第四部 第ニ章 第12話
食堂へ降りると、窓から差し込む朝の光が白いクロスの上に柔らかな金色を落としていた。
磨き込まれた銀の食器や陶器の皿がその光を反射し、清潔な光沢を放っている。
香ばしいパンの匂いと、淹れたての茶の香りが混ざり合い、静かな朝の空気に溶け込んでいた。
長いテーブルの中ほどには、すでにクラリスとレティアが席についていた。
クラリスは落ち着いた笑みを浮かべ、白磁のカップから立ちのぼる湯気に目をやっていた。
レティアは半分ほど食べかけのパンにバターを丁寧に塗っている最中だった。
「おはよう、アリス。よく眠れた?」
クラリスが顔を上げ、柔らかな声で迎える。
その瞳には、昨夜から続く穏やかな空気がそのまま宿っていた。
「……うん。少し変な夢を見たけど、もう平気」
アリスは席に着きながら答え、背筋を軽く伸ばす。
夢の中の余韻はまだ体の奥に残っていたが、それを声には出さない。
「ふふ、あんまり怖い夢だったら、言ってくれていいのよ?」
レティアが冗談めかして言うと、その口元には茶目っ気のある笑みが浮かぶ。
アリスも肩をすくめて微笑み返す。
そのやり取りは、長年の友人同士だからこその自然な間合いだった。
「大丈夫。ほんとにちょっと昔を思い出しただけだから」
アリスがそう付け足すと、クラリスはわずかに眉を寄せたまま頷いた。
「昔……ね。アリスがそう言うと、なんだか大きな意味がありそうに聞こえるわ」
クラリスは軽くカップを置き、温かな視線を向ける。
「体調に問題がないならいいけれど。無理してるようだったら、ちゃんと言いなさいね?」
「うん、ありがとう。ほんとに大丈夫だよ」
アリスは照れくさそうに笑う。
その声に、レティアもバターを塗る手を止めてアリスを見る。
「そう。なら安心したわ。アリスって、いつも“だいじょうぶ”って言うけど、たまに心配になるんだから」
レティアは少し頬をふくらませつつも、優しさを隠せない声音だった。
「え……そんなに?」
アリスは思わず苦笑する。
「私、そんなに信用ない感じ?」
「信用がないんじゃなくて……」
レティアはパンを一口かじってから、続けた。
「アリスは強いし、出来ちゃうからこそ、言わなそうなのよ。“しんどい”って」
「そうそう。アリスさん、気遣い上手だから、逆に自分のことになると雑なんだから」
クラリスも茶目っ気たっぷりに肩をすくめる。
「うっ……そこまで言われると反論できない……」
アリスは頬を赤らめ、耳にかかった髪を整える。
「ほんと、二人には敵わないな」
レティアがくすりと笑う。
「敵わなくていいじゃない。私たち、そういう関係でしょ?」
「そうね。アリスが全部一人で背負わなくていいように、私たちがいるんだから」
クラリスは冗談めかしながらも、心の底からの声で言った。
「……ありがとう」
アリスはふと手を止め、二人の顔を見た。
その笑顔の奥にある安心感は、朝の光よりも温かかった。
アリスが席につき、少し落ち着いた頃には、テーブルに並ぶ料理の温かな香りが自然と胸をゆるませていた。
皿には香ばしく焼かれたパン、ハーブ入りの半熟卵、瑞々しい果物が彩りよく並んでいる。
焼き立てのパンから立ちのぼる湯気には小麦の甘い香りがあり、ハーブの爽やかな香りがほのかに鼻をくすぐった。
昨夜の豪華な晩餐とは打って変わり、今朝の食卓には家庭の温もりを感じさせる素朴な丁寧さがあった。
アリスはその雰囲気を胸の奥で味わいながら、パンを小さく千切って口に運ぶ。
「ねえ、出発って何時ごろにする?」
レティアが軽く時計に目をやり、フォークを指先でくるくる回しながら問いかけた。
「学院には昼過ぎには戻っておきたいんだけど」
クラリスは一旦フォークを置き、湯気の立つカップに目を落としながら少し考える仕草を見せる。
「この距離だと、魔導車でどのくらいかかるのかしら?」
「順調なら三、四時間くらいかな。半日もかからないわ」
アリスが果物をつまみながら答えると、クラリスは小さく目を丸くした。
「へぇ……やっぱり早いのね」
クラリスは感心したように頷く。
「魔導馬車だと、あの道のりは丸々二日はかかるもの。振動もあるし、休憩も必要だし」
「でしょ?」
アリスは楽しげに肩をすくめる。
「私も初めて乗ったときは感動したわ。浮遊安定機構のおかげで揺れも少ないし、速度調整も楽なの」
「なるほど……研究対象としても興味深いわね」
クラリスはほのかな熱を帯びた目で呟いた。
「魔力制御の仕組み、あとで少し見せてもらってもいい?」
「いいよ。むしろクラリスに見せたら、逆に私が何か教えてもらえる気がするけどね」
アリスの冗談に、クラリスは照れくさそうに微笑んだ。
レティアはそんな二人のやり取りを見て、温かい視線を向ける。
