第五部 第一章 第1話
中間試験明けの休暇が終わり、静けさを帯びていた学院に、再び日常の喧騒が戻ってきた。
早朝の空は薄い雲に覆われていたが、午前を迎えるにつれて青さを増し、日差しは初夏の気配をわずかに帯びている。
校庭の大樹は枝葉をたっぷりと広げ、濃い緑が風に揺れながら、木漏れ日を石畳にまだら模様として落としていた。
石畳を踏みしめる学生たちは、揃いの制服を軽く着崩す者もいれば、きっちりと着こなす者もいて、その歩調はまちまちだ。
手に抱えた教本や書類からは、試験の結果や新しい課題への思案が垣間見える。
笑い声や会話の合間に、小さなため息も混じっており、学院全体が新しい節目を迎えたことを感じさせた。
ここは王立魔導学院・探索者育成部 五年次。
教室にいる者も、廊下を歩く者も、皆が心のどこかで理解していた――ここからが、真の意味での実戦教育の始まりなのだと。
机上の理論や模擬演習だけではなく、危険と隣り合わせの現場を想定した訓練が、ついに本格化する時期に入ったのだ。
アリスたちの教室にも、初回講義の開始を告げる澄んだ鐘の音が響き渡った。
その響きは、薄く開いた窓から入り込む風に乗って、緑の香りと共に教室内を巡る。
アリスが、静かに席へと腰を下ろしながら小声で言う。
「……いよいよ、後期が始まるんだね」
レティアは肩の力を少し抜き、ほっとするように微笑んだ。
「休暇開けって、どうしてこんなに気持ちが切り替わるのかしら。教室の空気まで違って見えるわ」
「うん。休暇の間は、なんだか一息つけたし……今日からまた頑張ろうって気持ちになる」
レティアは視線を窓へ向け、風に揺れる枝葉を見つめる。
「それにしても、五年の前期がもう終わったのね。早いような……でも、いろんなことがあったから、長かったような気もするわ」
アリスは思わず笑って、わずかに首を傾ける。
「ね? 演習も座学も忙しかったし、休暇の間にも色々あったし……気づけばもう後期なんて、ちょっと実感わかないよ」
「でも、後期はもっと大変になるでしょうね」
レティアは少し真剣な顔になり、手帳を軽く指で叩いた。
「実戦寄りの内容、増えるもんね」
アリスが深く頷く。
「ええ。でも……あなたとなら乗り越えられるって、ちゃんと思ってるわよ」
レティアはそっと笑い、横目でアリスを見た。
アリスは一瞬驚き、そして照れを隠すように視線をそらした。
「……ありがと。レティアと一緒なら、私もきっと大丈夫」
教室の扉が遠くで開く小さな音がし、静かなざわめきが一度収まる。
「講義、始まりそうね」
レティアが姿勢を正す。
「うん」
アリスも背筋を伸ばし、正面を見据えた。
二人は自然と息を合わせ、始まろうとする後期の第一歩を静かに迎えた。
今日の講義名は《実地演習Ⅰ──対魔物討伐訓練》。
教壇に立つ講師の姿はない。
集合場所は講堂ではなく、学院敷地の東側に広がる《訓練林》。
訓練林の入口に到着すると、既に多くの学生が集まっていた。
そこは高い木々に囲まれた半円形の広場で、地面は踏み固められた土と砂利が混じり合い、中央には演習用の簡易拠点が設置されている。
武具を背負った生徒たちは、足踏みや軽いストレッチをしながら、これから始まる実戦形式の演習に備えていた。
緊張して黙り込む者もいれば、互いを鼓舞するように短い会話を交わす者もいる。
「……やっぱり、この空気。試験とも実習とも違うな」
「当たり前だよ。今日は“本番の入り口”なんだから」
そんな囁きも、あちこちから聞こえていた。
そんな中、一人の男が前に進み出て名乗った。
