表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
163/181

第五部 第二章 第3話

 キャンプ地に到着したアリスたちは、まず荷物を下ろすと、迷わずテントの設営に取りかかった。


 長時間の行軍で身体には疲労が溜まっているはずだが、誰一人として動きに迷いはない。

 演習とはいえ、野営の基盤を整える作業は、そのまま生存の土台になることを全員が理解していた。


「ここが平らで、風の影響も少なそうね」

 アリスが南斜面の中央寄りを指さす。

 地面はしっかりと踏み固められており、足裏に伝わる感触も安定していた。

 近くに生える低木が自然な風よけとなり、夜間の冷気を和らげてくれそうだ。


「確かにいい位置だな」

 ラースが周囲を一瞥し、軽く頷く。

「傾斜もほとんどないし、雨が降っても水が溜まりにくそうだ」


「よし、骨組みを広げるぞ」

 そう言って、ラースは背負い袋から鉄製のポールを引き抜く。

 地面に並べられたポールは、どれも傷や歪みがなく、整備が行き届いている。

 鍛えた腕で迷いなく差し込み、接合部を確実に固定していく手つきは、経験の差を感じさせるものだった。


 ミレーネはその横で、防水布を広げながら、しわを伸ばすように両端を軽く叩く。

 淡い銀色の布は日光を受けてきらめき、魔力加工による耐寒・耐湿性能を秘めている。

 布を引く角度や張り具合を細かく確認する様子は、実に丁寧だ。


「ペグは私が打つわ」

 ミレーネが槌を手に取り、視線をラースへ向ける。

「ラース、固定の角度、お願い」


「任せろ」

 短く応じ、ラースが支柱を押さえる。


 トン、トン、と小気味よい音が一定のリズムで響き、ペグが地面へと沈み込んでいく。

 角度は深く、だが無理のない位置。夜風や荷重にも十分耐えられる設営だ。


 ザックは少し離れた位置で、テント全体を俯瞰するように立ち、結界の範囲を測っていた。

 視線を行き来させながら、結界とテントの位置関係が、防御と警戒の両面で最適になるよう、何度も歩いては立ち止まる。


「風下側は、結界の厚みを少し増やしておく」

 淡々とした口調で言う。

「夜は冷えるし、虫除けにもなる。感知層も一段足しておくよ」


「助かるわ」

 アリスが短く礼を言い、支柱の位置を最終確認して布を引き締める。


 全員の手が止まることなく動き続け、わずか二十分ほどで二張りのテントが完成した。

 日差しを遮る布の陰には、すでに荷が整然と積まれている。

 入口付近には靴と簡易ラックが配置され、生活動線も意識された配置だった。


「ふう……完了だな」

 ラースが額の汗をぬぐい、肩を回す。


「これで、ひとまず寝床は確保できたわね」

 ミレーネも満足そうにうなずいた。


 テント設営を終えると、間を置かず、次は夕食の準備に取りかかる。

 野営では、日没前に火と食事の段取りを整えることが何より重要だった。


「焚き火の薪を拾いに行こう」

 アリスが周囲を見回して言う。

「すぐそこの林沿いでいいと思う。あまり奥に入らないで済む場所がいいわ」


「俺も一緒に行く」

 ラースが即座に応じる。

「太さと乾き具合を見ながら集めたほうが効率がいい。濡れた薪は後で困るしな」


 二人は斜面の下へ続く小道をたどり、周囲を警戒しながら歩き始めた。

 落ちている枝を拾い上げ、軽く折って乾き具合を確かめる。


「この辺、よく乾いてるわね」

 アリスが手にした枝を軽く叩く。

「音も軽いし、火持ちもよさそう」


「お、これは太さもちょうどいい」

 ラースが少し太めの枝を抱え込む。

「これでひと束分くらいはいけるな」


 一方その頃、ミレーネとザックは水源を探して小川の方へ向かっていた。


「地図だと、このあたりに小川があるはずだけど……」

 ミレーネが周囲を見渡す。


「うん、魔力反応も感じる」

 ザックが少し歩調を速める。

「ほら、あそこだ」


 木立の合間に水面が覗き、浅く澄んだ水が静かに流れていた。

 二人は水筒と鍋を取り出し、砂や落ち葉が入らないよう注意しながら水を汲む。


「すごくきれいな水……」

 ミレーネが感心したように呟く。

「でも、念のため煮沸か浄化は必要ね」


「もちろん」

 ザックが頷く。

「戻ったらすぐ処理するよ。量も記録しておく」


 全員がそれぞれの役目を終え、キャンプ地に戻ってくる。

