第四部 第ニ章 第11話
アリスはベッドにもぐり込み、ふかふかの枕に顔を埋めた。
布の柔らかさと、わずかに残る昼の陽だまりの匂いが、胸の奥の温かな思い出を静かに灯す。
――また、こんな時間が訪れますように。
そう願いながら、彼女はゆっくりと瞼を閉じた。
……気づけば、そこはもう、自分の部屋ではなかった。
空は深く澄んだ蒼。
風は冷たく、それでいて乾いた草原を優しく撫でていく。
遠くに見えるのは、崩れかけた石造りの塔。黒く煤けた旗が、風に裂かれながらもなお翻っている。
足元には瓦礫。尖った石片と鉄の欠片が散らばり、地面には無数の焦げ跡とひび割れが走っていた。
焦げた匂いと、どこか鉄錆に似た重い匂いが鼻腔を刺す。
「……ここ、知ってる」
その声は、驚くほど静かだった。
胸の奥からこみ上げるのは懐かしさと痛み。
言葉にできないほど深く、古い記憶の底をかき混ぜるような感覚だった。
「なんで……いま、この場所が……夢?」
アリスは足元の石をそっと蹴る。
乾いた音が、誰もいない草原に虚しく転がっていった。
「ここ……三百年前の……」
言いかけた瞬間、胸がズキリと疼いた。
風が塔を通り抜け、ひゅう、と悲しげに鳴く。
その音がまるで、失われた声の残響のようで、思わず立ち止まる。
「やっぱり……そうだ。ここは……」
視界に広がるのは、前世レティシアが最後に見た戦場の“残滓”。
陽光すら白くかすみ、どこか現実ではない歪みがある。
「いつか……向き合わなきゃいけないと思ってたけど」
アリスはふっと細く息を吐いた。
草原の冷気が頬を撫で、背筋へと薄く入り込む。
「どうして……いま、なの?」
この問いは、誰に向けたものでもなかった。
けれど誰かが答えてくれそうな気がして、彼女はゆっくりと辺りを見渡した。
「レティシア……なの?
それとも、ただの記憶の断片……?」
塔の影が、夕暮れの色に沈むように長く伸びる。
風に揺れる黒旗がミシミシと軋み、その音が胸の奥に染み込んでくる。
「ここで……私は……何を失ったんだっけ」
思い出そうとした瞬間、胸が苦しく締めつけられた。
呼吸が一瞬止まり、膝がわずかに震える。
「……怖い、わけじゃない。ただ……」
アリスは手を胸元に当て、押さえるように目を閉じた。
「ちゃんと……知りたいの。
私の中にいる“彼女”が……何を抱えていたのか。
そして……私が、どう生きていくべきなのか」
深呼吸すると、乾いた草と灰の匂いが肺に満ちた。
その感触が、確かに現実のようで、夢とは思えなかった。
「――導いて。
あなたの記憶なら……私は全部、受け止める」
その一言は、静けさの中に吸い込まれた。
けれど次の瞬間、塔の影から、誰かがこちらを見つめているような気配がした。
「……誰?」
アリスは身構える。
夢のはずなのに、心臓が強く打つ。
草原で、風が一度だけ、異様なうなりを立てた。
前世――レティシアとして生きた記憶の中に確かにある、かつての戦場の一つ。
耳に蘇るのは、剣が空を裂く鋭い音。
魔力が炸裂し、視界を白く焼く閃光。
断末魔と怒号が重なり合い、祈りにも似た叫びが遠く近くから響く。
『レティシア……! 退いてください!』
はっと振り返ると、そこに立つ仲間の姿――しかし、その顔は霞がかかったようにぼやけ、表情は読み取れない。
それでも、その震える声は確かに自分を案じていた。
「大丈夫。私は、まだ倒れていないわ」
硬質な金属音が響く。
彼女の背後で、五つの光球が淡く輝きながら浮かび上がり、音もなく旋回を始めた。
全身を包み込むように、眩い魔力の奔流が迸る。白銀の戦装が身体に形成され、その表面には緻密な魔術式の文様が脈動していく。
「……いや。全隊、私の後方に下がれ」