「初めましての者も多いな。私はガルド・ヴァルスト。探索者育成部における対魔物戦闘技術の指導を担当している。以後、演習時には『教官』と呼んでもらって構わない」
彼は恰幅の良い体格に、風格を備えた姿をしていた。
肩幅は広く、腕は太く、鍛え抜かれた筋肉が服の上からでもはっきりと分かる。
短く刈り込まれた髪は白いものが混じり、その顔には戦場で刻まれた深い皺が走っていた。
視線は鋭く、それでいて、部下や教え子を真剣に守る者の眼差しを持っている。
「今回の《実地演習Ⅰ》の目的は、学院内で習得してきた魔術・戦術を実戦で応用することだ。班ごとの役割分担、索敵、対処判断、被害抑制、そして連携。実際に討伐対象となるのは訓練用に制御された魔物群だが、油断すれば負傷では済まん。緊張感を持って臨め」
その一言で、周囲に漂っていたざわめきがすっと引き、場に冷たい緊張が満ちる。
小さく息を呑む音が、あちこちで上がった。
「では、班編成の発表に移る。今回は学院側の判断で、各自の能力や相性を加味して編成済みだ。名簿を確認して、各自の班に集合せよ」
木製の掲示板に貼り出された名簿へ、生徒たちがざわざわと集まっていく。
アリスもその中に混じり、視線を走らせた瞬間、眉をわずかにひそめる。
「……レティアと、別?」
すぐ隣で同じ表を見ていたレティアが、肩をすくめ、口元に小さな笑みを浮かべる。
「ま、当然かしらね。うちらが同じ班じゃ、バランスが壊れるって判断されたんでしょう」
「まあ……それは、そうかもだけど」
アリスは頬に手を当て、苦笑いを漏らした。
「大丈夫よ。別でもすぐ会えるし、終わったら結果を見せ合いましょう」
レティアが軽くウインクする。
ほどなくして、ガルド教官が再び前に出て、理由を明確に告げた。
「アリス・グレイスラー、レティア・エクスバルド。君たちは他の学生に比して実戦経験と能力が飛び抜けている。同じ班に編成した場合、演習の成立が難しくなると判断した。よって今回は、それぞれ別班での参加とする」
アリスは静かに頷き、納得の息を吐く。
「なるほど……まあ、納得」
レティアも同じように軽く頷き、声を潜めて言う。
「アリス、後で合流して話を聞かせてね。あなたのことだから、また何かしら“やらかす”んじゃないかって、ちょっと心配してるの」
「ちょっと!? ……まあ、気をつけるよ」
アリスがむくれると、レティアは楽しそうに笑った。
まだ見ぬ仲間との連携、未知の魔物との実戦――胸の奥で、緊張と期待がせめぎ合う。
「第十五班、こちらに集合!」
担当補佐の呼び声に歩み寄ると、すでに三人の生徒が集まっていた。
――その一人目。
鋭い目つきの少年、ラース・エルヴァン。
短く刈り込んだ黒髪に精悍な顔立ち、引き締まった体格。
腰には双剣を携え、鞘口には手入れの行き届いた銀色の刃がちらりとのぞく。
「アリス。今回同じ班とはな」
声は低く落ち着いており、余計な感情を挟まない。
「前の試合のときみたいに、お互い足を引っ張らないようにしよう」
「もちろん。むしろ心強いよ。よろしくね、ラース」
二人目は、柔らかな金髪を三つ編みにまとめた少女、ミレーネ・フォルトナー。
回復魔術と結界術を専門とし、常に穏やかな笑みを浮かべる温厚な性格。
アリスと目が合った瞬間、とびきりの笑顔が弾けた。
「やった! アリスと一緒の班なんて、嬉しすぎる!」
「私も嬉しいよ。ミレーネの結界、すごく頼りにしてるから」
「ふふん、任せて! 今日は万全のサポートするからね!」
三人目は、長身痩躯の少年、ザック・ミルドレイ。
長い前髪の奥に光る鋭い瞳と、整った眼鏡の奥の冷静な視線。
