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第五部 第二章 第1話

 五年次探索者育成部の講義室に、生徒たちが次々と集まり始めていた。

 石造りの床に靴音が重なり、椅子を引く乾いた音が規則正しく響く。


 長机が整然と並ぶ広い室内は、すでに薄く張り詰めた空気で満ちており、まだ誰も声を張り上げていないにもかかわらず、どこか落ち着かない緊張が漂っていた。


 壁に掛けられた古い地図や、魔物の剥製標本。色褪せた注記と刃痕の残る骨格が、ここが机上の学問ではなく“実地”を前提とした場であることを無言のうちに訴えている。


 窓際の席では、真面目そうな男子生徒が几帳面に筆記用具を並べ、インク瓶の蓋を静かに閉めた。

 通路側では女子生徒が顔を寄せ合い、前回の実地演習での出来事を小声で振り返っている。

 笑い声はなく、どの声にも慎重さが滲んでいた。

 空気は緊張と期待とで微かに震え、その波は講義室の隅々まで広がっていった。


 扉が勢いよく開く音が響いた。

 その瞬間、ざわつきは一瞬で収まる。まるで誰かが空気そのものを掴んで締め上げたかのようだった。


 現れたのは、前回の実地演習でも指導を務めた男性教官――ガルド・ヴァルストだった。

 探索者育成部における対魔物戦闘技術の指導を担当する彼は、軍務上がり特有の厳格さを全身にまとっている。

 鋼色の短髪にはところどころ白が混じり、整えられた刈り込みが頭部の輪郭を際立たせていた。


 広い肩幅と分厚い胸板。服越しでも分かる鍛え抜かれた腕は、ただの鍛錬ではなく、幾度も戦場を生き抜いてきた者の身体だった。

 日焼けした肌に刻まれた深い皺は、長年、緊張と判断を積み重ねてきた証でもある。

 視線は獲物を射抜く鷹のように鋭い。だがその奥には、教え子を守り抜こうとする意志が確かに宿っていた。


 ガルドは講壇に立ち、背筋をまっすぐに伸ばしたまま教室を見渡す。


「静粛に」


 低く、短い一言。

 それだけで、椅子を引く音も紙をめくる音もぴたりと止まった。


「――では、第二回実地演習について説明を始める」


 生徒たちの視線が一斉に彼へと向く。誰もがその声を逃すまいと、自然と息を詰めていた。


「今回の課題は《野営演習》だ。前回と同じく、《シュトラードの丘陵地帯》を演習地として用いる」


 教室の空気がわずかに引き締まる。


「あの地には依然として魔物の活動が確認されているが、演習範囲はすでに魔導結界によって遮断済みだ。大規模な襲撃の恐れはない」


 ガルドは壁際へと歩き、黒板横の掲示板に簡易地図を貼り付ける。留め具が金属音を立て、紙がわずかに揺れた。

 地図の一部には丘陵や谷の起伏が簡略化して描かれ、拠点予定地が赤く記されている。その周囲を囲むように、薄い青の線が結界範囲を示していた。


「ただし、小型の魔物や迷い込んだ個体の可能性は否定できない。各班は警戒を怠らず、夜間も交代での警備体制を整えること」


 指が地図の端をなぞる。


「今回の演習では――生存力、共同生活能力、即時対応力。この三点を重点的に評価する」


 アリスはその言葉を聞きながら、手元のノートに流れるような筆致で要点を書き留めた。

 前回の“討伐型”とは異なり、今回は長時間の演習。疲労の蓄積、物資の管理、仲間との意思疎通。戦闘以外の場面での判断力が、より強く問われる内容だと理解していた。


「なお、班は前回と同じ構成とする。互いの連携を深めた状態での応用力も評価項目に含まれる」


 ガルドの視線が教室を巡る。


「各班は講義後、班内で必要な準備について話し合い、持参する食料や野営道具、魔具の分担を決めておけ」


 そこで、彼の目がさらに鋭さを増した。


「そして最後に――今回の演習では、《空間拡張装備》の使用を一切禁止する」


 教室のあちこちで、抑えきれない小さなどよめきが起こる。互いに顔を見合わせる者、肩をすくめる者、苦笑を浮かべる者。


「魔術式鞄や圧縮収納具、転送札なども含め、全ての荷は各自の体力と工夫で所持せよ」


 ガルドは腕を組み、その反応を黙って受け止めた。


「背負えるもの、携えられるものだけが、お前たちの“生存力”だと理解しろ」


