第一部 第二章 第5話
剣術競技の決勝戦を告げる主審の声が、多目的ホールの中央競技場に高らかに響き渡った。
「――これより、剣術競技決勝戦を開始する!」
その宣言が放たれた瞬間、場内の空気が一変する。
先ほどまでの熱気と歓声が、まるで一斉に息を潜めるように静まり返った。
観客席の魔導灯が落とされ、中央ステージだけを照らす白光が降り注ぐ。
広大なホールの中央、円形の舞台にはわずかな砂が敷かれ、踏みしめれば音が響くほどの静寂が支配していた。
そこに、二人の影が向かい合う。
アリス・グレイスラー。
そして、ミラージュ第一魔導騎士団の若き騎士――カイル・ザックバーグ。
どちらも学院や騎士団の中で注目を集める実力者。
この場に立つまでに数多の試合を勝ち抜いてきた二人の姿を前に、観客たちは息を飲み、声を発することすら忘れていた。
カイルは一歩、砂を踏みしめて前に出る。
長身の体躯に無駄のない筋肉が備わり、軽やかに動くその肩の筋が、鎧の下からかすかに音を立てて伸び縮みする。
金属の装甲の隙間から覗く瞳は、まるで刃そのもの。
光を反射するその瞳が、まっすぐアリスを射抜いた。
彼は静かに剣を掲げ、その鋭い視線のまま名乗りを上げる。
「ミラージュ第一魔導騎士団所属、カイル・ザックバーグ。
……まさかヴェイルが負けるとは思ってなかったよ。――面白い試合をしよう」
その声には驚きよりも、どこか愉悦と闘志が混ざっていた。
負けた同胞への悔しさと、それを超える者への敬意が滲む声音。
剣士としての誇りを隠さず、堂々とした佇まいで立っている。
アリスはその姿を見据えたまま、ゆっくりと息を吐く。
胸の奥に沈む鼓動を整え、肩の力を抜きながら、腰の剣へ右手を伸ばした。
鞘鳴り――。
金属が擦れる澄んだ音が静寂を裂き、観客の意識を一斉に引き寄せる。
抜き放たれた魔導剣は、訓練用ながらも本物の重量を持つ鋼。
光を反射して、青白い輝きを返す。
アリスは剣を軽く構え、わずかに腰を落とした。
姿勢は低く、だが無駄のない構え。
風の流れすらも読み取るような静かな集中が、その全身に宿る。
「ファーレンナイト王国、学院選抜――アリス・グレイスラーです。
お手柔らかに……とは言いません。――全力でお相手します」
ほんのわずかに微笑を添えたその一言に、観客席の緊張がさらに高まる。
それは挑発でも礼儀でもなく、純粋な覚悟の表れだった。
カイルもまた、軽く口角を上げる。
「いいね。その言葉、嫌いじゃない」
短い応答のあと、二人の視線が交錯する。
その瞬間、周囲の音が完全に消えた。
観客のざわめきも、審判の息遣いも、遠くの機器音も――すべてが遠のく。
ただ、二人の呼吸だけがそこにあった。
刃先がわずかに揺れる。
アリスの金髪が微かに浮き、カイルの靴底が砂を押し固める。
互いの気配がぶつかり合い、まるで空気そのものが震えるようだった。
(……強い。けれど、怖くはない)
(相手の構えも、呼吸も――見えてる)
カイルの両腕の筋が収縮する。
視線が鋭く細まり、剣がわずかに沈む。
間合いを詰めるための、わずか一歩分の溜め――。
観客席の誰もが息を呑む中、主審が右手をゆっくりと上げる。
その手が空を切る。
「――始めッ!」
号令と同時に、空気が爆ぜた。
砂が舞い上がり、二つの影が交錯する。
決勝戦――剣と剣、魂と魂のぶつかり合いが、いま始まった。
合図と同時に、アリスが一気に踏み込んだ。
床を蹴る靴底が砂を弾き、乾いた音を立てて宙に舞う。
重心を極限まで低く――滑るような動きで、最短距離を突き進む。
最初の一撃は突きと斬りを一体化させた複合。
刃が一直線に走り、次の瞬間には角度を変えて横へ払う――まるで風の軌道を読むかのような精密な動き。
その一撃はわずかでも反応が遅れれば即、勝負が決する速度だった。
だがカイルは、さすがにミラージュの精鋭と呼ばれるだけのことはあった。
踏み込みの瞬間に腰を返し、全身をひねって刃を紙一重で外す。
すれ違いざま、金属が擦れる甲高い音が鳴り、弾けた火花が二人の間に散った。
観客席が息を飲む。
アリスは呼吸を乱さぬまま、即座に次の斬撃に繋げる。
