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第五部 第一章 第7話

 学院寮の裏手にある小さな中庭。

 夕暮れの光が、レンガ造りの回廊を金色に染めていた。

 白い撫子の花壇には、昼の名残りの温もりと土の匂いがこもり、回廊の柱の影はゆっくりと長く伸びてゆく。

 噴水は細い銀糸のように水面へ落ち、風が運ぶ水の粒が、ほんの少しだけ肌を冷やした。


 アリスはベンチに腰を下ろし、背もたれにもたれて空を見上げる。

 西の空は深い橙から、ゆるやかに葡萄色へ移り変わる途中で、その境い目に細い雲筋が流れていた。

 喧騒の去った中庭では、遠くの靴音や衣擦れがやけに響く。


 胸の奥には、まだ戦場の余韻が弱い鼓動として残っていた。

 甲殻が砕ける感触、魔力がうなりを上げて走る気配。

 それらが耳の奥で反芻されるが、今は風の音がそれをやさしく包んでくれるような気がした。


 軽やかな足音が、回廊の角から近づいてくる。


 レティアが声をかける。

 「ここにいたのね」


 アリスは顔を向け、少しだけ驚いたように瞬きをした。

 「……あ、レティア」


 レティアはアリスの隣に腰を下ろし、ふぅと小さく息をついた。

 肩口で束ねた髪が、夕陽の名残りをすくい、柔らかく揺れる。

 頬には薄く疲労の色があったが、瞳は冴えていて、興奮の火がまだ消えていなかった。


 レティアが穏やかに言う。

 「初めての実地演習、お疲れさま。……どうだった?」


 アリスは一瞬言葉を探し、苦笑して指先で袖の埃を払った。

 「……正直、予想よりずっときつかった」


 少し間を置いて続ける。

 「判断も早かったし、魔力の消耗も想像以上だった。でも――」


 アリスは小さく息を吸う。

 「楽しかった。班のみんなが、本当に頼りになったの」


 レティアはその言葉に頷き、素直な笑みを浮かべた。

 「うん。見ててわかったわ」


 レティアが続ける。

 「アリス、すごくいい動きしてた。魔力制御も、指示の出し方も、どれも的確だった」


 アリスは照れたように笑い、視線を夕空へ逸らす。

 「そんな……必死だっただけよ」


 そして、今度はアリスがレティアを見る。

 「そっちこそ、動きが洗練されてた」


 アリスが言葉を重ねる。

 「見たよ、あの後衛との連携。レティアの支援指示、すごく滑らかだった」


 レティアは一瞬だけ肩をすくめ、冗談めかした調子で答える。

 「ふふ、まあ……ミラージュの古代遺跡で鍛えた経験もあるし?」


 だが、すぐに表情を引き締めた。

 「でもね、今回はそれだけじゃないわ」


 レティアが真剣に続ける。

 「班の子たちが、ちゃんと応えてくれたからこそよ」


 指折り数えるように、名前を挙げる。

 「イリーナの防御魔術は盤石だったし、ヴィクトールは前衛として危険種相手にも一歩も引かなかった」


 少し声を和らげて。

 「リゼットの感知術も、戦況を先読みするのに大いに助かったわ」


 アリスは静かに頷き、その光景を思い返すように目を細めた。


 二人は肩を並べ、しばらく言葉を交わさずに風の音を聞いた。

 噴水が落とす水の響きと、遠い塔から聞こえる鐘の練習音が、ゆるやかに重なり合う。


 夕暮れの中庭には、戦いの後の静けさと、確かな充足感だけが残っていた。


 アリスが、ぽつりと本音を零した。

 「……でも、やっぱり一緒の班で戦えたら、もっと楽しかったかも」


 レティアは一瞬だけ目を細め、すぐに短く笑う。

 「ね」


 軽く肩をすくめて続けた。

 「でも、教官の言う通りよ。たぶん私たちが同じ班だったら、戦力のバランスが崩れる」


 少し冗談めかして。

 「実際、うちの班は後半、戦闘が早く終わっちゃって……正直、手持ち無沙汰だったもの」


 アリスも同調するように小さく笑い、視線を噴水へ向けた。

 「……私、ちゃんとリーダーできてたかな」


 言葉の端に、ほんのわずかな不安が滲む。


 レティアは迷いなく即答した。

 「できてたよ」


 間を置かず、確信を込めて続ける。

 「アリスのこと、後ろからちゃんと見てた。みんなを信じて任せて、それでも危ない時は迷わず前に出てた」


 穏やかな声で、しかしはっきりと。

 「それって、簡単なことじゃないわ」


 アリスは息を吐き、肩の力を抜いた。

 「……ありがとう」


 そこで、短い沈黙が落ちる。

 鳩が回廊の梁を渡る羽音だけが、夕暮れの空気にふわりと残った。


 アリスは小さく息を吸い、言い淀みながら続ける。