 言い切りだった。


「演習地への移動後、準備の不備が発覚した場合は減点対象とする。集合は明朝、第七演習門前。遅れた者は演習参加資格を剥奪する。――解散」


 最後の一言は、重く、そして簡潔だった。


 その瞬間、張り詰めていた空気が一気にほどける。

 教室はざわめきに包まれ、椅子の脚が床をこする音、仲間同士の相談声、ページを繰る紙の音が入り混じって渦を巻いた。

 それでもなお、ガルドの立つ講壇の周囲だけは、戦場の余韻のような緊張を残したままだった。


 アリスたちの班も、自然と四人で一つの机を囲んだ。

 ざわめく講義室の中でも、その卓だけはどこか落ち着いた空気を保っている。椅子を寄せる音が重なり、四人分の視線が同時に机上へ落ちた。


 机の上には、アリスの革表紙の手帳、ザックの細かな走り書きで埋まったメモ束、ラースが持参した小型地図、そしてミレーネが丁寧に広げた携行魔具リストが整然と並ぶ。

 地図の端には赤い印がいくつも記され、予定地、水場、見通しの悪い谷、危険区域が一目でわかるよう整理されていた。鉛筆で引かれた補助線は、すでに行軍ルートを何度も想定した痕跡だ。


「じゃあ、今回は野営演習ってことで……まずは、持っていくものをリストアップしようか」


 アリスは手帳を開き、ペンを指先で回しながら柔らかく口を開いた。声は控えめだが、自然と班の中心に据わる響きがある。


 その声に、ミレーネが真っ先に頷いた。

 彼女はすでに自分のリストに視線を落としており、準備は頭の中で半分以上終わっているようだった。


「寝具と防寒具は絶対必要ね。夜間は丘陵地帯だから冷えるはずよ。それから、防御系と回復系の魔具も何点か持っていくわ。軽量のものにするから、他の荷物と調整してくれると助かるかも」


 淡々とした口調だが、言葉の端々に実地を想定した現実感がにじむ。

 彼女はリストの上から順に指を滑らせ、確認するように読み上げた。


「携行用の魔力ランタン、魔力式温熱布……これは寒さ対策ね。簡易式防護結界札、応急治療用ポーションは二種。軽量寝袋と折り畳み式の耐水マット……あ、夜露対策の外套も追加しておくわ」


 書き足される文字の横で、アリスが静かに頷きながらメモを取る。

 抜けがないか、重量はどうか――その視線はすでに全体のバランスを計っていた。


「食料はどうする?」


 問いを投げたのはザックだった。

 淡々とした口調だが、視線はすでにメモと地図を行き来している。指先で地図の端を軽く押さえ、補給点と野営地点の距離を無意識に測っていた。


「保存食が基本になると思うけど、調理道具を持っていくなら、簡単なスープくらいは作れるね」


 一拍置いて、ザックは自分のメモに何かを書き足しながら続ける。


「僕が一応、最低限の調理器具と火起こしセットを持とうか。小型鍋と折り畳み式の魔導コンロもある。余裕があれば、空いた時間に情報感知の訓練も兼ねて食材を探してみるよ。野草や小型獣、それに食用になる魔獣の部位の判別は得意だから」


 その言葉に、ラースが小さく感心したように息を漏らす。

 アリスは即座に頷き、迷いなく答えた。


「よし、それでお願い」


 言い切りだった。

 信頼が前提にあるからこそ、確認は最小限で済む。


 アリスは次にラースへ視線を向ける。

 彼の体格と持久力を思い浮かべるまでもなく、役割は自然と決まっていた。


「ラースは?」


 ラースは少し肩をすくめ、当然だと言わんばかりに答える。


「俺は重量系の装備をまとめて持つよ。テントの骨組みとか、重めの工具も含めてな。体力には自信があるし、歩荷は任せてくれ」


 言いながら、拳を軽く握ってみせる。


「予備の杭とロープ、それから解体用の鉈と小型ハンマーも持つ。魔獣を解体する場面が出たら、手間取らせない」


 頼もしい言葉に、アリスは思わず満足げに微笑んだ。


「ありがと、ラース」


 そのまま視線を机上へ戻し、ペン先で項目を整理しながら続ける。


「じゃあ私は、全体のバランスを見て、調整系の備品と補助魔具を持っていくね。火種用のマジックフリント、予備の水筒、浄水用の簡易魔法陣、それと道標になる光晶石も持っていく」


