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第五部 第二章 第2話

 野営演習当日の朝、学院の《第七演習門》前には、生徒たちがそれぞれの班に分かれて集まっていた。


 まだ陽は低く、校庭の石畳は淡い朝靄に包まれている。

 昨夜の冷気を含んだ霧が地表に薄くたまり、歩くたびに足元で静かに揺れた。

 空は澄みきった青に染まり、東の空から差し込む金色の光が、演習門の影を長く引き伸ばしている。


 早朝の風はひんやりと冷たく、それでいて草木の瑞々しい匂いをふくんでいた。

 深く息を吸うと、胸の奥まで澄んだ空気が入り込み、自然と背筋が伸びる。

 背後の寮棟からは、遅れて出てくる生徒たちの足音や、背負い袋の金具が触れ合う軽い金属音が断続的に聞こえてきた。


 アリスたちの班もすでに集合を終え、各自が背中いっぱいの荷を背負って待機していた。

 前日の打ち合わせで決めた分担通り、それぞれの装備は色も形も異なる。

 布地の質感、革の色、金具の配置――一見ばらばらだが、必要なものは過不足なく揃っていた。


 アリスは肩にかかる重みを確かめるように背負い紐を引き直す。

 革が軋む小さな音とともに、荷の重心が背中に密着した。

 背中全体に伝わる重量は軽くはないが、不思議と不安はなかった。


「いい天気……だけど、日中はかなり暑くなりそうね」

 ミレーネが額に手をかざして空を仰ぐ。

 朝靄の向こうに見える陽光は穏やかだが、その奥に確かな熱を宿しているのがわかる。

 朝の冷気の奥に、昼の熱を予感させる匂いが混じっていた。


「この空気だと、昼前には体力を削られそう。汗のかき方も早くなりそうね」

 その言葉を受け、アリスは即座に頷いた。


「うん。熱中症対策も考えておいた方がいい」

 視線を三人に向け、落ち着いた声で続ける。

「水分の確保は最優先。喉が渇く前に飲むこと。少しでも違和感があったら、遠慮なく言って」


 ラースとザックは同時に頷いた。

 ラースは肩紐の位置を微調整しながら、水筒の揺れを手で押さえて確認する。

 歩行中に音が出ないか、重心が偏らないか、動きの中で確かめている。


「了解。水筒は利き手側に寄せた。歩いてみて問題なければ、このまま行く」

 ザックは腰に吊るした簡易浄水器を指で軽く弾き、弁の感触を確かめてから口を開いた。


「浄水器は正常。水場を見つけたら、補充のタイミングと量を記録するよ。消費ペースを把握しておけば、無駄な停滞を減らせる」


 やがて、班ごとに食料と備品のチェックが始まった。

 通路を歩く革靴の音が規則正しく近づき、朝の光を遮るように長身の影が足元に落ちる。

 ガルド教官が、一班ずつ順に回って持参装備を確認していた。


「保存食三日分、水筒二本、携帯式調理具……」

 アリスの荷を一つひとつ点検しながら、教官が低い声で読み上げる。

 指先は迷いなく動き、布の張り、金具の固定、道具の収まり具合を短時間で確認していく。

 その視線は、装備の質と扱い方の両方を見ているようだった。


「包帯、応急処置セット、夜間灯……よし、問題なし」

 一瞬だけ視線を上げ、アリスの顔を見る。


「魔術式鞄や空間拡張装備の使用は禁止だ。持参品はすべて、実際に背負って運搬可能な範囲内」

 淡々とした口調だが、言葉の一つひとつが重い。


「これは運ぶ・使う・維持する力を身につけるためでもある。道具が多ければいいわけじゃない。管理できなければ、ただの重荷だ」

 短い沈黙を置き、言い切った。


「しっかり理解しておけ」