「ここからは――私が押し通す」
声は冷たく澄み、鋼のように揺るがなかった。
視線の先、荒野を割って進み出る巨影があった。
それは魔将バロールの眷属――《呪獣グリフォラス》。
黒曜石のような外殻を持つ四肢は、地を踏むたびに大地を抉り、無数の破片をまき散らす。
鞭のようにしなる尾は、蛇の動きを模すように波打ち、時折地面を砕いて煙を巻き上げた。
紫色の双眸は爛々と輝き、そこに映るすべてを捕食対象として見据えている。
「目障りな……人間が」
低く、地を震わせる咆哮が響き渡る。
その声だけで空気が震え、荒野全体が唸りを上げた。
次の瞬間、呪炎と呼ばれる黒き火が、竜巻となって戦場を薙ぎ払った。
炎が草を焼き、瓦礫を炭へ変え、空気までも焦がしていく。
「全員伏せて!」
「レティシア、下がってください!」
「下がらなくていいのよ――ほら」
レティシアは片足を引き、地を強く蹴った。
砂塵が爆ぜ、彼女の姿は残像と化して前へ跳ぶ。
光球が一斉に輝度を増し、回転速度を上げる。
淡い音が空気を震わせ、周囲の魔素が引き寄せられるように渦を巻く。
「――《フレイム・ボール》!」
五つの球体が唸りを上げながら高速旋回。
次の瞬間、圧縮された高密度の魔力弾が連続して射出される。
「撃ち抜けぇっ!!」
魔力弾は流星群のごとく呪獣を包囲し、爆炎と衝撃を伴って肉体を抉った。
轟音が荒野を揺らし、土煙が視界を覆い、空気そのものが震える。
「……やったのか?」
仲間の誰かが呟いた。
だが――。
《再生開始──構成式再構築》
呪獣の巨躯が赤黒い魔素をまとい、裂けた肉が瞬く間に繋がっていく。
骨が伸び、筋が張り、皮膚が再び鎧のように覆っていく。
その様はまるで、死という概念を拒絶する神性の化身だった。
「嘘……あの傷が……?」
「まだ足りない。威力が」
レティシアは息を整えながら、静かに剣を構え直す。
赤黒く輝く双眼が一瞬こちらを射抜き、轟音とともに呪獣が大地を踏み砕く。
「来る!」
レティシア――いや、アリスの中の彼女が瞳を細く研ぎ澄ます。
咆哮と同時に、口腔から奔流の黒炎が吐き出された。
生き物のようにうねる炎は地面を舐め、瞬時に石を赤熱させ、触れた空気を歪ませる。
「……くっ!」
剣を逆手に構え、左斜め前へ滑るように飛び出す。
炎の縁を紙一重で抜け、その頬を熱が掠める。
焦げた髪の匂いが鼻を刺し、身体の表面がじりじりと焼かれた。
「レティシア!!」
「問題ない……まだ動ける!」
着地の瞬間、視界の端で影が蠢く。
尾撃だ――。
鉄柱をも凌ぐ尾が横薙ぎに走り、背後の岩壁を粉砕した。
風圧だけで肺の奥から息が押し出され、足元の土が剥ぎ取られる。
(速い……これが本気の速度……!)
即死の圧力。それでも心は静まり返っていた。
《エーテルソード》の刀身が青白く輝き、魔力が脈動とともに迸る。
「――クイックアクセル!」
詠唱と同時に時間感覚が引き延ばされ、敵の動きが鈍く見える。
巨爪が迫る。爪先には空間を断つ術式が刻まれている。
「そんな攻撃――見えてる!」
後方へ跳びながら縦に振り抜く。
光刃が爪の表層を削ぎ落とすも、衝撃が肩口に走った。
骨が軋み、熱を帯びた痛みが脳を刺す。
(まだだ――押し返す!)
踏み込み、全身の力を右腕から剣先へ集中させる。
「――レイ・スパーク!」
雷撃が白光を放ち、巨獣の頸部を撃つ。
一瞬だけ黒炎をかき消し、呪獣がわずかに身体を仰け反らせた。
「怯んだ……今よ!」
しかし呪獣は即座に体勢を立て直し、速度を増して迫る。
「しつこいっ……!!」
黒炎と雷光が交差し、爆風が戦場を呑み込む。
砂塵が渦を巻く中、レティシアは耳と肌で空気の流れを読む。
(背後――!)
