第四部 第ニ章 第14話
魔導車は柔らかく規則的な振動を刻みながら、《大空洞》の中央道を滑るように進んでいた。
エクスバルド領を発ってから、すでに二時間が経過している。車内にはほどよい沈黙と、旅路の疲労感がゆったりと満ちていた。
分厚い魔力強化ガラス越しに見えるのは、果てしなく続く黒灰色の岩壁。その岩肌は自然のままではなく、どこか研ぎ澄まされた刃物で削られたようなわずかな平滑さを帯び、その間を埋めるように一定間隔で設置された魔導灯が淡く金色の光を投げかけている。
頭上――大空洞の天井には大小さまざまな魔導石が列を成して規則正しく並び、いくつかは乳白色の輝きを帯び、いくつかは琥珀色に光を放っている。それらが交互に瞬きながら、地下空間全体を柔らかく照らしていた。
どこまでも広がる光景は、自然の力と人工の技術が緻密に融合した、静謐な地下神殿を思わせる。光は時折通り過ぎる岩壁の割れ目に反射し、揺れる黄金の筋となって車窓を流れた。
アリスがふと横を見ると、レティアはいつの間にか静かに目を閉じ、ゆったりとした呼吸をしていた。肩まで届く栗色の髪がわずかに揺れ、頬には魔導灯の光が柔らかく差している。薄く開いた唇が、安らぎの寝息に合わせて微かに動く。
その表情は、普段の気品ある佇まいとは違い、年相応の少女らしいあどけなさが残っていた。アリスはほんの少しだけ微笑み、視線を外さずにその様子を見守る。
「……ねえ、アリス」
隣でクラリスが囁いた。レティアを起こさないよう、声は糸のように細い。
アリスは小さく首を傾ける。
「ん?」
「王都に戻ったら……まず何をするつもり?」
アリスは目線を少し上へ向け、考えるように息を整えた。
「そうだな……寮の掃除。出発前に机の上が大惨事のままだったんだよね」
クラリスは思わず口元を押さえて笑う。
「ふふ、あなたらしいわね。帰宅一言目が『片付けだ』なんて」
アリスも小さく笑う。
「じゃあクラリスは? 研究室?」
「もちろん。測定器のデータが気になって仕方ないの。あれ、あなたの魔力量を参考にしたモデルだから……精度がすごく上がってるはずなのよ」
「え、本当に? ちょっと楽しみになってきた」
クラリスの瞳が、淡い魔導灯の反射で揺れた。
「でも、その前に――寝不足解消が先じゃない? アリス、最近また夜の訓練してたでしょう」
アリスはびくっと肩を揺らす。
「……見てた?」
「見てたわよ。あなたの魔力の“揺れ方”で全部分かるの。……ああ、この子また無茶してるって」
アリスはむずがゆそうに頬を指で押した。
「クラリスの前じゃ隠せないなあ……」
クラリスは少しだけ悪戯っぽく微笑む。
「三百年前からの観測対象だもの。今さらよ」
アリスは苦笑しつつ、眠っているレティアへ視線を移した。
「でも……できるだけ無茶は減らすよ。心配されちゃうし」
「そうね。レティアなんて――」
クラリスはレティアの寝息に耳を澄ませ、さらに声を潜めた。
「寝言であなたの名前呼びそうよ」
アリスの目が丸くなる。
「えっ!? さっき呼んだ?」
「冗談よ。……でも、言いそうでしょう?」
アリスは胸を撫で下ろしながらも、少しだけ頬を赤くした。
「クラリス、意地悪」
「仲間の特権よ」
アリスは肩をすくめ、天井の魔導石へ視線を向けた。
「でもなんか……こういう静かな時間、久しぶりだな。落ち着くっていうか」
クラリスはアリスの横顔に、そっと優しい眼差しを寄せた。
「ええ。忙しい日々に戻る前に、こういう“間”があるのは大事よ。――帰る場所があって、一緒に帰る人がいる。それだけで十分だわ」
アリスは微笑み返し、わずかに目を細める。
「クラリスとレティアがいてくれるなら、それだけでいいよ」
クラリスは小さく息を呑んだ。
「……そういう言い方、ずるいんだから。ほんと、あなたは昔から変わらない」
アリスは首を傾げる。
「え? また言っちゃった?」
「言ったわ」
クラリスは呆れたふりをしながらも、頬に薄く色を差していた。
魔導車は大空洞の中央道をゆったりと進み続け、静かで温かな時間が三人の周囲を包み込んでいた。