 アリスは背筋を正し、はっきりと答える。

「はい」


 その声に合わせ、仲間たちも無言でうなずいた。

 全班のチェックが終わると、ガルド教官は演習門の正面に立ち、生徒たち全員を見渡した。

 朝靄の中で、その姿はひときわ大きく見える。


「今回の演習は単なる課題ではない」

 腹の底から響く声が、広場全体に広がる。


「諸君が生きるための力を学ぶ、貴重な経験の場だ。道具がなければ工夫しろ。困難があれば相談しろ」

 だが、と続く前に一拍置く。


「判断を他人任せにするな。自分の行動と責任は、自分で引き受けろ」

 石造りの門に声が反響し、胸の奥に直接響いた。


「現場では、誰かが必ず支えてくれるとは限らない」

 鋭い視線が、生徒一人ひとりを射抜く。


「だからこそ、今ここで、支え合える仲間と信頼を育てておけ。そうすれば、いざという時に、背中を預け合える関係になる」


 空気が変わった。

 緊張は消えず、だがそれは恐れではなく、覚悟へと形を変えていた。


「――では、全班、出発!」

 号令とともに、生徒たちは各班ごとに整列し、石畳を踏みしめて歩き始める。


 アリスは班の三人を見回し、ほんのわずかに口元を緩めた。

「……それじゃあ、私たちも出発しましょう」


 ラースが無言で頷き、背中の荷を一度揺らして安定させる。

 ミレーネは小さく拳を握り、息を込めて応じた。

「はいっ」

 ザックは最後に背負い紐を引き締め直し、静かに呼吸を整える。


 こうして彼らもまた、隊列を整え、確かな足取りで演習ルートへと足を踏み出した。

 朝靄の向こうに続く道は、これから始まる野営の日々を、静かに待ち受けていた。


 シュトラードの丘陵地帯は、前回の演習でも訪れた場所だが、今回はさらに奥地、谷間に近い平坦地が目的地だった。

 なだらかな起伏が続く地形は一見穏やかに見えるが、進むにつれて足元の感触が変わり、土に混じる石の量が増えていく。

 靴底に伝わる感触は均一ではなく、柔らかな土と硬い石が不規則に入り混じっていた。

 風の流れも一定ではなく、丘の影や谷の入口付近では、湿り気を帯びた冷気が溜まるように漂っている。


「前回よりも少し傾斜のきつい道が続くね」

 ラースが荷を担ぎ直しながら息を整える。

 背負うテントの骨組みが動きに合わせて小さく軋み、金属が擦れる乾いた音が、一定の間隔で耳に残った。


「特にこの辺りは、足の置き場を間違えると体力を持っていかれるな」

「下りよりも、上りのほうがじわじわ効く。荷が重い分、無理が溜まりやすい」

 そう言って、彼は斜面の先を見上げる。

 遠目には穏やかに見える道だが、連続する起伏が確実に体力を削る配置になっていた。


「標高差はそこまでないけど、途中に岩場がある」

 ザックは歩調を落とさず、地図を片手に確認しながら続ける。

「ここから少し北に寄ったあたりだね」

「岩が露出していて、足場が安定しない。荷を背負ったまま通ると、バランスを崩しやすい」

 指先で地図をなぞり、岩場の位置に小さく印を付ける。


「テント設営地は、必ず平らな場所を確保しないと危険だ」

「地面がわずかに傾いているだけでも、夜間に姿勢が崩れて、体力の回復効率が落ちる」


 アリスは足を進めながら、周囲の魔力濃度と地形を交互に観察していた。

 木々の間を流れる魔力の揺らぎ。

 地面に残る獣の足跡。

 風向きと、草の揺れ方。

 視線は休むことなく動き、必要な情報だけを拾い上げている。


(結界の影響で、魔物の数は抑えられてるけど……それでも、油断はできない)

