第五部 第二章 第4話
夜明けとともに、アリスたちは眠りから覚めた。
まだ薄暗い森の中は、夜の冷気が残っており、吐く息がわずかに白く漂う。
テントの外では、草葉に付いた朝露が細かな宝石のように光を散らし、淡く反射する光が風に揺れる。
遠くからは、目覚め始めた鳥たちのさえずりが小さく、しかし確かに響いてきた。
東の空は藍色から群青へ、やがて淡い橙色と金色が溶け合うグラデーションに変わりつつある。
アリスは毛布を肩から滑らせ、寝袋を抜け出すと、そっとテントの入口を開けた。
冷たい朝の空気が頬を撫で、肌がわずかに粟立つ。
その感触に、残っていた眠気がすっと引いていく。
「おはよう、みんな」
柔らかく声をかけると、テントの奥からもぞりと寝袋が動いた。
ミレーネはまだ眠たげに目をこすり、細い声で返す。
「……ん、おはよう……」
ラースはすぐに体を起こし、大きく息を吸い込むと、背筋を伸ばしながら肩を鳴らした。
厚い肩の筋肉が、ごきりと音を立てる。
ザックはすでに半ば目を覚ましていたらしく、寝袋をたたみながら周囲の魔力反応を探る術式を展開していた。
手元に淡い青光が浮かび、波紋のように広がる感知の光が、近くの木々や地面を舐めるように走っていく。
「朝食の準備は私とザックがするから、ラースとミレーネは少しだけ仮眠してて」
アリスの穏やかな声に、二人は短く頷き、安心したように毛布を胸元まで引き上げた。
アリスとザックはすぐに行動に移る。
ザックが昨夜の焚き火跡を木の枝で均し、炭の奥に残っている赤い火を探す。
灰の中からほのかに橙色の光が顔を覗かせ、それを見つけると、小枝を足して息を吹きかけた。
ぱちぱちと小さな火花が散り、炭の温度が上がっていく。
一方アリスは水筒の水を鍋に注ぎ、支給された乾燥スープの袋を開ける。
中には小さく刻まれた乾燥野菜と香辛料、そして干し肉が混ざっている。
それらを湯の中に入れると、ふわりと香りが立ち上がった。
やがて、火口に細い薪が足され、魔導着火具がぱちりと音を立てて火花を散らす。
小さな炎が薪の表面を舐め、次第にじわじわと広がっていった。
「温かい匂いがしてきたな」
ザックがスープをゆっくりとかき混ぜるたび、野菜と香辛料の香りが濃くなり、冷えた空気を和らげるように広がっていく。
アリスは鍋の様子を確認すると、ラースとミレーネの肩を軽く叩いた。
「起きて。朝食ができたわよ」
二人はまだまぶたが重そうだったが、漂う香りに誘われるように火のそばへやってきた。
焚き火の熱が冷えた頬を温め、湯気が鼻先をくすぐる。
自然と口元が緩み、表情がほころぶ。
四人は切り株を椅子代わりに輪を作り、簡素ながら温かい朝食を囲む。
「そういえば、昨夜の警戒の時、少しだけ物音があったんだ」
スープをすすりながら、ラースがぽつりと口を開く。
「うん、森の方から小さな足音みたいなものが聞こえて……ちょっと緊張したわ」
ミレーネがスプーンを止めて付け加えた。
アリスは眉をひそめ、二人の言葉に耳を傾ける。
「具体的には何か見えたり、感じたりした?」
「視覚的にははっきりしなかった。
でも、気配だけは感じたよ。
結界の外だったかもしれないし、用心しておいた方がいい」
「私は少し怖かったけど……
大きな問題はなかったわ」
アリスはゆっくり頷き、森の奥に視線を向ける。
「わかったわ。
気を抜かず、引き続き警戒しながら行動しよう」
朝食を終えると、アリスたちは撤収作業に入った。
野営地にはまだ焚き火の余熱と朝の湿り気が残り、森の空気はひんやりとしている。
日差しは徐々に強さを増しつつあり、手早く動かなければ汗ばみそうだった。
まずラースがテントの支柱を外そうとする。
だが、張り縄の結び目が固く締まりすぎており、指先に力を込めてもなかなか解けない。
縄の繊維がきしみ、指に食い込む感触に、思わず顔をしかめた。
「……っ、思ったより固いな」
ラースは一度手を止め、結び目を見下ろす。
「昨日、しっかり張りすぎたか」
その様子を見ていたアリスが、すぐに近づいた。