身体を捻り、刀身を薙ぎ上げる。
硬質な肉を裂く感触。
飛び散る黒い血が頬を打ち、皮膚に貼りつく。
「これで――終わりだっ!」
《ヴィタルブースト》で肉体を限界まで高め、青白い弧を描く連撃を叩き込む。
装甲が断たれ、断末魔が空を裂く。
最後の一閃が首筋を抉り、黒炎が霧散。巨体が崩れ落ちる。
土煙が舞い上がり、静寂が訪れた。
「……やった……?」
荒い息を吐きながら剣を地につく。
しかし――。
《再生開始──構成式再構築》
またしても呪獣の巨躯が赤黒い魔素をまとい、裂けた肉が繋がり始める。
「まだ……再生するっていうの……?」
(これでもダメか……ならば!)
彼女は短く息を呑み、即座に別の術式へ移行する。
魔力構成を変え、詠唱の構造を複層に重ねていく。
《魔力強化式、同時並列詠唱──開始》
光球の輝きが一段階、いや二段階増し、周囲の空間が軋む。
彼女の魔力量は一気に跳ね上がり、白銀の鎧が淡い蒼光を帯びた。
「────これで終わりにする」
彼女は地を踏みしめ、世界そのものを切り裂くように剣を構える。
「受けなさい。――《赫焉の一撃 アーク・エクリプス》!!」
次の瞬間、世界が閃光に包まれた。
一本の光が天地を断ち割り、その軌跡が呪獣の核心部を貫いた。
爆裂音。
衝撃波が荒野全域を吹き抜け、地面に深い亀裂が刻まれる。
轟音と共に大地が裂け、その隙間から東方の川筋の水が土砂を巻き込みながら雪崩れ込む。
呪獣の断片が宙を舞い、水飛沫と共に深い闇へ沈んでいった。
黒煙は空へと立ち上り、遠雷のような水音がいつまでも響き渡る。
ただ一人、その中心に立ち尽くす少女の手には、なおも戦意を帯びた剣があった。
「……終わったわ。もう……二度と蘇らない」
その声は静かで、しかし確かな決意を宿していた。
「──ッ……!」
アリスは汗に濡れた額を押さえながら目を覚ました。
カーテンの隙間から朝の光が差し込み、夢の幕を下ろす。
息はまだ荒く、心臓が胸を強く打ち続けていた。
「はぁ……っ、はぁ……っ……今の……夢、じゃない……」
肩が小刻みに震え、喉が渇いたように声が掠れる。
夢から覚めたばかりのはずなのに、胸の奥に残る余熱は現実そのものだった。
枕は少し湿っており、頬には涙の跡すらうっすら残っている。
「……あの戦場は……“セレスの丘の激戦”だったんだ……」
誰に向けるでもなく呟く。
声に出した途端、胸の奥底に沈んでいた記憶が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
枕元の手が、胸元へとそっと添えられる。
「どうして……いま、あんな鮮明に……。
昔の記憶、じゃない……まるで昨日見た景色みたい……」
今ここにある命は、アリス・グレイスラーとしてのもの。
だがその奥底には、レティシア・ファーレンナイトというもう一人の自分が、確かに息づいていた。
(忘れられるはずがない……。
あれは、ただの夢じゃない。
私の記憶……私たちの、戦場)
戦場の熱、鋭い金属音、魔力の奔流……
そして、失われていった命の重み。
すべてが鼓動と共に蘇る。
「……そうだよね。あの時、誰かが……私を呼んでた。
“レティシア!”って……。あれは……もう、忘れちゃいけない声だよね……」
喉の奥が痛む。
それは悲しみではなく、胸の奥でゆっくりと立ち上がる静かな灯火だった。
恐怖ではない。
むしろ、それは決意を燃やす炎。
(もう、逃げない。
私は私の意思で、この力を使う。
誰かのためだけじゃなくて……私自身のためにも)
アリスはゆっくりとベッドから降り、足先を床にそっとつけた。
まだ夢の余韻が残っているのか、指先がわずかに震えていた。
「ふぅ……大丈夫。落ち着けば……ちゃんと動ける。
……今日から、また始めよう。私の“今”を」
そう呟きながら、寝間着の襟を整え、鏡の前へと歩く。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、昨夜の余韻と夢の残響が、まだ胸の奥で重なり続けていた。
「レティシア……。
あなたの記憶が、私に何を見せようとしているのか……ちゃんと受け止めるからね」
その声は、かすかな震えを帯びながらも、確かに前へ進む強さを宿していた。