「じゃあ、今日はゆっくりめに出ても間に合うかな?」
「そうね……十時ごろに出れば余裕があると思うわ」
レティアが言うと、三人は自然と視線を合わせて頷き合った。
「荷物はもうほとんどまとめてあるし、朝のうちに少し散歩してもいいかも」
アリスが軽く言うと、レティアが目を輝かせる。
「いいわね。それなら庭の東側、ちょうど花が咲き始めてる場所があるの。風も気持ちいいはずよ」
レティアはパンを小さくかじりながら続ける。
「ほら、昨日クラリスさんが言ってたでしょ? “この地域の植物相を見てみたい”って」
「え、覚えててくれたの?」
クラリスは驚いたように目を瞬かせた。
「……なんだか嬉しいわ」
「もちろん覚えてるわよ」
レティアは柔らかく笑う。
「アリスの大切な友達なんだから、私も大事にしたいの」
「レティア……」
クラリスは一瞬言葉を失い、頬をほんのり染めて視線を落とした。
アリスはその二人を見ながら、思わず口元を緩めた。
「ほんとに……三人一緒だと落ち着くなぁ」
ゆったりと流れる朝の時間の中で、帰還のための小さな段取りが穏やかに形を取っていく。
まるで、これから先に訪れる出来事を静かに照らすための、優しい光のように。
朝食を終えると、それぞれが客間へ戻り、荷物の整理と身支度を始めた。
廊下では、使用人たちが忙しなく行き来しながらも、すれ違いざまに笑顔で一礼をする。
レティアは屋敷の使用人に魔導車の準備を指示し、アリスとクラリスも動きやすい旅装に着替えた。昨夜のドレス姿とは異なり、今は軽やかで実用的な雰囲気だ。
「うん、これでよし……。あ、クラリス、その荷物重くない?」
アリスが腰のポーチを整えながら横目でクラリスを見る。
「大丈夫よ。ほとんど書類と魔導具だけだもの」
クラリスは微笑んで答え、肩に掛けた鞄を軽く叩いた。
「アリスのほうが荷物、多くない?」
「え? えっと……ほら、演習用の予備装備とか色々……ね?」
アリスは視線を逸らし、口元を引きつらせながら笑った。
レティアはその様子に小さく肩を揺らした。
「相変わらずね、アリス。心配性なのか準備万端なのか、判断に困るわ」
「どっちも、かな?」
アリスは頬を掻きながら笑い返した。
使用人の一人が近づき、丁寧に一礼する。
「レティア様、魔導車の準備が整いました。いつでも出発できます」
「ありがとう。すぐ向かうわ」
レティアは柔らかく答え、アリスとクラリスに振り返った。
「二人とも、準備はどう?」
「私はいつでも行けるよ」
アリスは荷物を背負い直し、軽く足首を回してみせる。
「うん、よし。万全」
「私も問題ないわ。あとは……そうね、少し名残惜しいくらい」
クラリスは廊下の窓越しに庭を見やり、細い息をひとつ落とす。
「この屋敷、落ち着くのよね。静かで品があって……空気が澄んでるみたい」
「でしょ?」
レティアは嬉しそうに微笑んだ。
「アリスが来るときもよく言うのよ。『ここの空気、落ち着く』って」
「う……まあ、ね。レティアの実家って感じがして……ほっとするんだよ」
アリスは少し照れたように頬を赤くし、耳にかかった髪を直した。
クラリスはそんな二人を見て、柔らかい笑みを浮かべる。
「ふふ……いいわね、そういう場所があるのって」
「クラリスさんも、また来ればいいのよ?」
レティアがさらりと言う。
「え? ……そ、そんな簡単に言うものなの?」
クラリスは思わず目を丸くし、頬を染める。
「もちろん。本気よ。二人とも歓迎するわ」
レティアはためらいもなく言葉を続けた。
「あなたはアリスの大事な友人だもの。私にとっても同じよ」
「……レティア」
クラリスは胸の前で小さく手を結び、微笑んだ。
「ありがとう。本当に……嬉しいわ」
アリスはそんな二人を見て、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
「それじゃ、出発しよっか。……帰るって言っても、なんだか小さな旅みたいだね」
「そうね。じゃあ、小旅行の気分で行きましょう」
レティアは楽しそうに言い、三人は荷物を手に階段へと向かった。
屋敷の玄関へ進むほどに、外の風の気配が少しずつ近づいてくる。
今日という一日が、また新しい記憶になることを予感させながら。
やがて玄関前へ出ると、そこには見送りのために整列した屋敷の人々が待っていた。
ロベルト・エクスバルド伯爵は背筋を伸ばし、堂々たる立ち姿で三人を迎えた。
その隣には、優雅な笑みを浮かべるアイリス・エクスバルド夫人、そして栗色の髪を持つ落ち着いた雰囲気の女性――レティアの姉、セリア・エクスバルドが立っていた。
端正な顔立ちに、姉としての静かな温かさが漂っている。
執事のオスカーと、きちんと整列した使用人たちも控えていた。
