行程よ」
「気を抜かずに、出発しましょう!」
晴天の下、朝日を背にしたアリス班は再び整列し、学院への帰還の道を進み始めた。
昨日よりも、確かな一体感を帯びた足取りで――。
その様子を、少し離れた位置から教官が静かに見守っていた。
歩調を合わせるでもなく、かといって距離を詰めすぎることもない。
常に一定の間合いを保ったまま、生徒たちの背を追っている。
教官の左手には、いつも通り記録板。
右手には細身の筆具。
視線は休むことなく、各班の動きを追っていた。
歩行間隔。
荷の揺れ。
足取りの乱れと呼吸の荒さ。
それらを一つずつ拾い上げるように観察する。
アリスたち第十五班に視線を留め、教官は小さく息を吐いた。
「第十五班……」
低く呟きながら、筆先を走らせる。
「足並み、良好」
「歩行間隔の維持、安定」
「撤収の速さに続き、移動時の統制も崩れていない」
一瞬、ラースの肩の動きを見て眉を寄せる。
「……疲労は見えるな」
だが、すぐに視線を全体へ戻す。
「それでも、隊列が乱れない」
「個々の疲れを、統率で補えている」
さらさらと文字を書き込みながら、小さく頷く。
「班長の判断が的確だ」
視線を前方へ移す。
第七班の列は、わずかに間延びしていた。
荷の重さに耐えかねて肩を落とす者。
列の中で視線を逸らし、周囲への注意が散漫になっている者。
小さな私語が、風に乗って断片的に届く。
教官の目が細くなる。
「……第七班」
記録板に、やや強めの筆圧で書き込む。
「連携意識に乱れ」
「帰還路での集中力低下」
一拍置いて、低く続ける。
「疲労時こそ、班の本質が出る」
「ここで崩れるのは評価を下げる要因だ」
さらに後方へ視線を向ける。
第十班は、淡々と無言で進んでいた。
隊列は揃っている。
歩幅も一定。
誰一人として遅れはない。
だが――
教官はわずかに眉を動かす。
「……静かすぎるな」
記録板に目を落とし、言葉を選ぶ。
「第十班、整列状態は良好」
「だが、声かけが皆無」
前後の生徒同士が、互いを確認する気配がない。
個々が、自分の足元だけを見て進んでいる。
「協調性に欠ける」
「各個人の集中力に頼りすぎだ」
淡々と書き込みながら、小さく鼻で息を吐く。
「事故が起きるときは、こういう班だ」
記録板には、各班の長所と課題が静かに積み重なっていく。
そこに感情はない。
あるのは事実と評価だけだ。
再び視線を前方へ戻す。
朝日を浴びながら進む、第十五班の背中。
四人の歩調は揃い、
誰かがわずかに遅れれば、自然と速度が調整される。
教官は小さく呟いた。
「……初日のぎこちなさは、もう見えないな」
記録板に新たな一文を刻む。
「第十五班」
筆を止めず、言葉を重ねる。
「班長の指示が機能」
「統率が行動に反映されている」
一瞬だけ視線を横に流し、他班の列を見比べる。
「……他の班への、良い刺激にもなっている」
最後に、少しだけ筆圧を強める。
「総合評価、高水準」
そう記すと、教官は記録板を閉じ、再び歩を進めた。
歩調は一定。
距離も変えない。
帰還の道そのものが、最後の試験。
そのことを、生徒たちはまだ完全には理解していない。
だが――
歩き方一つ。
声の掛け方一つ。
視線の向け方一つ。
そのすべてが、確実に評価へと繋がっていく。
教官は無言のまま、最後まで各班の背を見守り続けていた。