解析魔術と遠隔観測を得意とし、演習では的確な情報支援を行う。
アリスに視線を送り、簡潔に言った。
「噂は聞いてる。今日の演習、よろしく頼む」
「うん、こちらこそ。連携、大事にしようね」
ザックは短く頷き、手にした術式板を確認し始めた。
三人とも顔馴染みであり、互いの力量をある程度理解しているため、無駄な緊張はなかった。
むしろ――アリスの胸には、ほんの少し高揚感が芽生えていた。
「……よし。やるぞ」
その小さな呟きが、演習開始への心構えを静かに固めていった。
そこへ、ガルド教官の声が再び飛ぶ。
「各班は、リーダーを決めろ。戦闘中の指揮系統が曖昧では連携も命令伝達も崩壊する。リーダーは必ず一人だ。加えて戦闘時の配置──前衛・中衛・後衛──も話し合え」
アリスたちは自然と輪になり、短い相談が始まった。
「リーダーは……アリスが適任よね?」
ミレーネが即答し、迷いのない声で続ける。
「判断も早いし、状況に合わせて魔術の切り替えもできるし。信頼できるもの」
ラースも腕を組んだまま頷いた。
「異論はない。俺は前の試合で身に染みてる。アリスの判断なら、後衛の安全も含めて任せられる」
ザックも眼鏡の奥の瞳を細め、淡々と言う。
「リーダーは情報処理の負荷が大きい。僕がやるより合理的だと思う」
突然の全会一致に、アリスは少し目を瞬いた。
「……そんなに推されると、逆に緊張するんだけど」
ミレーネがくすっと笑う。
「大丈夫よ。アリスがリーダーじゃなかったら、逆に不安になるくらいだもの」
アリスは息を整え、仲間へと視線を巡らせた。
「任された。責任は果たす。みんなの力、借りるからね」
配置はすぐに決まった。
前衛はラースが双剣で牽制と引きつけ役。
後衛はミレーネが回復と防御支援を担当し、全体をカバー。
ザックは中衛で分析と索敵、必要に応じ幻術妨害も行う。
そしてアリスは中衛から前衛への可変ポジションとして、全体の指揮を兼ねることになった。
ラースが軽く肩を回しながら言う。
「前に出るのは任せろ。アリス、危険なときは遠慮なく指示を出せ」
ミレーネは両手を胸の前で合わせ、明るい声で続ける。
「私も後ろから全力で支えるからね! 結界の維持も任せて!」
ザックは術式板を操作しながら付け加えた。
「敵の位置情報、魔力反応、動きの傾向……可能な限り即時共有する。判断材料は渡すよ」
「ありがとう。みんな、本当に頼りにしてる」
班の編成が固まり、アリスは代表としてガルド教官に報告する。
「報告します。《第十五班》、リーダーはアリス・グレイスラー。編成は、前衛ラース・エルヴァン、中衛ザック・ミルドレイ、後衛ミレーネ・フォルトナー、そして私が中衛兼指揮です」
ガルド教官はアリスの目をまっすぐに見据え、短く頷く。
「確認した。戦術面の選択も妥当だ。リーダーとしての責任を忘れるな」
「はい」
その声は自然と引き締まり、背筋がぴんと伸びた。
仲間たちの元に戻る途中、アリスは胸に手を当て、小さく呟いた。
「……ついに、始まるんだ」
その言葉には、不安よりも期待が宿っていた。
これまで積み重ねてきた日々と覚悟を静かに確かめるように、凛としていた。
その呟きを聞きつけたミレーネが、そっと肩を叩いた。
「大丈夫。アリスならできる。私たち、ついていくからね」
ラースも静かに剣帯を締め直しながら言う。
「気負うな。やるべきことをやればいい。それだけだ」
ザックが淡々と付け加えた。
「演習は始まった時点で半分終わってる。後は精度の問題だ」
アリスは三人を見回し、微笑む。




