第一部 第二章 第7話
駐屯地の大浴場は、木造の梁と石壁が調和した広い造りだった。
磨き込まれた木の床からは、ほのかに香る檜の匂い。
湯気の向こうでは、柔らかく灯る魔導灯が水面を淡く照らし、揺らめく光が天井に反射して小さな星のように瞬いていた。
湯面から立ち上る蒸気は薄く霞のように漂い、外の冷えた夜気を忘れさせるほどに暖かい。
広々とした岩風呂には、ミラージュ王国魔導騎士団の女子たちと、十五班の女子たちが肩を並べていた。
昼の訓練で張り詰めていた緊張が、湯のぬくもりに溶けていく。
あちこちから上がる笑い声が、まるで湯気と一緒に空気の中を舞い、岩壁に柔らかく反響していた。
「……はぁ〜、もうここから動きたくない……」
レティアは湯船の縁に顎をそっと乗せ、赤らんだ頬を湯気に包ませながら、目を細めて幸せそうにため息をついた。
肩まで浸かった湯の温もりが、じんわりと体の芯まで染み渡っていく。
金色の髪が湯面にふわりと浮かび、ほのかな光を反射してきらきらと揺れた。
「さっきまで狙撃演習したり剣を振り回してたのが嘘みたいですね」
リナが小さく笑いながら言い、濡れた髪を指でかき上げる。
頬にはまだ日中の緊張の名残が残っていたが、その表情はどこか柔らかい。
「本当だね。でも、こうやってみんなでゆっくり入るのも悪くないな」
アリスは湯船の縁に両腕を預け、静かに目を閉じた。
湯気の向こうで、魔導灯の光が反射し、肌に金の輝きを落とす。
昼間の剣術競技の余韻――緊張と集中の名残が、湯の中でほどけていくのを感じた。
肩の力が抜け、ふっと息を吐いた瞬間、ようやく心が穏やかに沈んでいく。
その隣では、ミラージュ魔導騎士団の先輩が湯面を手で撫でながら、くすくすと笑った。
「グレイスラーさんって、もっと無口で近寄りがたい子かと思ってたけど……意外とおしゃべりなのね」
アリスは目を瞬かせて顔を上げる。
「えっ、そう見えてたんですか」
「だって、剣を振ってるときのあの目。まるで人斬りみたいだったもの」
湯の奥から別の女性騎士が笑いながら声を上げると、周囲から「ほんとそれ!」と小さな笑いが広がる。
アリスは顔を真っ赤にし、慌てて両手を湯の上で振った。
「ちょ、ちょっと! 誤解です! 人なんて斬ってませんからっ!」
笑い声が湯気の中で弾け、まるで小さな花火のように広がっていく。
空気が温かく柔らかくなり、昼間の競技場では見られなかった穏やかな笑顔がそこかしこに咲いていた。
「リナちゃんも、可動標的の最後、すっごくかっこよかったよ!」
「そ、そんな……あの時はもう必死で……」
リナが頬を赤らめながら小さな声で答えると、別の女子が湯をばしゃっと跳ね上げて笑った。
「いいなぁ〜。私も明日からもっとライフル練習しようかな。可動標的、いつも外しまくりなんだよね」
「じゃあ、今度教えてあげる! あそこを狙うと外さないんだよ!」
レティアが張り切って立ち上がりそうな勢いで、両手でエアライフルの構えを再現してみせた。
湯のしぶきが飛び、周りから「頼りになる!」「先生だ!」と歓声と笑いが湧く。
アリスはそんな光景を眺め、頬を緩めた。
「なんだかんだで、みんな頼もしいんだね」
すると、湯の奥で腕を組んでいた年長の魔導騎士がにやりと笑う。
「もちろんよ! この森の中で魔獣と戦うんだから、女の子でも手加減なんてしてられないのさ」
「それは確かに……」
レティアが肩をすくめ、笑いながらも湯面を軽く蹴る。
静かに湯気が揺れ、魔導灯の光が波紋に反射して天井を照らす。
誰かが笑うたびに、湯の表面に輪が広がり、湯気がふわりと立ち上る。
その温もりに包まれながら、少女たちはひとときの安らぎを共有していた。
