第四部 第ニ章 第10話
庭園の散策を終え、三人はゆっくりと屋敷の廊下へと戻った。
磨き上げられた大理石の床は、足音を吸い込むようにやわらかく反射し、その音が静かな夜の屋敷に心地よく響く。壁には精緻な額縁に収められた油絵や、時を経たタペストリーが等間隔に掛けられ、燭台の灯が織りなす陰影がそれらを静かに浮かび上がらせていた。
それぞれの部屋に戻って身支度を整える間、アリスは姿見の前で櫛を滑らせながら、ふと自分の表情が驚くほど柔らかくなっていることに気づいた。
(……なんだか、昔のことを思い出す日だな)
レティアと過ごす時間は、学院での慌ただしい日々とは違い、胸の奥を穏やかに温める。まるで幼い頃の安心感が、今も変わらず傍にあるようだった。
やがて再びレティアの案内で、三人はダイニングホールへ向かう。
高い天井から吊るされたシャンデリアの光は、無数のカットガラスに反射して宝石のような煌めきを放ち、長いテーブルに掛けられた純白のクロスと銀の輝きを際立たせている。キャンドルの炎が小さく揺れ、温かな光が食卓全体を包み込んでいた。
鼻腔をくすぐるのは、焼きたてのパンの香ばしい匂いと、バターや香草の混ざった豊かな香り――それだけで心がほどけていく。
「わぁ……すごい。これ、全部用意してくれたの?」
アリスは目を輝かせ、宝石を前にした子どものような表情で椅子に腰を下ろす。
「当然でしょ? おもてなしは全力でって、私の信条なんだから」
レティアは得意げに胸を張り、軽く顎を上げた。
「レティア……あなたって本当に、準備に手を抜かないのね」
クラリスが微笑みながら言うと、レティアはふんわりと笑った。
「せっかくアリスたちが来てくれたんだから。家を代表して、私が腕を振るうしかないじゃない」
「……本当に、ありがとう。贅沢すぎて申し訳なくなるわね」
クラリスが口元に柔らかな笑みを浮かべ、ナプキンを静かに膝へと広げる。
「遠慮なんていらないわ。今夜は大切な友達と過ごす夜なんだから、思いきり楽しんで」
銀の蓋が音もなく外され、前菜の皿から湯気が立ちのぼる。彩り豊かなスモークサーモンと季節の野菜が繊細に盛られ、ポタージュスープは一口含めば舌に優しい甘みと温もりが広がる。
ゆったりと食事を楽しみながら、三人は昼間の出来事を笑い交じりに振り返った。
「そういえば、昼間の庭園……レティアさん、木登りしてたって本当だったの?」
クラリスが軽く意地悪そうな視線を送る。
レティアはフォークを持ったまま一瞬固まり、頬を赤く染めた。
「うぐっ……覚えてたのね。でも仕方ないでしょ? 小さい頃、あの大きなリンゴの木に登って、上から叫んだらアリスが本気で怒って――」
「だって危なかったんだもん。あれ、かなり高かったよ」
アリスは呆れたように笑いつつも、目の奥に懐かしさが宿っている。
「……確かにちょっと滑って落ちかけたけど、その時、下で手を広げてくれてたのはアリスだったのよね。すごく安心したの、あの瞬間」
「え、そうなの?」
クラリスが驚いてアリスを見ると、アリスは「まぁね」と気恥ずかしそうに肩を竦めた。
「アリスって、昔から変わらないのね。誰かが困ってると、すぐに助けに入る」
クラリスの言葉に、レティアも深く頷いた。
「ほんと、それ。アリスはちょっと過保護なのよ。小さい頃なんて――」
「レティア、それ以上はダメ」
「えぇ~? ちょっとくらいならいいじゃない」
「ダメ」
二人のやり取りに、クラリスはくすりと笑い、「仲がいいのね」と紅茶を口に運ぶ。
やがてメインの肉料理が運ばれる。芳醇な香りが広がり、刃を入れると柔らかい肉から肉汁が溢れる。
「……たまには、こうして誰かと落ち着いて囲む食卓もいいな。学院だと、食堂はいつも騒がしいから」
アリスがぽつりと言う。
「それが学生らしいってことなのかもね。でも、こういう静かな食事は心に余裕をくれるわ」
クラリスは、キャンドルの炎を眺めながら穏やかな声で返した。
「ねぇ、アリス」
レティアが柔らかく呼びかける。
「あなたがこうして笑って食べてくれてるだけで、私、本当に嬉しいのよ。今夜は……その、ありがとう」
「レティア……」
アリスは胸の奥が温かくなるのを感じながら、静かに微笑んだ。