やがて、路面の凹凸に車体がわずかに揺れたとき、レティアがまばたきをし、長い睫毛の影の奥からゆっくりと瞳を開いた。
「……あれ、私、寝てた?」
寝起きの声は少し掠れていて、まだ夢の名残を引きずっているようだった。
「うん。少しだけね。疲れてたんでしょう?」
アリスが優しく微笑むと、レティアは小さく息をつき、伸びをせずにそのまま窓の外へ視線を移した。
「夢を見た気がする……でも、もう思い出せないわ」
「大丈夫、これから見る景色がきっと上書きしてくれるよ」
アリスの言葉に、レティアの口元がかすかに緩む。
「何度見ても……この大空洞のスケールって、圧倒されるわよね」
クラリスが、背もたれに身を預けながら低く呟いた。
「この空間そのものが、地脈の流れに沿ってできたって話、本当なのかもって思えてくるよね」
アリスは視線を外に向けたまま、車体の揺れに合わせてそっと微笑を浮かべた。
「うん。私も最初に通ったとき、しばらく口が開いてたと思う」
レティアが笑い混じりに言い、今度は堪えきれずに小さな欠伸をこぼした。
クラリスがすかさず覗き込むようにして小声で言う。
「まだ眠そうね。もう少し寝ててもいいのよ?」
レティアはふるふると首を振る。
「だめよ……アリスとクラリスが話してるのに、私だけ寝てるの、なんだか……もったいない気がして」
アリスが目を丸くする。
「え、そんな理由?」
「そんな理由よ。……ふたりの声、落ち着くんだもの」
クラリスは思わず肩を震わせた。
「かわいい理由を言うんだから」
レティアは頬が少し赤くなるのを隠すように窓の外へ顔を向ける。
「そういうクラリスこそ、さっきアリスの肩に寄りかかったとき、絶対写真撮りたい顔してたよね?」
アリスが茶化すと、クラリスはむせそうになりながら反論した。
「ち、違うわよ! あれは……ほら……純粋に微笑ましい“観測対象”として……!」
レティアがじと目になる。
「……観測対象って言ってる時点でアウトよ、クラリス」
アリスがこくこく頷く。
「だよね」
クラリスは両手を軽く上げて降参の姿勢をとった。
「はいはい、悪かったわよ。でも、こうして三人でのんびり移動って、珍しいじゃない?」
レティアがしみじみと呟く。
「そうね。学院でも任務でも、誰かしら忙しいものね」
――やがて、長い地下道を抜ける。
視界に差し込むのは、徐々に強まる自然光。
魔導車が傾斜を登り切ると、開けた丘陵と緩やかな平野が広がった。
地上の風が魔導車の側面を軽く打ち、光が車内を満たす。
レティアが目を細める。
「……わあ。外、こんなに明るかったのね」
アリスが窓を指差した。
「見て、雲の影。あれ、王都方面だよ」
クラリスが目を細める。
「本当ね。あの薄い青の層……高度結界の反射だわ」
レティアは息を飲むように微笑む。
「見えてきた。王都だわ。……なんだか、帰るって実感してきた」
アリスも同じく笑みを浮かべた。
「うん。もうすぐ、いつもの日常に戻るね」
クラリスが静かにまぶたを伏せる。
「でも、今日のこの時間は、きっとしばらく忘れないと思うわ」
三人を乗せた魔導車は、光の中を滑るように王都へ向かって走り続けていった。
その向こうに、王都ファーレンの白壁と尖塔群が陽光を受けて輝いていた。
遠目にも、その輪郭は毅然として美しい。
王都の入都ゲートでは、簡易的な魔力認証と身分確認が行われた。
特別通行車両であるため手続きは滑らかに進み、守衛の軽い敬礼と共にゲートが開く。
市街地に足を踏み入れると、三人の視線は自然と車窓へ引き寄せられた。
整備された石畳の大通り。
昼下がりの陽光を受け、街路樹の若葉が風に揺れてきらめく。
魔導灯の柱には季節を告げる花飾りや彩布があしらわれ、通りを行く市民たちは穏やかな表情で歩を進めている。
パン職人が店先に並べた焼き立ての籠パンからは香ばしい匂いが漂い、路地裏からは子どもたちの笑い声がかすかに届く。
「……この景色、ついこの間見たばかりなのに、不思議と懐かしく感じる」
クラリスが、ゆったりとした声で呟いた。