 「実は……ひとつだけ、引っかかってる判断があるの」


 レティアは即座に視線を向ける。

 「どこ?」


 アリスは指先を組み、思考を整理する。

 「南東への回り込みの前。いったん西斜面を経由した判断は、正解だったと思う」


 だが、と前置きして。

 「私、もう少し早く“退路の印”を増やしておくべきだった」


 具体的に言葉を重ねる。

 「ザックの《シルエット・タグ》だけに頼らず、私の《イグニス・ダーツ》で薄く焼き目印を付けるとか」


 視線を伏せ、続けた。

 「あの時、もし想定外の増援が出てたら……撤退線が、正直細かった」


 レティアは顎に指を当て、静かに頷く。

 「確かに」


 だが、すぐにフォローを入れた。

 「でもね、その場で“攻め”と“逃げ”の両方に余地を残せてたのは、リーダーとして上出来よ」


 柔らかく笑い。

 「完璧は、次の課題にしておきましょ」


 一拍置き、少し悪戯っぽく付け加える。

 「……次は私の番。私もミスったから」


 アリスが驚いて顔を上げる。

 「え?」


 レティアは苦笑しつつ、素直に認めた。

 「後衛の子に、障壁の重ね張りを三段階で指示したの」


 指で段を示す。

 「理論上は硬い。でも、実戦だと“復帰の遅延”を生む」


 少しだけ声を落とす。

 「実際、二手遅れた。あれは二段で止めて、残り一段は“予備”に回すべきだったわ」


 アリスは考え込むように頷いた。

 「……どっちも、“守るための保険”を厚くしすぎたのかもね」


 レティアも同意する。

 「そう」


 視線を前に向け、結論を出す。

 「ここからは、“守りながら攻め筋を作る”練習を、もう半歩だけ前に出していく」


 二人は顔を見合わせ、自然と小さく笑った。

 互いの弱点を、こうしてすぐ言葉にできる。

 それは、揺るがない信頼が前提にあるからだった。


 だが、レティアの口元に、いつもの意地悪そうな笑みが戻る。

 「でも、油断は禁物よ」


 少しだけ身を乗り出して。

 「次の演習じゃ、私の班がもっと成果出しちゃうから」


 アリスが眉を上げる。

 「それ、宣戦布告?」


 レティアは楽しそうに笑う。

 「受けて立つわよ、隊長さん♪」


 アリスも肩で笑い、ベンチの背にもたれて軽く頭を預けた。

 遠くから、夕風に混じって練兵場の砂の匂いが流れ込んでくる。


 その匂いは、次の戦いがもう遠くないことを、静かに告げていた。


 「そうだ」

 レティアが思い出したように、軽く手を打つ。

 「アリス。《エッジ・スパーク改》の“震雷式”ね。あれ、装甲系相手にちゃんと刺さってた」


 少し首を傾げて続ける。

 「でも、次の危険種が“耐雷殻”を持ってたら、どうする?」


 アリスは迷いなく即答した。

 「熱と圧の複合に寄せる」


 間を置かず、具体案を積み上げる。

 「《イグニス・ダーツ》を“バースト短装填”に切り替えて、間に《エリア・ジャマー(簡易)》を挟む」


 指先で空をなぞるように。

 「雷が嫌う絶縁帯を作られるなら、逆に“熱歪み”を作る。殻の継ぎ目に膨張差を出して、構造疲労を起こす」


 レティアは満足そうに息を吐いた。

 「やっぱりね」


 すぐに自分の番だと言わんばかりに。

 「じゃあ私は後衛シナジーを切り替える。《リフレクター・ブレス》を“単発反射×回数制”から――」


 一拍。

 「“角度限定×威力上限”に変更」


 視線を前線の高さに合わせる。

 「跳ね返すより“逸らす”。前線の視界を殺さないのを優先して、被弾ラインを横に流す」


 会話は自然に、次の演習の机上検討へと滑っていく。

 アリスは指先で小さな式線を空中に描き、レティアはそれを目で追いながら、必要な補助式を口に乗せていく。

 空は徐々に紫紺を深め、寮の明かりがぽつぽつと灯り始めた。


 「ねえ、アリス」


 「なに?」


 「今日さ……正直に言って」

 少しだけ声を落とす。

 「怖かった?」


 問いは軽く投げられたが、核心に置かれていた。

 アリスは少しだけ目を伏せる。噴水の音が、ふっと遠のく。


 「怖かったよ」


 はっきりと、逃げずに。

 「特に、バジリスクが二撃目を入れてきたとき。ラースが弾かれて、ミレーネの結界にヒビが入った瞬間」


 唇を結び、続ける。

 「でもね、怖さって、消そうとしても消えない」


 だから、と。

 「動く理由のほうを大きくするしかないって思った」


 「動く理由?」


 「――後ろにいる人たちを、無事に帰すこと」


 声に、静かな決意が乗る。