 結界は脅威を減らすが、危険を消すものではない。

 自然環境そのものが、演習の一部なのだと改めて意識する。


 その時――。


「待って、何かいる!」

 ミレーネが声をひそめ、即座に立ち止まった。

 反射的な動きだったが、そこに迷いはない。

 視線の先、斜面脇の茂みが、がさりと音を立てる。


「音が近い……」

「大きさも、そこそこある。小型じゃないわ」

 彼女は一歩引き、手を軽く構える。

 防御にも回避にも移れる、絶妙な距離だ。


「魔力感知には……何も引っかかってない!?」

 ザックが慌てて術式を展開する。

 淡い感知光が周囲を走るが、返ってくる反応はゼロだった。


「おかしい」

「これだけ動いてるのに、魔力反応がまったくない」


 一瞬の沈黙が落ちる。


「まさか、透明化か擬態系の魔獣か……!?」

 ラースが腰の剣に手をかけ、即座に臨戦態勢に入る。

 剣を抜かずとも、踏み込み一つで斬りかかれる姿勢だ。

 空気が一気に張り詰め、誰もが呼吸を浅くする。


 だが、ただ一人――

 アリスだけがその場から動かず、淡々と茂みへ視線を向けていた。


「落ち着いて」

 低く、はっきりした声。

「あれは魔物じゃない」

「野生のイノシシよ」


 断言に、三人の視線が一斉に彼女へ向く。


「え……?」


 次の瞬間、茶色の中型のイノシシが茂みから姿を現す。

 短く鼻を鳴らし、こちらを一瞥する。

 敵意も警戒も最低限に留めたその視線は、すぐに逸らされ、迷うことなく方向を変えた。

 イノシシは低く唸るような音を残し、森の奥へと駆け去っていく。


「……ほんとだ」

 ミレーネが大きく息を吐き、肩の力を抜く。


「魔力を帯びていないから、感知魔術じゃ反応しないんだね」

「完全に、自然の個体だ」

 ザックも苦笑混じりに言い、術式を解除する。

 剣を下ろしたラースも、ようやく腕の緊張を解いた。


「なるほど……」

「確かに、魔獣ならもっと踏み込んでくる」


「そう」

 アリスは頷く。

「動きと気配でわかるわ」

「人間を避ける気満々だったし」

 穏やかな口調で、補足する。

「魔物って、あんなふうに躊躇はしない」

「見つけたら、迷わず襲ってくる」


 三人はその言葉を噛みしめるようにうなずいた。

 アリスは小さく微笑み、再び歩き出す。


 途中、反対側の藪から白っぽいウサギが飛び出し、岩場を軽やかに跳ねていく。

 朝の光を受けた毛並みが、一瞬だけきらりと光った。


「……うわ、癒される」

 ミレーネが目を細めて呟く。

「さっきまで張り詰めてたのが、少し抜けた気がする」


 アリスも小さく頷いた。

「自然の中に入っていくって、こういうことなんだよね」


 敵意のない気配。

 何気ない生命の動き。

 それらを肌で感じながら、一行は再び、目的地へと足を進めていった。


 行軍は順調に進み、午後を少し過ぎた頃、予定していた野営地に到着した。

 小高い丘の南斜面に広がる平地は、周囲をまばらな林に囲まれ、見晴らしと遮蔽のバランスが取れている。

 地面は踏み固められており、過去にも演習で使われてきた形跡がはっきりと残っていた。

 少し下った場所には浅い小川が流れ、陽光を反射してきらきらと光っている。

 水音は穏やかで、長時間の滞在にも向いていそうだった。


「ここがキャンプ地……なるほど、よく整備されてるわね」

 ミレーネが感心したように周囲を見回す。

「下草も刈られてるし、地面も均されてる。夜営には理想的かも」

 そう言いながら、足元を軽く踏み、ぬかるみがないか確かめた。


「地面の魔力濃度も安定してる」

 ザックは腰を落とし、足元に手をかざす。

「急激な流れや偏りはなし。結界の効果だね。ここなら、簡易結界を重ねても干渉は起きにくい」

 測定結果を確認し、納得したようにうなずく。


 アリスは一歩前に出て、全体を見渡した。

 視線は地形、林の配置、風向き、水場の位置を順に追い、頭の中でキャンプの配置図を組み上げていく。


「まずはテントの設営ね」

 落ち着いた声で切り出す。

「ラース、中央寄りの平らな場所に張ろう。風向き的にも、あそこが一番安定してる」


「了解」

 ラースはすぐに荷を下ろし、地面を目で測る。

「この辺なら傾斜もほとんどないな。杭も効きそうだ」


「ミレーネと私は薪と水を確保する」

 アリスは続ける。

「水場は近いけど、念のため上流側を確認してから汲もう。薪は湿ってないものを優先ね」


「了解。川の状態も一緒に見てくるわ」

 ミレーネが頷き、外套の袖を整える。


「ザックは、防衛用の簡易結界を周囲に配置してくれる?」


「任せて」

 ザックはすでに歩き出しながら答えた。

「林との境界を中心に、感知用と侵入警戒用を分けて敷くよ。夜間の交代警備とも連動させておく」


「助かるわ」

 アリスは短く応じる。


 それぞれが役割を確認し合い、自然と視線が交わる。

 迷いはなく、誰もが自分の仕事を理解していた。


 三人の声が重なり、それぞれが動き出す。

 荷を下ろす音、杭を打つ準備の音、林へ分け入る足音が、静かな野営地にリズムを刻み始めた。


 アリスは一瞬だけ振り返り、全員の背中を確認する。

 その表情には、緊張よりも確かな手応えが浮かんでいた。


 こうして、探索者育成部五年次――初の《野営演習》が、本格的に始動した。

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