第五部 第二章 第7話
夜の帳が完全に降りる前、アリスたちは早めの夕食準備に取りかかっていた。
昼の行軍と設営作業で張り詰め続けた身体を休めるには、温かい食事が何よりの薬になる。
「今日は具だくさんのスープにしよう」
ミレーネが調理鍋の中でスプーンを回しながら言う。
「根菜を多めにして、乾燥肉も戻して……味付けは、少しだけスパイスを足してみようかな」
表面に浮かんだ油膜を丁寧にすくい、香辛料の小瓶を取り出す。
ひとつまみ落とした瞬間、柔らかくも食欲をそそる香りが立ちのぼった。
「おお……それ、絶対うまいやつだろ」
ラースが鼻を鳴らし、思わず口を開く。
「昼から何も腹に入れてなかったから、もう限界だ」
「慌てなくてもちゃんとできるわよ」
ミレーネは小さく笑い、鍋の中を覗き込む。
「煮込みすぎると根菜が崩れるから、今は火加減が大事なの」
「火は任せてくれ」
ラースは腰を下ろす間も惜しむように、周囲の石を集め始めた。
「風が少し強い。焚き火台を囲っておいたほうが安定するな」
即席の風除けが築かれ、焚き火の揺らぎが落ち着いていく。
炎に照らされ、ラースの影が地面に長く伸び、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「じゃあ私はパンを温めておくね」
アリスが柔らかく声をかける。
「持ってきたチーズもあるし、きっと相性いいはず」
平らな石板を焚き火の近くに据え、薄焼きパンを乗せる。
表面がふっくらと膨らみ、香ばしい匂いが夜の森に溶け込んでいった。
「……もうそれだけで、お腹が鳴りそう」
ミレーネが冗談めかして言うと、アリスは小さく笑った。
その傍らで、ザックは腰を下ろすことなく周囲を警戒していた。
手元の紙片に刻まれた陣式へ静かに魔力を流し、結界の境界線を微調整していく。
「結界の歪みは……今のところなし」
低く呟き、周囲を見渡す。
「この時間帯は油断しやすい。食事中でも感知は続ける」
「ありがとう、ザック」
アリスが短く言う。
「無理はしないでね」
「仕事だからな」
彼はそう返し、わずかに口元を緩めた。
やがて、湯気を立てるスープの香りがキャンプ地全体に広がる。
四人は焚き火を囲み、腰を下ろした。
「いただきます!」
声を揃え、食器を手に取る。
根菜の甘みが溶け込んだスープは素朴ながら滋味深く、身体の芯までじんわりと温めてくれた。
「……染みるな」
ラースが息を吐く。
「今日一日の疲れが、全部溶けていく感じだ」
「香りがすごく良いわ」
アリスが言い、スプーンをもう一口運ぶ。
「ミレーネ、本当に上手」
「でしょ?」
ミレーネは少し得意げに微笑む。
「ちょっとした隠し味よ。内緒だけど」
「こういう演習なら、料理担当でも悪くないかもな」
ラースが冗談めかして言うと、ザックも珍しく小さく笑った。
「毎日これなら、警戒当番も悪くない」
そのやり取りに、アリスは焚き火越しに皆を見回し、満足そうに頷く。
(こういう時間も……やっぱり、大切なんだよね)
そのとき、焚き火の近くの草むらから、かすかな足音が聞こえた。
ザックが即座に立ち上がり、魔力感知を強める。
「……何か来ている」
声を低く落とす。
「反応は弱い。小動物の可能性が高いが、念のため警戒を」
数秒後、草むらから小さなウサギが飛び出し、焚き火の光の中を跳ねるように横切っていった。
「……なんだ、驚かせやがって」
ラースが肩の力を抜き、苦笑する。
「悪かったな。こっちも必死なんだ」
ウサギは一瞬立ち止まり、こちらを振り返ると、再び闇の中へ消えていった。
その後も夜は静かに更けていく。
風が少し強まった頃、結界がわずかに揺らいだ。
アリスがいち早く気配を察知する。
「……今、結界が一瞬だけ緩んだ」
「確認した」
ザックも即座に応じ、魔力の流れを調整する。
「自然干渉だろうが、油断は禁物だ」
ミレーネは焚き火の火勢を見つめながら、静かに頷いた。
「夜の森は、昼とは別物ね」
小さく息を吐く。
「でも、この程度なら想定内よ」