 その時、アリスがふと周囲の様子に目を向けた。


「……他の班、まったく見えないわね」


「うん」

 ザックが遠眼鏡型の観察器具を覗き込みながら答える。

「声も聞こえないし、配置がかなり離れてるみたいだ」


「視界に影もなし」

 器具を下ろし、淡々と続ける。

「完全に独立行動区域って感じだな」


「なら、それだけ慎重に行動しないとね」

 アリスはそう言って、集めた薪をまとめながら、周囲をぐるりと見渡す。


 日が傾き始め、空には茜色が差し込んでいた。

 昼とはまったく違う、静かな時間帯が近づいている。



 ――そして、この静けさの中で始まるのは、今夜限りでは終わらない訓練生活だった。


「今日の夕食は、携帯保存食と現地調達の食材を合わせて、簡単な煮込み料理にしよう」

 アリスが全員に向けて言う。

「焚き火の管理は私がやるから、ミレーネ、調理をお願いしてもいい?」


「任せて」

 ミレーネは笑顔で頷く。

「こういうの、けっこう好きなのよね」


 支給された鍋とナイフを取り出し、乾燥野菜や根菜類の下ごしらえを始める。

 ラースは手際よく火口の石を並べ、アリスが魔導着火具で焚き火を整える。

 ザックは周囲に簡易警戒結界を張り直しながら、時折、食材の配置にも口を挟んだ。


「肉は……さっきのイノシシのじゃなくて、支給された乾燥肉で我慢だね」


「うん」

 アリスがすぐに答える。

「野生動物に手を出すのは訓練の範囲外だし、食中毒も怖いし」


「まあ、保存食でも」

 ミレーネが鍋をかき混ぜながら言う。

「味付け次第で、けっこう美味しくなるものよ」


 湯気とともに、香ばしい匂いが立ち上る。

 焚き火の揺らめく光に照らされ、いつしか皆の顔にも自然な笑みが浮かんでいた。



 夕食後は、決めていた当番制で周辺の警戒に入る。

 焚き火の火力を落とし、夜間用の結界を再確認してから、アリスは全員を見回した。


「初日は私とザックで前半、ラースとミレーネが後半」

 落ち着いた声で区切り、指先で簡易的に時間の流れを示す。

「異常があったら、大小関係なくすぐにテントを叩いて知らせて」

「音だけで判断せず、気配や魔力の違和感も含めて共有しましょう」


「了解」

 ラースが短く頷く。

「目立つ動きはなさそうだが、夜は別物だからな」

「昼間に安全だった場所ほど、夜は死角になりやすい」


「ええ」

 ミレーネも静かにうなずいた。

「魔力の流れも、日没を境に少し変化するわ」

「結界の内側でも、完全に安心はできないものね」


 当番でない二人はそのままテントへ向かい、装備を解きながら休息に入る。

 残ったアリスとザックは、たき火の近くに腰を下ろし、視線と感覚を周囲へと分散させた。


 薪が崩れる微かな音。

 炎が揺れるたびに立ち上る火の粉。

 闇は深く、視界の外では森そのものが、音を殺して息を潜めている。


「……静かだね」

 ザックがぽつりと呟く。

 声を張らず、風に溶かすような音量だった。


「うん」

 アリスも小さく応じる。

「昼間があれだけ賑やかだった分、余計に静けさが際立つ」


「正直……少し落ち着かないな」

 ザックは焚き火から視線を外し、暗い林の奥へ目を向けた。

「音がないってことは、何かが“動いていない”か、“動きを隠してる”かのどっちかだから」


「わかる」

 アリスは焚き火の灯りを見つめながら、小さく息をついた。

「こういう夜って、想像力だけが先に走るのよね」

「本当は何も起きてないのに、起きそうな気がしてしまう」


「でも……それって悪いことじゃないと思う」

 ザックは少し間を置いて続ける。

「警戒って、結局は想像力だし」

「危険を“起きてから見る”より、“起きるかもしれない”って考えてる方が、生き残れる」


「そうね」

 アリスは微笑みを含んだ声で答える。

「ただし、想像に振り回されすぎないことも大事」

「怖さと冷静さの、ちょうど真ん中に立てるのが理想かな」


「……さすがだな」

 ザックが苦笑する。

「アリスがいると、変に肩に力が入らなくて済む」


「ふふ、ありがとう」

 アリスは火に薪を一本足しながら言った。

「でも、気を緩めないでね」

「私だって、全部に気づけるわけじゃない」

「ザックの観察と判断があるから、今のバランスが保ててる」


「了解」

 ザックは静かに頷く。

「油断せず、過剰にもならず……だな」