 「私が前に出れば、次の一手をつなげる。ミレーネが守って、ザックが道を示して、ラースが斬り拓く」


 一呼吸。

 「私が怯んだら、全部が止まっちゃうから」


 レティアは黙って頷いた。

 ベンチの木目に指を滑らせ、ひと呼吸置く。


 「私ね」


 静かに続ける。

 「今日、うちの班の子がちょっと震えてるのを見たの」


 視線を落とし、思い出すように。

 「だから、『怖くても、いまの震えは逃げる準備じゃない。踏み出す準備だよ』って言っちゃった」


 小さく息を吐く。

 「言った瞬間、私自身に言ってたんだって気づいた」


 「……うん」


 「怖さを否定しないで、『一緒に踏む』って」

 微笑む。

 「……アリスも、同じだったんだね」


 「うん」

 アリスは笑った。

 「似た者同士」


 風が二人の髪を撫で、回廊の影がさらに長く伸びる。

 中庭の灯がほのかに灯り、白い撫子が夜色の中で柔らかく浮かび上がった。


 「ところで」

 レティアが急に身を乗り出す。

 「軽い手合わせ、する?」


 「え、いま?」


 「いまだよ」

 即答だった。

 「今日の戦闘で拾った“癖”、そのまま固めるのはもったいない」


 指を立てる。

 「五分だけ。素振りと基礎術。怪我しない程度に」


 アリスは少し考えて、頷いた。

 「……いいね」


 言葉を選び直す。

 「互いの動きを、記憶が鮮明なうちに“整える”」


 二人はベンチから立ち上がる。

 石畳の中央、噴水の近くの開けたスペース。

 寮生が窓から覗けば、微笑ましい練習風景に見える程度の距離感だ。


 「まずは歩法」

 レティアが指示する。

 「右回りで三歩、止め」


 「了解」


 靴底が石を擦る音。呼吸が揃う。

 アリスは肩の脱力を意識して軸を落とし、レティアは前足の親指に軽く重心をかける。


 「次、視線誘導」

 「私が目線で虚を作る。レティアは肩の開きで合わせて」


 「了解」


 「三、二、一――」


 ふっと、互いの焦点が外れて戻る。

 その瞬き一つを、二人は共有した。


 「今の、戦闘中に三回出た“癖”。修正」


 「了解」

 「肩を開く代わりに……肘から入れる。こう?」


 「うん。綺麗」


 次に、アリスが《レイ・スパーク》の“最小出力線”を走らせ、レティアは《リフレクター・ブレス》の角度逸らしを紙一重で試す。

 光は床に細い白線を描き、反射の軌が噴水縁に沿って滑る。


 「手前二度、奥一度」

 「三反射で、死角を作らない」


 「了解」

 「私のほうは、強度を上げず角度で処理する」



 五分が過ぎた。

 二人は同時に肩を落とし、笑い合う。


 「たった五分でも、だいぶ違うね」


 「ね」

 「明日、筋肉痛になってたら笑って」


 鐘の音が、宵の始まりを告げる。

 寮の窓に、また一つ灯が増えた。


 「今日のご褒美」

 レティアが布包みを差し出す。

 「売店の“蜂蜜レモンのビスケット”。糖分は正義」


 「やった」

 「……ほんとだ。蜂蜜の匂い」


 小気味よい音。

 甘酸っぱい香りが、緊張を溶かす。


 「ねえ、アリス」


 「うん?」


 「次の演習、“一時連携”で五分だけ組まない?」


 「公式の班は別でも、交差訓練で。申請すれば許可は出る」


 アリスは目を丸くし、ゆっくり頷く。

 「賛成」


 「お互いの“当たり前”を交換できる」

 「私の班にも、きっといい刺激になる」


 「こっちも同じ」

 少し照れたように。

 「……それに」


 「それに?」


 「一緒に戦うの、単純に楽しいから」


 アリスは笑った。

 「私も。――約束、だね」


 「約束」


 大げさな誓いはない。

 ただ、同じ夜空を見上げる視線が交わる。


 やがて話題は日常へと戻る。

 購買の新作パン、教授の口癖、浴場の混雑時間。

 戦場と日常の境目にいる、その感覚が心地よかった。


 門限前の合図が灯る。


 「そろそろ戻ろうか」


 「うん」


 「……アリス」


 「なに?」


 「今日のあなた、かっこよかったよ。隊長さん」


 「もう」

 照れ笑い。

 「レティアだって」


 二人は回廊の影へ歩き出す。


 「また明日」


 「また明日」


 扉の向こう、アリスは自分の映る窓を一度だけ見た。

 瞳の奥に、確かなものが宿っている。


 (もっと強くなろう。守るために、進むために)


 夜は、静かに続いていく。

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