焚き火の炎が揺れ、ぱちりと音を立てる。
緊張と安堵が入り混じる中で、夜はゆっくりと深まっていった。
日が完全に暮れ、夜の帳がキャンプ地を包み込むころ、生徒たちは再び各班のテント周辺に集合していた。
簡易な照明魔導具が要所に設置され、淡い光が点々と地面を照らしている。
焚き火の赤い炎。
青白く揺らぐ魔導灯。
それらが交じり合い、演習地全体に不思議な温もりと、夜特有の静かな緊張感を与えていた。
「本日、魔物との交戦報告は三件」
教官の低く通る声が、焚き火を囲む空間に響く。
名簿をめくり、視線を落としたまま続けた。
「うち一件はスラッシュ・ボア型」
一拍置き、顔を上げる。
「対応したのは……第十五班、アリス・グレイスラー班だな」
その名が呼ばれた瞬間、周囲の視線が一斉に集まった。
焚き火の炎が小さく揺らめき、空気がわずかに張り詰める。
アリスは一歩前に出た。
背筋を伸ばし、教官の正面に立つ。
「はい」
声は落ち着いていた。
夜気の冷たさにも揺らがず、はっきりと響く。
「遭遇地点は南側斜面の中腹、分岐点を越えた先の獣道です」
淡々と、しかし要点を外さず続ける。
「発見は後衛のザック。前方の茂みに異常な魔力反応を察知し、警戒態勢を取った直後、スラッシュ・ボアが突進してきました」
焚き火の向こうで、数人の生徒が小さく息を呑む。
「距離はおよそ二十メル」
アリスは視線をまっすぐに保ったまま言葉を重ねる。
「個体の特徴は、額の一本角と、鼻先から漏出していた魔力刃。通常個体よりも魔力活性が高く、危険度は高いと判断しました」
ひと呼吸置く。
周囲の静けさが、彼女の声をより際立たせていた。
「初動として、ラースを前衛に配置」
「正面衝突を避け、右斜面への誘導を指示しました」
「ミレーネには補助結界を展開させ、後衛の安全を確保」
「ザックにはその場を維持させ、支援魔術と解析に集中させています」
教官のペンが、記録板の上を素早く走る。
乾いた筆記音が夜気に溶け込み、戦闘の一つ一つが公式記録へと刻まれていく。
周囲の班長や書記役の生徒たちも、小型のノートを取り出していた。
要点を逃すまいと、ペン先が忙しなく動く。
「私は牽制として《レイ・スパーク》を展開」
「敵の視界と進路を乱し、突進軌道を逸らしました」
アリスは淡々と、しかし確実に語る。
「敵は一度岩場へ突っ込みましたが、その後も行動を継続」
「再生能力を確認したため、《イグニス・ダーツ》を複数展開し、再生阻害と行動制限を実施しました」
焚き火の向こうで、誰かが小さく頷く気配がある。
「最終的には、ラースの斬撃により喉元を断ち」
「完全に沈黙したことを確認しています」
報告が終わると、教官はしばし黙したままアリスを見つめた。
厳格な眼差し。その奥に、わずかな評価の色が滲む。
「……対応は的確だった」
短く、しかしはっきりと言う。
「他の班は、この事例を参考にするように」
視線を巡らせ、全体に告げた。
「スラッシュ・ボア級が出る以上、明日以降も油断するな」
記録板に、最後の一筆が刻まれる。
ページを繰る音、ペン先の走る音が重なり、キャンプ地の一角はまるで即席の戦術講義の場のようだった。
その瞬間、焚き火を囲む空間に小さなざわめきが広がる。
「正面からスラッシュ・ボアを……?」
「しかも無傷で?」
「連携、相当うまくいったんだな……」
感嘆の声。
悔しげに唇を噛む者。
尊敬と競争心が入り混じった視線が、アリスへと注がれる。
アリスは静かに頭を下げ、班の元へ戻った。
胸の内には安堵が広がると同時に、次への緊張感が小さく芽生えていた。
その後は、各班代表による簡単な状況共有が続いた。
互いの遭遇事例や課題を持ち寄り、短い言葉を交わす。
「スラッシュ・ボアって聞いた時は、本当に驚いたよ」
別班の生徒が苦笑混じりに言う。
「こっちは小型魔獣ばかりだったからさ」
「怪我なしってのが、何よりすごい」
「指示と役割分担が噛み合ったんだろうな」
中には、苦戦を隠さず語る班もあった。
言葉の端々には、仲間を守ろうとした必死さがにじんでいる。