「私も。すごく、嬉しいよ。帰ってきてよかったって思える」
クラリスは二人の様子を見て、ふんわりと微笑みながら言った。
「……うん。こういう時間は、大切にしなきゃね」
食事を終えた三人は、暖炉のある応接室へ移動した。
炎が静かに揺れ、部屋をオレンジ色の柔らかな光で包む。ソファに腰掛け、デザートのフルーツと香り高い紅茶を手に、再び穏やかな会話が始まる。
「ねぇ、アリス」
レティアが紅茶を揺らしながら問いかける。
「明日……王都に戻る前に、もう一度朝の庭、散歩しない?」
「うん。もちろん。レティアと一緒なら、どこでも」
「……ほんと、そういうところ、反則だよね」
レティアは照れ笑いをし、クラリスは静かに吹き出す。
夜はまだ柔らかく、三人の笑い声と暖炉の音は、ゆっくりと深まる時間の中へ溶けていった。
「そういえばレティア、これまだやってるの?」
アリスが指差したのは、棚に置かれた木製のチェス盤だった。
淡い灯火に照らされ、磨かれた木肌が静かな艶を放っている。レティアの部屋の空気は、昼間とは違う落ち着いた温度を帯びていた。
「ええ。最近はお父様とも対戦していないけど……アリス、やる?」
レティアはチェス盤をそっと手元に引き寄せながら、どこか嬉しそうに微笑んだ。
「いいよ。クラリスは?」
アリスが振り返ると、ソファの端で書類をまとめていたクラリスが顔を上げる。
「私は見ているわ。二人の勝負、きっと白熱するでしょうし……それに、こういう時間、好きなの」
盤上に駒が並ぶと、室内の空気がわずかに張りつめた。
レティアが駒を整える所作はまるで儀式のように静かで、アリスも思わず息を潜める。
アリスは駒を指で軽く撫で、初手を慎重に選んだ。白番はアリス、黒番はレティア。
そして王前のポーンを二歩進め、中央支配を狙う正統派の出だしを選択する。
「来ると思ったわ。アリスらしい初手ね」
レティアが微笑んだ瞬間、ナイトが軽やかに跳ねるように前へ躍り出た。
(序盤から速攻型……ほんとにレティアらしい)
アリスは内心でそう評しつつ、守備的にビショップを展開。そして、迷いなくキャスリングを済ませた。
盤上に布陣の音が小さく響き、王を安全圏へ退避させる。
「おお……展開が速いなあ」
クラリスが楽しげに呟く。
「まあね。レティアが突っ込んでくるなら、私もそれなりに守らないと」
アリスは肩をすくめて見せた。
対するレティアは、中央のポーンを押し上げ、ナイトとビショップを連動させるようにアリスの防衛線をじわじわ圧迫する。
「ちょっと、レティア……攻めすぎじゃない?」
アリスが半ば呆れた声を上げる。
「ふふ。これが私のスタイルよ。攻めなきゃ勝てないもの」
その言葉とは裏腹に、レティアの指先は極めて慎重だ。
ポーン一つですら、数手先を正確に読んでいる。
「……くるなぁ、この感じ」
アリスが小さく息をついた。
「アリス、頑張って」
クラリスが囁くように声援を送る。
その声音には励ましだけでなく、三人の絆の温かさが滲んでいた。
中盤戦に入ると、盤上の中央は黒駒の影に覆われ、アリスの陣形は押し込まれていく。
前線に出ていたナイトが捕獲され、硬質な音とともに盤上の空気がわずかに震えた。
(ここからどう動く? 焦ったら負ける。レティアの罠に自分から突っ込むだけ)
アリスは深く息を吸い、右サイドからルークを展開させた。
あえて交換を誘い、盤上の駒数を減らすことで、レティアの攻撃力を削ぐ狙いだ。
だが――レティアもまた、それを見抜いていた。
「……交換には乗らないわ。あなた、そうやって流れを変えるでしょう?」
レティアの声音は落ち着いていて、同時に楽しげだった。
「読まれてるなあ、完全に」
アリスが苦笑する。
「ええ。あなたのクセ、全部じゃないけど……だいたいは覚えてるもの」
レティアは淡々と駒を進め、包囲網をさらに狭めていく。
「おや、攻め手を止めないのね」
クラリスが観戦席から微笑む。
「止めたら、アリスに切り返されるのが目に見えてますもの」
レティアは静かに言い、視線を盤へ戻す。
アリスはその言葉を背に、盤面を凝視した。
一点――中央の黒ポーンの背後で、レティアのビショップとルークが互いを支え合うように重なっている。
強固だが、動きが重なる位置でもある。
