第四部 第ニ章 第9話
セリアが静かに部屋を後にし、重厚な木扉が小さな音を立てて閉まると、応接室には再び穏やかな空気が戻った。
姉の香水のほのかな甘い香りがまだ残っており、それが古い木材の匂いと混ざって、ゆったりと室内に溶けていく。
高い天井から吊るされたクリスタルのシャンデリアは、夕暮れの光を受けて淡く煌めき、長椅子の縁やティーテーブルの銀細工をほのかに照らしていた。
「……ふぅ。やっぱり、セリアお姉様の前だとちょっと背筋が伸びるわよね」
クラリスが苦笑混じりにそう言うと、アリスも小さく笑いながら頷いた。
「うん。でも、あんなふうに声をかけてもらえると、やっぱり嬉しいな。小さい頃からずっと可愛がってもらってたから」
「本当にね。あの優しさ……ちょっと羨ましいくらいよ」
クラリスはカップを置きながら、どこか柔らかい目をして続けた。
「アリスのこと、まるで自分の妹みたいに扱ってるもの。あれは……たぶん本気ね」
「うん、わかる。お姉様、アリスにだけ声のトーンが違うのよ」
レティアは、どこか誇らしげに微笑む。
「普段はもっと落ち着いているけれど、アリスと会うと昔の妹みたいに接してくれるのよ」
「えへへ……」
アリスは照れ笑いを浮かべ、そこには言葉にできない親しさの温かさがにじむ。
ふと、アリスは何かを思い出したようにレティアへ視線を向けた。
「そういえば……お兄様は?」
レティアはわずかに目を瞬かせ、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「兄? ……あまり詳しくは知らないけれど、今は王城で財務関係の業務についているはずよ。細かいことまでは聞いていないの」
「へぇ……てっきり、魔術師団に入るのかと思ってた。レティアのお兄様なら、てっきり剣か魔術のどっちか極める方向かと」
「私もそうなるんじゃないかと思っていたんだけど……本人があまり多くを語らないから、正直よくわからないのよね」
レティアは前髪を指で払って、少し困ったように肩を竦めた。
「兄、ああ見えて頑固なところがあるの。何か決めたら言わなくなるのよ。家族にも」
「ふぅん……」
アリスは小さく頷き、どこか興味深そうな表情を浮かべた。
クラリスはそのやり取りを、淡い笑みを浮かべながらも口を挟まず、二人の関係の温かさを感じ取っていた。
やがて、彼女はそっと口を開く。
「レティアさんのお兄様……どんな方なのかしら。今度お会いする機会があれば、ちょっとお話してみたいわね」
「やめて、絶対びっくりするから……クラリスさん、すごく分析しそうだもの」
レティアが付き合いの長さゆえの冗談を挟むと、
「ふふ、否定はできないかも」
クラリスも穏やかに笑った。
「……それより、そろそろお部屋に案内しようかしら?」
レティアの一言に、アリスが頷き、クラリスもゆるやかに立ち上がる。
「楽しみ。エクスバルド邸に泊まるの、実は久しぶりなんだよね」
「私なんて初めてよ。見るもの全部が綺麗で……ちょっと緊張するくらい」
「大丈夫よ、クラリスさん。遠慮なんていらないわ。ここはもう、アリスの家のようなものなんだし」
「わ、わたしの家って言うほどじゃないよ……?」
「ほら、昔しょっちゅう泊まってたじゃないの。お父様も“もう家族みたいなものだろう”って言ってたもの」
「えっ……初耳なんだけど……」
アリスは少し耳を赤くし、クラリスは「素敵ね」と静かに微笑んだ。
応接室を出ると、廊下は夕暮れ色の光に満たされていた。
壁には年代物の油絵や王都の古地図が飾られ、足元の絨毯は深いワインレッドに金糸の文様が織り込まれている。
「……改めて思うけれど、本当に広い屋敷ね」