 手帳に線を引きながら、さらに付け加える。


「あと、夜間の見張りは二人ずつの交代制にする。睡眠時間は必ず確保しよう。スケジュールは後で私が組むから、気になる点があったら言って」


 指示は簡潔だが、押しつけがましさはない。

 それを聞いて、ミレーネが目を細めて微笑んだ。


「ほんと、頼りになるわね。さすがアリス」


 その言葉に、ラースとザックも無言で頷く。

 余計な賛辞は不要だというように。


 ザックが軽く息を吐き、静かに言葉を添えた。


「空間拡張が使えないのは正直きつい。でも……その分、事前の計画と分担が重要になる」


 視線を四人に巡らせ、確認するように続ける。


「無駄を省いて、装備は最小限に。効果は最大限に――それが目標だね」


 その言葉に、誰も反論しなかった。

 机上の紙と道具を前に、四人の認識はすでにひとつにまとまっていた。


 アリスはうなずき、手帳のページを一枚めくった。

 革表紙の内側から現れたのは、すでに何度も使い込まれた計画用のページだ。ペン先が紙に触れるたび、さらさらと小気味よい音が立ち、項目が一つずつ書き込まれていく。

 気づけば、ページには二十を超える品目が整然と並んでいた。


 【野営演習携行品(案)】

 1. 寝袋(軽量型)

 2. 耐水マット

 3. 防寒外套

 4. 魔力ランタン(予備魔晶石付き)

 5. 携行式調理具(小鍋・折り畳み式魔導コンロ)

 6. 火起こし用マジックフリント

 7. 携行食(硬パン・乾燥肉・携行スープ粉末)

 8. 水筒(2L)×人数分

 9. 浄水用簡易魔法陣(緊急時は煮沸)

 10. 防護結界札(小型×4、大型×2)

 11. 回復ポーション(軽・中)

 12. 解体用鉈・小型ハンマー

 13. テント一式(骨組み・布地・杭・ロープ)

 14. 光晶石(道標用)

 15. 予備衣類・靴下・手袋

 16. 小型工具セット(修理用)

 17. 携帯式観測鏡(周囲確認用)

 18. 野草判別図鑑(簡易版)

 19. 魔獣痕跡記録札

 20. 携帯筆記具と地図


 ペンを置いたアリスは、もう一度だけ全体を見直す。

 不足はないか。重複はないか。頭の中で実際に背負った感覚を思い描きながら、重さと必要性を一つずつ秤にかけていく。


 ザックがそのリストをちらりと覗き込み、指先で二つの項目をなぞった。


「魔獣痕跡記録札は、演習の評価ポイントにもなるはずだから必須だね。数と質の両方を見られる可能性が高い」


 そう言ってから、視線を下に滑らせる。


「それに、観測鏡は交代制で使えば負担も減る。一人が持ちっぱなしにするより、見張りのタイミングに合わせて回したほうが合理的だ」


 理路整然とした言葉に、アリスは小さく頷きながら書き込みを加える。


「そうね。記録札は私が持っていくわ」


 ミレーネが即答した。

 迷いはなく、役割を引き受ける声だった。


「治癒と防御を担当する以上、戦闘後の痕跡確認も自然な流れだもの。記録があれば、次に備えた振り返りもしやすいし」


 その言葉に、ラースが納得したように鼻を鳴らす。


 アリスは手帳を閉じ、両手で軽く押さえた。

 インクの匂いと紙の感触が、現実感を伴って胸に落ちてくる。


「今回は“野営”だから、戦闘力だけじゃなくて生活力も試される」


 少しだけ声を落とし、言葉を選ぶ。


「装備の重さも、疲労も、たぶん想像以上にくると思う。少し大変だけど……」


 一拍置いて、穏やかに続けた。


「なんとかなるよ。私たちなら」


 その言葉とともに、アリスは仲間たちの顔を一人ずつ見渡す。

 ラースの揺るがない頼もしさ。

 ザックの冷静で先を読む視線。

 ミレーネの柔らかく、それでいて確かな支援力。


 それらすべてが重なり合い、胸の奥に静かな確信を灯していた。

 重い荷を背負う演習になるだろう。

 けれど、それを分け合える仲間がいる。


 その事実が、アリスにとって何よりの支えだった。

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