やがて、各班の班長を集めた小規模な情報交換会――いわゆる《班長会議》が始まった。
アリスが中央の焚き火付近へ向かうと、すでに数名の生徒が集まっている。
その中に、レティアの姿もあった。
「……そちらも無事だったみたいね」
レティアが先に口を開く。
「少し、安心したわ」
「ありがとう」
アリスが応じる。
「レティアたちの班は、何かあった?」
「小規模だけど、魔力虫の群れと遭遇したの」
レティアは淡々と話す。
「火に弱かったから、誘導して焼却処理したわ」
「大きな被害は?」
「ええ。そこは問題なかった」
少しだけ肩をすくめる。
「ただ、教官には“反応は良かったが、準備が甘い”って言われちゃったけど」
「学院らしい評価だよね、それ」
アリスが小さく笑うと、レティアも苦笑した。
「でも、悪くない初日だったと思うわ」
焚き火を見つめながら言う。
「班の子たちも真剣だったし……こういう演習は、実地じゃないと分からないことが多いもの」
「うん」
アリスも頷く。
「私の班も、最初は不安が大きかったけど、少しずつ息が合ってきた感じがある」
短いやり取りの中に、互いへの信頼と経験者としての自負がにじむ。
二人は軽く視線を交わし、同時に頷いた。
そして、それぞれの班へと戻っていく。
焚き火の炎が静かに揺れ、夜はさらに深まりつつあった。
その後、学院生たちはそれぞれ自分のテントへ戻り、《行動日誌》の記録に取りかかった。
簡易ランタンの淡い光が布越しに揺れ、夜の冷えた空気の中で、紙を擦る音だけが静かに響く。
「今日の反省点は……」
ラースが低く呟きながら、少し眉を寄せる。
「指示を出すとき、声が思ったより通ってなかったかもな。次はもっと腹から出す」
ペン先を止め、一行書き足す。
「俺もだ」
ザックが眼鏡の奥で視線を落としたまま言う。
「地形の確認が甘かった。斜面の足場、もう少し丁寧に見ていれば、前衛の負担を減らせたはずだ」
淡々とした口調だが、その声音には自省が滲んでいた。
ミレーネは二人のやり取りを聞きながらも、言葉を挟まず、羽根ペンを静かに走らせている。
ページの端には魔力使用量の数値が細かく並び、補助結界と回復補助に割いた魔力量が正確に算出されていた。
「……次は、初動でもう少し効率化できそうね」
小さく独り言のように呟き、最後に丸を付ける。
全員が日誌を書き終えると、テント内に軽い空気の変化が生まれた。
緊張から解放された息遣いが、自然と交じり合う。
「じゃあ、簡単に反省会しようか」
アリスがそう言って、皆の顔を見渡す。
柔らかな笑みを浮かべながら、続けた。
「全体としては……すごく良かったと思うよ」
「初動も連携も、ちゃんと噛み合ってた。全員が自分の役割を理解して動けてたと思う」
ラースは少し照れたように鼻を鳴らす。
「まあ……俺たちにしては、上出来だったかな」
「正直、もう少しゴタつくと思ってたし」
「確かに」
ミレーネが穏やかに頷く。
「ただ、連携はまだ詰められる余地があるわ。特に、結界展開のタイミング」
アリスを見る。
「でも、初日にしては十分に及第点よ」
ザックも小さく頷き、言葉を添えた。
「各自の判断速度は悪くない」
「次は、情報共有をもう一拍早めたい。魔力感知の結果を、もっと即座に流す」
「うん」
アリスは真剣に聞き、頷いた。
「それ、大事だね」
一息置いて、少しだけ表情を引き締める。
「明日は撤収して学院に戻る日」
「気を緩めず、最後まで集中していきましょう」
その一言で、反省会は締められた。
短い時間だったが、それぞれが次を見据えるには十分だった。
その夜も、交代制で警戒が行われた。
テントの外では、見張り役が焚き火の残り火を確認し、結界の反応を静かに見守る。
風が吹くたび、火の粉が小さく跳ね、ぱちぱちと乾いた音を立てる。
だが、それ以外に大きな異変は起きなかった。
森は静まり返り、夜は穏やかに更けていく。
こうして、演習一日目の夜は――
緊張を抱えつつも、静かに、確かに、無事のまま過ぎていった――。