クラリスが感嘆混じりに言う。
「迷ったら呼んでね?」
レティアが冗談めかして振り返る。
「え、それフラグじゃない……?」
アリスが思わず突っ込み、三人の笑い声が廊下に柔らかく響いた。
廊下の端に並ぶ燭台には、すでに魔導灯が灯され始めており、琥珀色の光が柔らかく壁面を照らしていた。
アリスはその景色に、幼いころ何度もこの屋敷に遊びに来たときの記憶を重ね、自然と頬を緩める。
隣を歩くレティアもまた、どこか懐かしそうに廊下を見渡していた。
クラリスは静かに二人の少し後ろを歩き、その穏やかな空気を壊さぬよう、足音さえ抑えてついていった。
窓の外には、午後の陽光がゆっくりと傾きはじめ、庭の木々が長く柔らかな影を芝生の上に落としていた。光はすでに真上からではなく、斜めから差し込むため、枝葉の間をすり抜けて地面に複雑な模様を描き出している。わずかに開けた窓からは、花壇の花々が放つ甘やかな香りと、風が運んでくる草木の青い匂いが混ざり合い、ほのかに室内へと流れ込んできた。
「……なんだか、時間がゆっくり流れてるみたい」
アリスがぽつりと呟くと、
「そうね。王都の学院とは空気がまったく違うわ」
クラリスは窓の外を見ながら、静かな声で言う。
「ふたりとも、ここはそういう場所なのよ」
レティアが微笑んだ。
「ここにいると、どうしても“家の時間”になるっていうか……余計なことを考えるのが馬鹿らしくなるの。私が学院から帰ってくるときは、だいたいこの廊下を歩きながら深呼吸してるわ」
「わかる気がする」
アリスはくすりと笑った。
「私も、来るたびに落ち着くもん。昔はこの辺りを全力で走って、オスカーさんに怒られたけど……」
「……あったわね、そんなこと」
レティアは口元を押さえて笑い、
「『お嬢様、走ると危のうございます!』って、あの低い声で本気で心配されてたわよ」
「え? アリスさんがそんな……」
クラリスが意外そうに目を見開き、アリスは慌てて両手を振った。
「ち、ちがうの! あれはまだ小さい頃の話で……!」
「小さい頃でも、全力で廊下を駆け抜けるあたりアリスらしいけど」
レティアがくすくすと追い打ちをかける。
「やめてぇ……!」
アリスは頬を赤らめ、クラリスは「ふふ」と洩れるような笑いを浮かべた。
「ディナーの前に少し休めるように、それぞれの部屋もちゃんと用意してあるからね。アリスはいつもと同じ客間。クラリスさんはその隣よ」
レティアはやや誇らしげな口調でそう告げる。彼女の家で客をもてなす時の、この落ち着いた立ち居振る舞いは、普段の学院生活で見せる同級生としての顔とはどこか違って見えた。家の空気に馴染んでいるせいか、その姿には自然と“エクスバルド家の令嬢”としての品格が滲み出ている。
「丁寧に用意までしてくれて……ありがとう。遠慮なく休ませてもらうわ」
クラリスは静かに頭を下げ、レティアの案内を受ける。
「ほんと、気配りが細かいよねレティアって」
アリスの言葉に、
「まあ、家の顔だもの。こういうところは鍛えられるのよ」
レティアは軽く肩を竦めつつも、表情はどこか嬉しそうだった。
まずクラリスを自室に案内したレティアは、扉の前で軽く会釈し、「ゆっくりしていてね」と柔らかく声をかけた。クラリスもにこやかに「ありがとう」と返し、扉の内に消える。
「クラリスさん、すごく丁寧で落ち着いてるけど……」
レティアは扉が閉まったあとで、アリスに小声で囁く。
「ちょっと緊張してたわね。表情に出てた」
「だよね。無理もないよ。初めてだし……それに、エクスバルド家って、やっぱりすごいし」
アリスは小さく笑いながら肩をすくめる。
「ふふ、大丈夫よ。クラリスさんならすぐ慣れるわ。あの人、丁寧だけど度胸もあるもの」