縦、横、そして斜め――流れるような連撃。
動きの間に一切の無駄がない。
「くっ――!」
カイルは声を漏らしながら受ける。
防御というより、ほとんど反射に近い。
刃を滑らせ、腕で受け流し、時に体をひねってかわす。
だがアリスの斬撃はそれを追い、呼吸の隙間すら許さない。
踏み込みのたびに砂が舞い上がり、舞台全体が振動した。
金属音が連続し、観客たちの心拍と呼応するように高鳴っていく。
カイルは防戦一方のまま、わずかな機を見て反撃に転じた。
鋭く膝を折り、低い姿勢から足元を狙う刃――。
「――ッ!」
アリスはその動きを読み切っていた。
跳躍。
舞うように宙へ飛び上がり、すれすれを走る刃が彼女の踝のすぐ下を通過する。
着地と同時に、カイルが反撃の斬撃を振り下ろす。
それもまた一切の間を与えぬ速度。
アリスは腰を落とし、刃の軌道を読んで受け流す――しかし今度は受けるのではなく、滑るように横へ転がりながら回避。
砂の粒が跳ね、アリスの金髪が流れる。
(間合いを戻す……一度、流れを断つ)
立ち上がる瞬間、アリスは視線だけで相手の重心を見極めた。
カイルは構えを崩さず、呼吸を整えている。
息の音が混ざる――それすらも戦場の鼓動のように聞こえる。
「……悪くない」
カイルが低く呟いた。
アリスは答えず、ただ足をずらす。
間合い、わずか三歩。
その空間に、ふたたび緊張が満ちた。
そして、同時に駆け出す。
刃と刃が火花を散らし、響く音が一拍ごとに鋭さを増す。
上段からの斬り下ろし、下段からのすくい上げ、横薙ぎ、突き――。
両者の剣はまるで舞のように交錯し、金属が鳴り続ける。
カイルは攻めに転じ、剣の重さで押し潰すような斬撃を放つ。
アリスは刃圧を受けながらも、剣先をわずかにずらして流す。
反撃――だがすぐさまカイルが回転して受け止める。
刃と刃の摩擦が赤い火花を生み、観客席の前列まで光が届いた。
「まだ終わらせない……!」
カイルが踏み込みながら叫ぶ。
アリスは沈黙のまま受け流し、下段へ回り込む。
刃を滑らせながら、すれ違いざまに相手の背面へと移動――だがカイルも即座に反応し、回転しながら逆袈裟に斬り上げた。
空気が裂ける。
アリスは体をひねって避け、その反動を利用して逆手に構え直す。
剣が逆光を受けて輝き、切っ先が滑るように走る。
――ギンッ!
耳を貫く金属音が響く。
刃が交差し、互いの力が拮抗する。
カイルの腕が震え、アリスの足が砂を掘り込む。
力の均衡が崩れた瞬間――。
アリスが重心を沈め、滑るように踏み込む。
剣が閃光のように走り、カイルの懐へと潜り込む。
刃がわずかに脇腹をかすめた。
次の瞬間にはもう、アリスの剣先が彼の喉元に向けられていた。
空気が止まる。
ほんの数センチ。
その距離に、観客の全員が息を詰めた。
「……ッ!」
カイルの目が大きく見開かれる。
彼は反射的に身を引こうとしたが、すでにアリスの剣は動きを封じていた。
刃の切っ先がわずかに喉元を撫でる――だが、決して切らない。
主審が右手を高く掲げる。
「――それまでッ! 勝者! アリス・グレイスラー!!」
瞬間、会場が爆ぜたように揺れた。
割れんばかりの拍手と歓声が響き渡り、地面が震える。
アリスは息を吐き、静かに剣を引く。
刃を鞘に納める動作は静かで、研ぎ澄まされた気配を残したまま。
カイルも深く息を吐き、剣を納める。
額には汗が流れ、荒い息が鎧の隙間から漏れる。
それでも、その表情には潔い笑みが浮かんでいた。
「……完敗だ。まさかここまでとは思わなかったよ、アリス・グレイスラー」
その言葉は、敗北ではなく称賛の響きを持っていた。
アリスは少し照れたように微笑み、静かに頭を下げる。
「こちらこそ、手強かったです。途中、本当に押されそうでしたから」
カイルは肩をすくめ、軽く笑う。
「いや、あの速度……ついていける奴なんて、そうそういないさ。俺もまだまだ修行だな」
互いに礼を交わす二人の姿を見て、観客席は再び大きな拍手に包まれた。
若き剣士たちの激闘――それは勝敗を超えて、純粋な技と心のぶつかり合いとして、見る者すべての胸に深く刻まれていった。