「観光じゃなくて、帰ってきたって感じだね」
アリスが続ける。
王都の中層区に差し掛かると、あの巨大な「空中回廊」が再び車窓に姿を現した。
観光初日に歩いたその場所が、三人の記憶を一斉に呼び起こす。
「空中回廊……もう通った場所なのに、やっぱり目を奪われるわ」
「夕暮れ時に見た景色、すごく綺麗だったよね」
「うん。
ああいう時間って、きっと一生残るんだと思う」
やがて魔導車は中心部に進み、政庁前の白亜の円形広場を通過する。
中央には、王祖レティシア・ファーレンナイトの像が厳かにそびえていた。
観光の折に訪れたあの瞬間が、アリスの胸に静かに蘇る。
クラリスが見上げた像の瞳――過去と現在を結ぶその眼差しは、今も変わらぬ尊厳を宿していた。
魔導車はさらに進み、やがて王立魔導学院の門前に差し掛かる。
重厚な石造りの門柱の間を抜けると、広大な敷地の緑が広がり、遠くには講義棟や塔のシルエットが空に溶けていた。
芝生の間を学生たちが談笑しながら歩き、制服の袖やスカートを風が軽く揺らす。
やがて車体が静かに停車すると、内部の照明がふわりと落ち、扉が滑らかに開いた。
外の空気がひんやりと頬を撫で、旅の熱を和らげていく。
アリスは窓の外を一瞥し、小さく息を吐いた。
「……戻ってきたね」
レティアは深呼吸をひとつし、クラリスは背伸びをしながら扉へ歩み寄る。
三人は順に外へ出ると、長時間の移動で固まった体をほぐすように肩を回し、背筋を伸ばした。
「さすがに腰が固まっちゃったわ」
クラリスが苦笑しながら言う。
「でも、こうして学院の門を見るとホッとする」
レティアも頷き、アリスはにっこりと微笑んだ。
「またここで勉強の日々が始まるって思うと、気持ちが引き締まるよね」
少しの間、三人で談笑しながら歩いた後、クラリスがふと立ち止まり、軽く手を振った。
「私はここで失礼するわ。
今日は研究所に戻らなきゃ」
「ありがとう、クラリス。
色々と話せて楽しかった」
「また近いうちにね」
笑顔を残し、クラリスは学院の外へと歩き去った。
アリスとレティアは並んで学生寮へ向かい、それぞれの部屋に戻る。
夕刻の学院寮は、柔らかな橙色の光に包まれていた。
廊下を照らす魔導灯は昼間よりも穏やかに輝き、学生たちの足音や談笑が遠くから微かに聞こえてくる。
アリスは自室の窓を少し開け、外の空気を吸い込んだ。
大空洞から王都までの旅路を終えたあとの空気は、どこか懐かしく、胸の奥を静かに落ち着かせてくれる。
「……やっと、戻ってきたな」
思わず漏れた独り言に、自分で小さく笑う。
扉が控えめにノックされた。
アリスが振り向くと、レティアが顔を覗かせていた。
「アリス。少し、いい?」
「もちろん。入って」
レティアはそっと部屋に入り、窓辺まで歩きながら周囲を一度見回した。
学院寮の規則正しい配置、懐かしい調度品――そのすべてが、ようやく日常へ帰ってきたのだと実感させてくれる。
「帰ってきたんだなって……今になって、しみじみ思うの」
レティアの声は柔らかく、少し照れたようでもあった。
「そうだね。旅の時間も楽しかったけど……こうして自分の部屋に戻ると、なんだか落ち着くよね」
アリスも微笑む。
レティアは窓の外、淡く染まる学院の中庭を眺めた。
その表情は穏やかで、心の底からほっとしているのがよく分かった。
「明日から、また授業と演習が始まるけど……今日はゆっくり休めそう」
「そうだね。私も、旅の余韻がまだ残ってるけど……いい気分で眠れそう」
「ふふ、同じ気持ち」
レティアは軽く肩をすくめ、名残惜しそうに微笑んだ。
「じゃあ、また明日。おやすみ、アリス」
「うん。おやすみ、レティア」
レティアが扉を閉めると、静けさが部屋に戻った。
アリスはカーテンをそっと閉じ、ベッドに腰を下ろす。
今日の旅路で見た景色、交わした言葉、胸に残った温度――それらがひとつずつほどけていき、心の底にゆっくりと沈んでいく。
「……明日も、頑張ろう」
小さく呟き、アリスは灯りを落とした。
柔らかな闇の中、学院寮の夜は静かに、更けていった。