湯気がゆらゆらと立ち上る中、笑い声がひとしきり落ち着いたころ。
岩風呂の中央付近で、誰かがふと思い出したようにいたずらっぽく口を開いた。
「そういえば――こういう時って、恋バナが定番じゃない?」
その一言に、湯気の中の空気がふわりと変わった。
くすくすと笑う声があちこちから上がり、肩を寄せ合っていた少女たちが一斉にざわめく。
「恋バナ……?」
リナがぽかんとした表情で問い返す。頬が湯の熱とともに少しずつ赤く染まっていく。
彼女は湯の中で小さく身をすくめ、濡れた前髪を指先でいじりながら恥ずかしそうに目を伏せた。
「リナちゃんみたいに凛々しい子は、きっとすぐお相手ができるんだろうな〜」
「えっ!? そ、そんな話……」
リナの声が裏返り、慌てて湯の中に沈み込む。湯面がぱしゃりと跳ね、周囲から笑いが弾けた。
「でも分かる! リナちゃんって一途そうだし、いざって時に守ってくれそうっていうか!」
「わかるー! アリスさんはどうなんです? あんなに強くて綺麗だし、絶対モテるでしょ?」
湯船の端からそんな声が飛んできて、アリスは一瞬ぎょっとして肩をすくめた。
「え、わ、私? そ、そんなわけないって!」
焦って両手を振るアリスの頬はみるみるうちに赤く染まり、湯の温度がさらに上がったように感じる。
「学院では誰か告白とかしてこなかったの?」
すぐ隣で、レティアが肘でアリスの腕を軽くつついた。
その動作のあと、ほんの一瞬――彼女の指先が離れるまでのわずかな間に、ためらいのような温もりが残った。
「えっと……変なラブレターならあったけど、剣術部の先輩にからかわれただけよ」
その言葉に、レティアの表情がわずかに強張る。
「えっ、それ――どうなったの?」
思わず身を乗り出し、湯がぱしゃりと跳ねた。
声の調子は明るく装っていたが、どこか焦りを含んでいた。
アリスは目を丸くし、慌てて手を振る。
「な、なにって……! なにもないってば。ただのいたずらみたいなものでしょ」
「ほんとに? 返事とか、しなかったの?」
レティアは笑いながら問いかける。けれどその瞳は、どこか不安げに揺れていた。
「しないよ……もう、レティアまでそんなこと聞かないで」
「うわー、絶対気になるって! どんな手紙だったの?」
「だから! 普通の紙に、変な詩みたいなこと書いてあっただけだって!」
アリスの声が裏返り、周りの女子たちはくすくす笑いをこらえきれない。
「ちょ、ちょっとレティア、近いってば!」
アリスが湯の縁に逃げようとすると、レティアは悪戯っぽく笑った。
けれどその笑みの奥には、ほんの一瞬だけ寂しげな影が落ちる。
「ふふっ、やっぱり気になるもん」
その一言に、湯の中の女子たちが一斉に「きゃーっ!」と声を上げ、湯面が波立つ。
アリスはぷくっと頬を膨らませ、恥ずかしさを隠すように湯の縁に顔を埋めた。
「もう……からかわないでよ」
レティアはその背中を見つめながら、ふっと目を細める。
笑い声の中に、自分だけが少し違う鼓動を聞いていた。
「レティアだって狙ってる子とかいないの?」
その言葉に、レティアは一瞬だけぴたりと動きを止めた。
湯気の向こう――柔らかな蒸気の揺らめきの中で、ほんの刹那、アリスの方を見た。
視線が交わったのはほんの一瞬。けれど、互いに気づくほどの静かな間がそこにあった。
すぐにレティアは小さく息を呑み、顔をぱっと湯気の奥に戻すと、悪戯っぽく唇を弧にした。
「ええ!? わ、わたしは……えっと……ふふふ、内緒っ!」
その言葉と同時に、湯面がぱしゃりと跳ね、白い雫が舞う。
ウィンクを添えると、周囲から一斉に「きゃーっ!」と黄色い悲鳴が湯気の中に響いた。