「レティア。短い滞在だったが、よく友を招いてくれた」
伯爵の低く落ち着いた声が、朝の空気に静かに響く。その視線がアリスとクラリスへ向けられる。
「アリス君、クラリスさん。娘の客人として、我が家に温かな時を与えてくれたこと、感謝する」
その言葉には、貴族としての威厳と、人としての誠実さが同居していた。
「とんでもありません。こちらこそ、もてなしに感謝しております」
アリスが一歩前に出て深く頭を下げ、クラリスも優雅に礼を取った。
「私からも改めて。快い滞在を本当にありがとうございました」
アイリス夫人はふわりと笑い、レティアの肩に手を置いた。
「ふふ……若いお嬢さんたちの笑い声が屋敷に満ちて、私も嬉しかったのですよ」
そして娘に向かって優しく諭すように続ける。
「レティア、あなたもたまにはこの屋敷に帰って、こんなふうに友達と過ごしてごらんなさいな。城や王都ばかりに籠っていると、心が硬くなるわ」
「……うん。そうだね、母さま」
レティアは少し照れたように微笑み、視線をわずかに逸らした。
「またいつでも、遊びにいらしてくださいね。次はもっと長くいてくださると嬉しいですわ」
アイリス夫人がアリスとクラリスへ向けて言葉を添えると、執事のオスカーが静かに頭を下げた。
「お三方のまたのご来訪を、心よりお待ちしております」
続いて、伯爵夫妻がレティアの方へ歩み寄った。
まず伯爵が娘の肩を大きな手で包み、軽く引き寄せる。
普段は公務の場で見せぬ穏やかな笑みが、口元にわずかに浮かんでいた。
「身体には気をつけろ。王都での務めも大切だが……無理はするな」
短い言葉ながら、その声には深い愛情と心配が滲んでいた。
続いてアイリス夫人が娘を抱き寄せ、柔らかな香りに包まれるような抱擁を交わす。
「また帰ってらっしゃい、レティア。母はいつでも待っているのだから」
その囁きに、レティアは小さく頷き、腕の中でほんのわずかに目を閉じた。
そして、セリアが静かに一歩前へ出る。妹と向き合い、ふっと優しく微笑む。
「気をつけて行ってらっしゃい、レティア。……あまり根を詰めすぎないように」
その声は、姉としての穏やかな包容力を含んでいた。
レティアは少し目を細めて「うん、ありがとう。セリア姉さまも元気で」と答えると、二人は軽く抱き合った。
温かいぬくもりと、言葉では足りない思いが短い時間に込められていた。
玄関先に停まっていた魔導車は、深紅の塗装に銀の装飾が映える上品な造りだった。
地面からわずかに浮かび、浮遊魔導石の淡い光が車体の下で脈動している。
扉が開かれると、内装には深い緋色の座席と柔らかなクッションが備えられ、外の冷気を遮る心地よい温度が保たれていた。
「……やっぱり、実家の魔導車って落ち着いた雰囲気よね」
レティアが小さく息を吐き、座席の縁を撫でながら呟く。
その声音には、故郷の空気に触れたあとの名残惜しさが滲んでいた。
「本当ね。王都の公用車より、ずっと静かで安定してる気がする」
クラリスは車内の揺れのなさを確認するように、背もたれに軽く寄りかかる。
視線は窓の外に向けられ、屋敷の人々の姿をゆっくりと目で追っていた。
「……うん。なんか、あったかいよね。エクスバルド家って」
アリスは膝の上で手を合わせ、遠ざかっていく玄関前に目を向けたまま言った。
その小さな笑みには名残惜しさと、家族の温かみを思い出すような柔らかさがある。
「じゃあ、行ってきます」
レティアが最後に手を振り、扉を閉じる。
その指先には、ほんの少しだけ離れることへの寂しさが宿っていた。
魔導車が静かに浮上し、ほとんど音を立てないまま滑るように進み出す。
門の外へ出る瞬間、車体の影が石畳を離れ、屋敷の温かな光景がゆっくりと遠ざかっていった。
「……あ、セリア姉さま、最後まで見てくれてる」
レティアが指先でそっと窓をなぞる。
庭先に立つ姉の姿が、小さくなりながらも変わらず優しい眼差しを向けていた。
「いいお姉さんね。レティア、本当に愛されてるわ」
クラリスの声は微かに笑みを含み、どこか羨ましげでもあった。
「……うん。家のこと、いろいろあったけど……やっぱり、帰ると落ち着くんだよね」
レティアは照れたように頬をかき、視線を少し伏せた。
「そういう場所があるって、いいことだよ」
アリスが柔らかな声で言う。
その表情には、彼女自身が少しだけ遠い記憶を思い出しているような影が差していた。
「アリス?」
「……ううん、なんでもない。行こう、学院へ」
アリスは軽く微笑み直し、前を向いた。
魔導車は軽やかに速度を上げ、浮遊石の光が車体の下で脈動を強める。
エクスバルド家の屋敷は徐々に距離を置き、三人を次の場所へと静かに送り出していった。