 二人はそれ以上言葉を重ねず、ただ焚き火の火を見守り続けた。

 沈黙は不安を伴わず、むしろ互いの集中を邪魔しない、心地よい間としてそこにあった。


 やがて夜が更けるにつれ、森の奥からフクロウの鳴き声が聞こえ始める。

 低く、間を取るような声が、一定の距離感を保って響く。


 空には満天の星が広がり、

 焚き火の橙色の光と、冷たい星明かりが、野営地を二重に照らしていた。


 風が草を揺らし、

 火が時折、パチ、と乾いた音を立てて弾ける。


 そのすべてを背景に、アリスとザックは、夜という名の試練の入口に、静かに立っていた。




 ――そして、夜の後半。


 焚き火の火勢が落ち、空気が一段と冷え始めた頃、警戒を交代したラースとミレーネの番が巡ってきた。


 周囲は深い静寂に包まれている。

 風の音もほとんどなく、木々の枝葉は動きを止めたまま、夜そのものが張り付いているかのようだった。


「……見て、あれ」

 ミレーネが声をひそめ、ゆっくりと指を伸ばす。


 示された先――

 木々の間に、淡く、しかし確かに光るものがあった。


 それは一点ではなく、

 いくつもの小さな光の粒が、呼吸するように明滅しながら浮遊している。

 風に流されるわけでもなく、かといって静止しているわけでもない。


「……光、増えてない?」

 ミレーネが目を凝らし、慎重に距離を測る。

「さっきより、少し近い気がする」


「いや、位置はほぼ変わってない」

 ラースは腰を落とし、視線だけで周囲を確認しながら答えた。

 剣の柄に指をかけているが、力は入れていない。

「揺れて見えるのは、目の錯覚だな」


「ウィル・オ・ウィスプ……?」

 ミレーネが小さく呟く。


「……いや、違う」

 ラースは首を振る。

「動きが違うし、あれ特有の魔力反応も弱い」

「どちらかと言えば……精霊の残滓に近い」


「精霊……」

 ミレーネは無意識に息を呑む。

「じゃあ、無害……なの?」


「可能性は高い」

 ラースは低く答える。

「少なくとも、敵意は感じない」

「だが――」


 そこで言葉を切り、慎重に続けた。


「“害がない”と、“近づいていい”は別だ」


「……そうね」

 ミレーネはゆっくりとうなずく。

「不用意に刺激して、何か起きるのも嫌だもの」

「結界の外だし、距離は保ったほうがよさそう」


 二人がそう判断した、その瞬間――


 ぱき


 林の奥で、小枝を踏み折るような乾いた音が響いた。


「ひっ……!?」

 ミレーネが思わず声を上げ、身をすくめる。

 反射的に杖を構え、呼吸が一瞬乱れる。


 視線は音のした方向へと釘付けになり、

 心臓の鼓動が耳の奥で大きく跳ねた。


「落ち着け、ミレーネ」

 ラースはすぐに一歩前へ出る。

 声は低く、しかしはっきりとしていた。

「深呼吸だ」


 彼は音の余韻が残る方向を睨み、

 足音、魔力、空気の揺れを一気に探る。


「……反応なし」

 短く結論を出す。

「たぶん、小動物だ」

「もしくは、風で落ちた枝が跳ねただけだな」


「わ、わかってるけど……」

 ミレーネは杖を下ろしきれないまま、小さく息を吐く。

「急に音がすると、どうしてもびっくりするわよ……」


「だな」

 ラースは肩をすくめる。

「正直に言うと、俺も内心はちょっとビビった」


「え……」

 ミレーネが思わず彼を見る。


「夜の森で“予期しない音”が一番厄介だからな」

 ラースは苦笑しつつ、彼女の肩を軽く叩いた。

「怖がるのは悪いことじゃない」

「ちゃんと生き残ろうとしてる証拠だ」


 その言葉に、ミレーネの肩から少しだけ力が抜ける。


「……ありがとう」

 小さくそう言って、杖を下ろした。


 光の粒は、いつの間にか明滅を弱め、やがて夜の闇に溶けるように消えていった。


 その夜、結局魔物の襲撃は起きることなく、警戒の交代サイクルは、緊張を孕みつつも平穏に終わる。


 焚き火は静かに燃え尽き、星々は変わらぬ軌道で夜空を渡り続けた。


 そして――


 東の空に、かすかな白みが差し始めるころ。

 アリスたちは、それぞれの役目を終え、新たな一日を迎える準備へと静かに移行していく。


 夜を越えた野営地は、

 昨日よりも、わずかに“現場”としての重みを帯びていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