「……それ、わかる」
アリスは軽く笑い、二人で廊下を進む。
そのままレティアは再び廊下へ戻り、アリスを伴って隣の客間へと向かう。磨かれた木の床が、歩くたびに小さく靴音を響かせた。
「ありがとう、レティア。細やかな心配りね」
アリスの言葉に、レティアは軽く肩を竦める。
「だって、今日は特別な日なんだから。明日にはまた王都に戻っちゃうんだもの、今夜くらいは思いっきり楽しまなきゃ」
「そうだね……うん。楽しむ。久しぶりに息抜きできる気がするよ」
アリスに用意された客間は、淡いクリーム色の壁紙と白木の家具が調和した、落ち着きのある空間だった。家具は古くから使われているものだが、丁寧に手入れされ、艶やかに光を返している。天蓋付きのベッドには季節に合わせた軽やかなリネンが掛けられ、カーテンは透けるような生成り色。窓辺には小さな丸いティーテーブルと、同じ布張りの椅子が二脚並べられていた。
「……うん、落ち着く。ここ、好きなんだよね」
アリスは、懐かしむ声で言った。
「知ってるわ。来るたびに“帰ってきた”みたいな顔してたもの」
レティアが楽しそうに笑う。
「レティアの家なのに、私が帰ってきたって言うのも変な話だけどね」
「いいじゃない。私の家は、アリスの“帰る場所”でもあるのよ」
レティアは軽やかにそう言い切る。
「……勝手なこと言ってるように聞こえるかもしれないけど、私、そう思ってるの」
「……うん。ありがとう」
アリスは少しだけ目を伏せた。
アリスはそっとカーテンを引き、外の景色に視線をやった。
西日を浴びた庭園は黄金色に染まり、芝生は柔らかな光をまとって輝いている。整然と手入れされた植栽のあいだでは、季節の花々が微かな風に揺れ、花弁がきらきらと反射光を散らしていた。中央の噴水からは、絶え間なく透明な水が湧き上がり、細かな飛沫が陽光を受けて虹色の粒を作っている。その水音は、ここまで届くほど静かな夕暮れの空気の中で、心地よいリズムを刻んでいた。
「……わぁ、懐かしい」
思わず零れたその呟きは、記憶の底から引き上げられた思い出の断片と共にあった。学院入学前、緊張と期待の入り混じったあの日のことが、胸の奥に蘇る。
「ねぇ、アリス。覚えてる?」
レティアがそっと隣に立つ。
「あなたが学院に行くって決めたとき、この景色を見ながら、泣きそうになってたこと」
「……覚えてるよ。レティアが、ずっと傍にいてくれた」
「当たり前でしょ。私の大事な親友なんだから」
レティアは微笑んでアリスの肩に手を添える。
「それに、今日だって同じよ。アリスがここにいると、なんだか嬉しくなるの。……理由なんて、いらないくらいにね」
「……うん、ありがとう。ほんとに」
アリスはその言葉を噛みしめるように目を閉じた。
コン、コン、と軽やかなノック音が響く。
「入っていい?」
扉越しに聞こえたのはレティアの声。返事を待たずに扉が静かに開き、彼女がクラリスを伴って入ってきた。二人とも、すでに部屋着ではなく軽い外出用の羽織を手にしている。
「ちょうど準備も済んだみたいだし、ディナーの前に少し庭を散策しない? この時間の庭園、けっこう綺麗なのよ」
「いいね。あの噴水、ちょっと気になってたの」
アリスは窓から見えていた景色に惹かれて頷く。クラリスも、少し嬉しそうに目を細めた。
「ええ、散歩にはちょうどいい時間かも」
「じゃあ決まりね。ほら、アリス、羽織忘れてるわよ」
「あ、ほんとだ……ありがと」
レティアが肩に軽く掛け直してくれ、アリスは少し照れたように笑った。
クラリスはそのやり取りに「ほんと仲がいいのね」と苦笑しつつ、自分の羽織を整える。
三人はそれぞれ羽織を肩に掛け、廊下を抜けてテラスへ出る。