「ラース、そのロープはこっち側から巻いて」
結び目を指さしながら、落ち着いた声で続ける。
「逆方向から引くと、余計に締まるわ」
アリスは片手で張りをわずかに緩め、もう片方の手で結び目の芯を押さえる。
手首を小さく返すと、縄はするりとほどけた。
「……あ、ほんとだ」
ラースは目を瞬かせる。
アリスはそのまま縄を膝の上で整然と巻き取っていく。
絡まらないよう一定の幅で揃え、端を内側に収める動きに一切の迷いがない。
「撤収のときは、解く動作も次に使うことを前提にすると楽になるの」
「ほどいたあとに絡むと、次の設営で余計な時間を取られるから」
「なるほど……」
ラースは感心したように頷き、真似するように残りの縄を巻き始めた。
一方、ミレーネは焚き火の跡の前で、バケツの水を手に立ち尽くしていた。
炭はまだ赤みを帯び、ところどころ白い灰をまとっている。
「……これ、もう水かけていいのかしら」
ミレーネは少し不安そうに、炭と水を見比べる。
アリスはすぐに腰を落として近づいた。
「ミレーネ、まずは火消し砂を炭全体にかけて」
穏やかな口調だが、指示は的確だ。
「いきなり水をかけると、灰が舞って息苦しくなるし、周囲も汚れるわ」
袋から細かい砂をすくい、炭の上に均等に振りかけていく。
赤みが隠れたのを確認してから、ゆっくりと水を回しかけた。
じゅう、と低く湿った音が広がり、白い蒸気が静かに立ちのぼる。
「……ほんとだ、煙が出ない」
ミレーネは目を丸くする。
「完全に冷えるまで、少し待ってから灰を均すといいわ」
「跡が残らないようにするのも、演習の一部だから」
「了解……勉強になるわ」
ミレーネは真剣な表情で頷いた。
ザックはその間、荷物の結束に取りかかっていた。
だが、食器、鍋、調理具、工具がひとつの袋に混ざり、どう縛るべきか迷っている様子だった。
「うーん……これ、まとめ方を間違えると次に取り出すのが大変だな」
アリスはザックの隣にしゃがみ込む。
「ザック、荷物は種類ごとに分けたほうがいいわ」
手を伸ばしながら続ける。
「調理器具と工具は分離。重さも偏らないようにね」
「なるほど……じゃあ、こっちを押さえる?」
「ええ、お願い」
アリスは調理器具を布袋にまとめ、工具類は革のケースへ分ける。
次に麻縄を手早く回し、ぎゅっと引き締めた。
結び目は片手で素早く解けるよう工夫されている。
「この結び方だと、荷を下ろすときに一動作で済むわ」
「……すごいな」
ザックは思わず声を漏らす。
撤収の合間、アリスは時おり三人の作業を目で追った。
ロープの巻き方、袋の詰め方、ペグの抜き方。
必要なところだけを簡潔に指示していく。
草を踏む音。
縄が擦れる音。
布が畳まれる音。
静かな朝の森に、規則正しい作業音が溶け込んでいく。
「……すごいな」
ラースが改めて感嘆の声を漏らす。
「動きに迷いがない」
「見てるだけで、だいぶ勉強になる」
ミレーネも頷いた。
「やっぱり経験が違うのね」
アリスは少し照れたように肩をすくめる。
「それもあるけど……」
「入学前に、少し冒険者をしてたから」
その言葉に、三人の動きが一斉に止まった。
「冒険者!?」
「入学前に……!?」
「本格的に活動してたの?」
「そりゃ慣れてるはずだ」
アリスは小さく笑い、曖昧に手を振る。
周囲を確認していたザックが、簡易結界の光が完全に消えたのを見て頷く。
「結界解除完了」
「いつでも出発できる状態だ」
ほどなく、耳元の通信魔具からガルド教官の低い声が響いた。
『今回の演習は、期間内に目的地へ時間厳守で到達することが重要だ』
『準備を最終確認し、ルートを再度確認せよ』
「了解!」
四人の声が揃う。
最後の装備チェックを終え、アリスが前に出た。
「よし、準備は完了」
「さあ、行こう」
その掛け声とともに、班は隊列を組み、森の中の演習ルートへと足を踏み出した。
朝日が木々の間から差し込み、金色の筋が道を染める。
土の匂いと朝露の湿り気が混じる中、四人の影は前へと長く伸び、静かな森の奥へと消えていった。