ステージ脇では、レティアが瞳を輝かせ、まるで子どものように頬を紅潮させていた。
胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、興奮のあまり息を弾ませながら、アリスの名を叫ぶ。
「アリス! すごかったよ! 最後の動き……あれは本当に人間の速さじゃないって!」
観客の歓声がまだ止まぬ中、彼女は抑えきれない勢いで駆け出した。
観客席の端を抜け、舞台の階段を二段飛ばしで駆け上がる。
制服の裾が翻り、髪がふわりと舞う。
そして勢いそのままに、アリスの胸に飛び込んだ。
突然の衝撃に、アリスは一瞬だけよろめく。
しかしすぐに姿勢を整え、軽く片腕を支えに回しながら、レティアの頭をやさしく撫でた。
掌に伝わる柔らかな髪の感触と、興奮で早まった彼女の鼓動。
アリスの表情には、戦いを終えた安堵と、少しだけ照れくさそうな微笑が浮かんでいた。
「ありがとう、レティア。ちゃんと見ててくれたんだね」
その声は静かで、しかし温かい。
レティアは嬉しそうに顔を上げ、潤んだ瞳で何度も頷いた。
「うん……全部! 一撃も見逃してないよ! あの回転からの逆手の構え……あれ、練習してたやつでしょ? 本番であんなに綺麗に決まるなんて……!」
興奮のあまり、言葉が途切れ途切れになる。
アリスは軽く笑いながら、「ええ、まあ……ちょっと形を変えたけどね」と答えた。
そのやり取りを見守る周囲も、どこか温かな空気に包まれていた。
ホールの照明が少しずつ明るさを取り戻し、舞台の砂煙がゆっくりと沈んでいく。
剣術決勝戦――その緊張感とは対照的に、今は穏やかで、確かな余韻が漂っていた。
後方では、エルネスト団長とレオ班長が並んで立ち、観客席の喧騒を背にしながら小声でやり取りを交わしていた。
エルネストは腕を組み、真剣なまなざしでアリスの背を見つめている。
「……やっぱりすごいな、グエン卿の孫娘。剣の動きが完全に実戦だ」
その声には驚きよりも、むしろ感嘆の色が混ざっていた。
レオはそれを聞き、胸を張って誇らしげに笑う。
「だから言ったろ? あの子は本物だってさ」
エルネストは短く息をつき、少しだけ目を細めた。
「……学院のレポートで、彼女は剣術部門2位だったとあったが……正直、どう考えても1位だろう。なぜ2位なんだ?」
レオはその問いに、待ってましたと言わんばかりに口角を上げた。
「そこなんですよ、エルネスト団長。試合中にアリスの模擬剣が折れちまったんです。規定上、替えが許されなくて、そのまま続行不能で相手の勝利判定。
……内容はほとんどアリスの圧勝だったんですけどね」
「……そういうことか」
団長は深く頷き、視線を再びステージに向ける。
その眼差しには、戦士としての敬意と興味が宿っていた。
「なるほど……厳しい修練を積んできたのが一目でわかる。あれは、才能だけじゃない。――積み重ねてきた時間の重みだ」
その言葉に、レオもまた誇らしげに微笑む。
「ええ。あの子はただ“強い”んじゃない。自分の力をちゃんと制御できる。そこが本物の証です」
エルネストは満足げにうなずき、静かに呟く。
「……良いものを見せてもらった」
ステージ上では、アリスが深く一礼していた。
その姿は、戦いを終えた勝者でありながら、驕ることなく、ただ正しく努力を示す者の背だった。
観客席からは惜しみない拍手が再び降り注ぐ。
次第にその音は大きくなり、まるで波のようにホール全体を包み込む。
レティアがその音に包まれながら、隣でぽつりと呟いた。
「……やっぱり、アリスって特別だね」
アリスはその言葉を聞き、横目で彼女を見て、静かに微笑んだ。
「特別なんかじゃないわ。ただ――みんながいたから、ここまで来られたの」
その一言に、レティアは胸の奥が熱くなるのを感じた。
歓声の中、舞台を照らす光が二人を包み、砂埃の中で淡く輝いていた。
こうして、ミラージュとの合同演習・剣術競技の幕は下りた。
それは、ただの勝敗を超えた、若き戦士たちの物語。
歓声と称賛の波の中で――決勝戦の余韻は、静かに、しかし確かにこの場の誰の心にも焼きついていったのだった。