石畳を踏みしめた瞬間、草花の香りがふわりと漂ってきた。空はまだ茜色と金色の境目にあり、遠くの雲が縁を染めている。風は柔らかく、頬を撫でるたびに心を解きほぐすようだった。
「ここは、子どもの頃よく駆け回ってた場所なの」
レティアの声には、懐かしさと少しの照れが混じっている。
「レティアが? お姫様みたいな顔して走り回ってたの?」
アリスがからかうと、レティアはむっと頬を膨らませた。
「ちょっと失礼ね。でもまぁ……昔はスカートで木登りもしてたくらいだし」
「それは想像以上だわ」
クラリスが肩を揺らして笑う。
「ほんとよ。私、初めてレティアがスカートのまま木にぶら下がってるの見た時、変な声出しちゃったもん」
「アリス、それは忘れてって言ったでしょ!」
レティアは顔を赤くしながらも、どこか楽しそうだ。
「そういえば……あの辺のクスノキ、覚えてる?」
指差した先には、庭の奥に堂々とそびえる大樹があった。
「あー……覚えてる。レティアが泣きながら私の手を掴んで――」
「やめて、その話いまは私がするわ!」
レティアが慌てて遮りながら話を続ける。
「昔、兄と追いかけっこしてたとき、木の根元でつまずいて、大泣きしたの。ちょうどお父様が来賓を案内してたときだったから、大目玉よ。スカートも破けて……そのあと、メイドさんたち総出で庭の整備が始まったんだから」
「わかる……エクスバルド家の“本気の対処”ってすごいものね」
クラリスは深く頷き、レティアは肩をすくめて笑った。
アリスは吹き出すように笑った。
「……あったね。泣きながら『アリス、帰らないで……』って言ってたよ」
「ちょっ……! だからその話はやめてってば!」
レティアが顔を両手で覆い、クラリスが「かわいい」と小声で笑う。
しばし歩を進め、噴水の前で立ち止まる。
水面には空の色が映り込み、金と朱のグラデーションが揺れている。
「アリスが最後にここに来たのって、たしか入学した年の春休みだったわよね」
「うん。レティアの招待で、学院が始まる前にここに泊まりに来て……あのとき、入学の壮行会も兼ねてだったから、少し緊張してたな」
「でも、夕方になってこの庭を一緒に歩いて、噴水の縁に座って話したじゃない?
――剣術の話とか、戦術演習の目標とか、すっごく真面目に語ってくれた」
「……あの頃は、真面目にしか話せなかった気がする」
アリスは視線を落とし、少し照れたように笑う。
「それが、すごく嬉しかったのよ。学院に“本気で何かをやろうとしてる子”がいるんだって、あの日、私……ちょっと勇気もらえたの」
「……そんなこと、言ってたっけ?」
「言ってないわよ。でも、ちゃんと伝わってた」
「……私も、あの日のレティアを覚えてる。なんていうか、すごく綺麗で……優しくて。私も、負けたくないって思った」
アリスが照れながら言うと、レティアは一瞬だけ目を丸くし、
「……そんなこと言われたら、意識しちゃうじゃない」
と頬を赤らめた。
クラリスは微笑みながら、二人のやり取りを温かく見守っている。
三人の笑い声が、噴水の水音に重なり、暮れゆく空へ溶けていった。
やがて花壇の縁に腰を下ろし、取りとめもない話をしながら時を過ごす。
アリスが学院での珍事件を語り、クラリスが研究室での失敗談をこっそり暴露し、レティアがため息をつきながらも大笑いする。
気づけば、空は茜から群青へと変わりつつあった。
「そろそろディナーの時間ね」
レティアが立ち上がった時、アリスは思わず名残惜しそうに噴水へ振り返った。
クラリスは「夕食のあと、また少し歩いてもいいわね」と微笑み、三人は邸内へと戻った。
屋敷の窓からは温かな光が漏れ、夜の帳がゆっくりと降りはじめていた。