「レティアちゃん、ずるーい! 気になるじゃん!」
「言いなよー!」
湯気の中で笑い声が弾け、湯面が波打つ。
アリスも思わず吹き出し、肩を揺らしながら笑った。
その笑いには、どこかくすぐったい温かさがあった。
――ほんの束の間、戦場の緊張などどこにもない、少女たちだけの穏やかな時間がそこにあった。
やがて名残惜しそうに湯から上がり、脱衣所では湯上がりの熱気と石鹸の香りが混じり合う。
魔導灯の光が湯上がりの肌に柔らかく反射し、濡れた髪が背中をすべる。
「アリスさん、明日の作戦……本当に大丈夫ですか? 剣術競技で疲れてません?」
リナがタオルで髪を押さえながら心配そうに尋ねる。
アリスは髪をまとめながら、鏡越しにリナへ微笑んだ。
「大丈夫。みんながいるなら、どんな森でも怖くないから」
「わあ……頼もしい!」
レティアがにっこり笑い、勢いよくアリスの腕に自分の腕を絡めた。
湯上がりの熱がまだ残る頬が寄り添い、三人の笑みが鏡の中で重なった。
「でもさ……」
レティアが少し遠い目をして呟く。
「戦場でも誰かを思える人がいるって、ちょっと憧れるよね」
リナが髪を結びながら、静かに頷いた。
「そうですね……大切な人がいると、きっと強くなれます」
アリスもタオルを手に、二人の方を見て穏やかに微笑む。
「うん。守りたい人がいると、人はきっと限界を超えられる」
笑い声と、ほんの少しの静けさが、湯上がりの廊下に溶けていった。
そのまま三人は頬を赤く染めたまま、駐屯地の食堂へ向かう。
通路の窓から覗く夜空には、星々が瞬き、遠くの見張り塔の魔導灯が淡く光っていた。
食堂に入ると、温かな匂いが三人を包み込む。
木製の長卓には、昼間の競技を労うように心のこもった料理が並んでいた。
煮込みシチューからは湯気が立ち上り、焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂う。
「わあ……これ、厨房の人たちが用意してくれたんだって!」
リナが嬉しそうにスプーンを取り、シチューをすくい上げた。
レティアはパンをちぎりながら、にっこりと笑う。
「お風呂上がりにこんなに美味しいもの食べられるなんて、最高だね」
アリスも頷き、柔らかい肉を口に運びながら胸の奥で静かに決意を固めた。
――明日は行軍訓練。もう一段、強くならなければ。
食堂のあちこちでは、仲間たちが冗談を交わし、笑いながら皿を回している。
食事の合間に、明日の作戦の話題がふと出ると、全員の表情がわずかに引き締まり、すぐまた笑いに戻る。
その緩やかな緊張と安堵の交錯が、戦場を前にした者たちだけの独特な温度を作り出していた。
食事を終えた三人は、名残惜しそうに食堂を後にし、兵舎区画へ向かう。
木の扉を開けると、三人部屋には淡い魔導灯の光と、微かに香る木の匂いが満ちていた。
「……今日は色々あったけど、楽しかったね」
リナが寝台に腰を下ろし、微笑みながらぽつりと呟く。
レティアはベッドに飛び込み、ふかふかの枕に顔を埋めて大きく伸びをした。
「明日からが本番だけど……今日は夢の中くらい、のんびりしよっか」
アリスはカーテンを少し開け、外の夜の森を見つめた。
木々の間を抜ける夜風が窓辺を揺らし、遠くの見張り塔の灯りが瞬いている。
彼女は小さく息を吐き、静かに寝台に体を預けた。
「……おやすみ、二人とも」
「おやすみなさい、アリスさん」
「おやすみ〜……」
柔らかな寝息が重なり、魔導灯がゆっくりと明度を落とす。
木の香りと夜風の音に包まれながら、十五班の少女たちは穏やかな眠りの中で――
明日への力を、静かに蓄えていった。