(……今のうち。あそこに歪みを作れば、一気に崩せる)
アリスはクイーンを大きく回り込み、敵陣斜め後方へ。
レティアの眉がわずかに動く。
「その位置……本気ね、アリス」
レティアは小さく息を呑んだ。
「もちろん。レティア相手に手を抜くわけないでしょ」
アリスはナイトを跳び込ませ、キングサイドにチェックを加える。
レティアがルークで受けた、その瞬間――
「……よし、行くよ」
アリスは駒を連動させ、一気に中央突破へ踏み切った。
「えっ……うそ、ここで!?」
レティアの声が揺れる。
「チェック……そして、チェックメイト」
アリスは静かに宣言した。
レティアは盤面を見つめ、目を見開き、小さく息を吐く。
その横顔は、驚きと、そしてほんの少しの悔しさで満ちていた。
アリスは思わず両手を挙げ、子どものように無邪気な笑顔を浮かべた。
「やった……! 本当に勝った!」
「くぅ……見事ね。あんなぎりぎりから逆転するなんて、成長したじゃない」
「今のは、ちょっとだけ燃えたよ。久しぶりに本気で考えた」
クラリスはそんな二人を微笑ましく見守りながら、ティーカップを口元に運んだ。
「いい夜ね。勝敗はさておき、こんなに楽しいチェスは初めて見たわ」
夜も更け、灯りを少し落とすと、室内に静寂がそっと戻ってきた。
三人はソファに寄りかかるように座り、対局後の余韻に浸る。
「……明日はもう王都に戻るんだね」
アリスがぽつりと呟くと、レティアとクラリスも小さく頷く。
「帰るのは寂しいけど……でも、またすぐ会えるわよ」
レティアが微笑む。
「うん。今日みたいな夜があるなら、何度でも来るわ」
アリスの言葉は素直で、どこか切なさを含んでいた。
「そうね。場所がどこであれ、心の距離って不思議と変わらないものよ」
クラリスが柔らかく言う。
カーテンの隙間から、夜空の星が静かに瞬いている。
語らいの温もりを胸に抱きながら、それぞれの客間へ戻る時間がゆっくりと訪れた。
夜が更け、屋敷の中も静まり返っていた。
アリスは自室に戻ると、そっとカーテンを指先でつまみ、わずかに開いた布の隙間から外をのぞいた。
窓の外には、澄みきった夜空が広がっていた。
星がひときわ鮮やかで、月の光が屋敷の庭園を薄く照らし出している。
昼間とは違う、どこか幻想めいた青白い光が、花々や石畳に静かな表情を与えていた。
「……きれい」
アリスは思わず小さく呟いた。
庭を渡る風が、かすかに木々の葉を揺らす。
その揺らぎが、まるで今日の思い出を優しくなぞってくれているようだった。
「明日には……また日常が始まるんだよね」
ぽつりとこぼした言葉が、夜の静寂に溶けて消えていく。
「別に、寂しいわけじゃないけど……」
アリスは窓枠に触れながら、そっと息を吐いた。
「でも……こういう時間が終わっちゃうのは、やっぱり惜しいな」
今日のこと――
レティアの笑顔。
クラリスの穏やかな声。
三人で囲んだチェス盤と、あの静かで温かい空気。
ひとつひとつの記憶が胸の内をめぐり、じんわりと温度を帯びていく。
アリスはベッドへと歩み寄り、ふかふかの布団に身を沈めた。
枕に顔を埋めると、ほのかに漂う薬草の香りが心を落ち着ける。
「……もう少し、みんなと話したかったな」
ぼそりと漏れた声は、誰に聞かせるでもないひとり言。
「レティア、また対戦してくれるかな……クラリスも見に来てくれるよね」
自然と口元がほころぶ。
「……会いたくないわけじゃないし。むしろ……ううん、すぐ会いたいって、思っちゃってるし」
自分の言葉に照れたように、アリスは枕にぐりぐりと顔を押しつけた。
胸の奥で、今日の温かい記憶がふっと灯をともすように広がっていく。
この日が楽しかったという思いが、眠気よりも先に心を包んでいく。
「――また、こんな時間が来るといいな」
願うというより、確信に近い響きだった。
「絶対、また……集まろうね」
誰にも聞こえない小さな声で、アリスはそっと呟く。
そのまま静かに目を閉じると、外から吹き込む夜風が、彼女の金色の髪先をやさしく揺らした。
眠りへ落ちていく直前、アリスの唇は微かに笑みの形を作っていた。
それは――今日の幸福がそのまま明日へ続いていくような、穏やかで柔らかな笑みだった。




